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青の住人  作者: 濱野 十子
五章 深い海の底
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「くそっ」

 舌打ちをした真朱は、点滴のために捲り上げていた袖を下ろし、フリッパーに乗りこむためのタラップへ向かって、肩を怒らして歩いて行く。

「あ、あのっ」

「海に潜る行為が危険なことはわかっているだろうな? 気を許せば、自我を飲み込まれるぞ」

「……はい」

 頷けば、真朱は「仕方ない」と肩をすくめ、なにも言わずに、全面の操縦席へと乗りこんだ。

「さあ、行っておいで」

 リドフォールに後押しされ、カチは真朱の機嫌を伺いながらタラップを進み、後部座席へと乗りこんだ。見た目よりも柔らかい乗り心地に驚く。

「あの、真朱さん。ごめんなさい、わたし」

「いいから、黙ってろ。決めたんだろう、行くってな」

 慣れた手つきで、始動のための手順をクリアしてゆく真朱は振り返らない。黙々と作業を行っている姿に、声を掛けられるほど、カチも無粋ではない。

 徐々に振動を強くしてゆく機体に同調して早くなる鼓動に、カチは膝の上で拳を握った。

 真朱はインカムのついたサイレンスを被り、両手を操縦桿に絡ませる。僅かに前傾姿勢を取って、操縦桿を両手に握った。

 ディスプレイの全てのランプに青が灯り、発進のための全ての準備が整った。キャノピーがゆっくりと降りてきて、密閉される。

「環境保護機関所属、小型潜水艇フリッパー十八号機、発進する」

『了解。進路クリア。艇内環境問題なし。十八号機、潜航されたし』

 機械的なオペレーターの合図とともに、フリッパーは指示のとおりに潜航を開始した。

 広いキャノピーが白い泡に包まれ、すぐにとてつもない圧迫感に満たされる。

 視界は漆黒に染まり、明りといえば、計器類が放つ僅かな光が、蛍のように浮かび上がるばかりとなった。

「真っ暗、ですね」

 急に怖くなり、語尾に震えが混じるカチを、真朱は笑った。

「怖がることはない。まだヒメガミの中だ」

『十八号機、誘導灯に従って発進してください』

暗闇の中で、オレンジ色の点が真っ直ぐに灯る。

「了解。十八号機、発進する」

 真朱が握りしめた操縦桿を押し込むと同時、フリッパーは嘶きのような声を上げ、滑るようにして誘導灯の上を進んでゆく。

 ぽつぽつと、一直線に並んだオレンジ色の誘導灯がやがて一つの筋となり、フリッパーは艦内に湛えられた海水を突っ切って、深海へと飛び出した。

 僅かに日の光が射し込む海の底。

 それでも、フリッパーのライトが届く範囲でしか視界が効かない空間は、物静かな重圧をカチに押しつける。

「これが、海の中?」

「艇搭載の思念遮蔽装置の有効効果時間は、約五時間。ゆっくりしている暇はない、一気に行く」

 フリッパーの腹についたシャフトが回り、スクリューが回転する。

 ほとんど視界が効かないために、微弱な振動が無ければ、ただ浮かんでいるだけのように感じた。不思議な感覚だった。

 緊張した面持ちで計器類を操作する真朱には申し訳ないが、カチは半ば物見遊山のような面持ちで、キャノピーの外に広がる闇を見つめていた。

 同じ海なのに、今、胸中にあるのは底の知れない不安だった。アンピトリテとして目覚める前、シロイルカだった自分は、こんな感情を抱いた覚えはない。

(考えたこともなかった。むしろ、なにかを思うことすら、無かったのかもしれない。泡に飲み込まれたあの時まで、一度も)

 背筋に悪寒が走る。

 引きずり込まれてしまいそうな深い闇から目を逸らし、カチは真朱の背中へ視線を向けた。

 二人きりの空間、無音に近いもの寂しい雰囲気の中で、カチは真朱の存在をより強く感じていた。

 多面感応能力が感じ取った真朱の感情は、激しく、暖かく――張り詰めていて、少しばかり悲しい。その全ての感情が、カチへと向けられている。

「安心しろ……なんて言い切れないが、こうなった以上は絶対に俺がお前を守る。だから、あまり怖がるなよ」

「はい。ありがとうございます、真朱さん」

「やれることはやる。だが、過信はするなよ」

 カチの視線に、真朱は溜息をついた。

 面倒くさそうな口調だが、建前ではなく本心からの言葉だとカチにはわかる。だからこそ、カチは不思議に思った。

 なぜ、命を掛けてまで自分を守ろうとしてくれるのか、と。

「真朱さんは、どうしてここにいるんですか?」

 疑問は、無意識に言葉となって口から出ていた。怪訝そうな顔をして振り返った真朱に、カチは変なことを言ってしまったと思って、俯く。

「……俺の存在価値は、あまりない。誰も潜れない海の底を這いずりまわり、血を抜かれて刻まれる。それくらいの価値しか、俺にはないよ」

 自虐的な言葉だ。

 カチはあまりの痛々しい感情に、下げた視線を再び持ち上げた。

 真朱から伝わってくる感情は、日本国庁舎で見た人工的に作られた薔薇を連想させた。柔らかい花弁を守るように生える、鋭い棘を持った美しい作り物の花だ。

 真朱は、わざと棘をちらつかせて、本心を探られることを拒んでいる。カチは、はっきりと思った。

 追及を避けるように外される視線。カチはすうっと息をついて、瞼を閉じた。

 浮かんでくるのは、大勢のアンピトリテを使って作られた無慈悲なタワーの姿。炎の中で倒れている、無数のマーフォーク。 

 暴力的な主張と粛正の中でただ独り生き残った真朱は、何を思っていたのだろうか。

 悲しいまでの強い決意と繋がっている光景を心の中にある目で見つめ、カチはこみ上げてくる熱い思いに唇を噛んだ。

「……ここか」

 フリッパーの震動が止まる。

 カチは周囲にぽつぽつと浮かぶ星のような光に目を瞬いた。先行していた他のフリッパーだろう。

 カチはライトが照らし出す、海底に開いた大きな穴に体を強張らせた。覚えている。

『全機、作戦を開始してくれ』

 スピーカーから漏れ出てきたリドフォールの声を合図に、全部で十機のフリッパーが大穴に向かって潜行を開始した。真朱は一番最後、他の九機とは距離を置いて潜る。

 メタンの流出は落ち着いているのか、時折もわっと白い泡が湧き上がるぐらいで、潜行には問題なさそうだ。

 重く、奇妙な沈黙の中。フリッパーは深い縦穴を沈んでいった。

「近い」

 引き寄せられるような感覚に、カチは無意識のうちで呟いていた。

 すぐに圧迫感は消えた。閉鎖されてはいるものの、広大な空間が現れた。シェルターが沈んでいた、あの洞だ。

 底冷えのする虚無感を感じ、カチは拳を握りしめる。

『目標を確認、作戦を開始する』

 リーダー格の声が響き、九機のフリッパーがシェルターに取り憑いているイサナに向かって進み始めた。

「真朱さん、わたしたちは、どう行動するんですか?」

「入口を探す。船専用の入口があるはずだ」

 九機と袂を分かち、真朱は舞い上がる泥を掻き分けてのっぺりとした外観のシェルターへと針路を取った。

「――あの、真朱さん。もうちょっと下に」

「なに?」

「シェルターに入るための入口です」

 カチは泥の合間から見える、ぼんやりとしたシェルターの影をじっと見つめた。

 はっきりとカチにはわかった。求める入口は、すぐそこにあると。

「これか!」

 白とは別の輝き、薄ぼんやりとした赤い塗装をされた扉……いや、むしろ隔壁のようなものが現れた。

 操縦桿を巧みに操り、真朱は隔壁と水平になるようにフリッパーを乗り付け、側面に内蔵されている電子アンカーを、操作パネルに向かって突き刺した。

「ディスプレイに手を触れてくれ」

「あ、はい」

 アンカーが打ち込まれるのと同時、明りの灯ったディスプレイへ右手を載せた。ちりっとした痛みを感じ、カチは驚いてキャノピー越しに見える隔壁へ首を巡らせた。

「よし、繋がった」

 中に湛えていた空気を泡として吐き出しながら、隔壁が開いた。真朱は電子アンカーを引き戻し、人工の白い光が見える内部に向かって、フリッパーを素早く滑り込ませる。

 隔壁はフリッパーが中に入るのを待ってから、開いたときと同じように緩慢な動きで、海水を引き込んだまま閉じてゆく。

「これが、シェルターの中?」

 シェルターのドックは、ヒメガミと同じ構造をしているようだ。

 内部に湛えた海水を掻き分けて、オレンジ色の非常灯だけがついた、薄暗い室内にフリッパーは浮上した。

「驚いたな。大部分の機能が生きているようだ」

 真朱はタッチパネル式のディスプレイを操作しながら、感嘆の息をついた。なにがそんなに凄いのかと、カチは補助席から身を乗り出して手元を覗き込んだ。

 ディスプレイには、様々な文字が浮かんでは消えてゆく。チカチカと明滅する光に、目が痛くなる。

「あの、何をやっているんですか?」

「セキュリティーを外したときに、ついでにメインシステムと情報リンクさせたんだ。シェルターを遠隔操作することは、さすがにフリッパーの能力じゃ無理だが、情報を探ることぐらいは可能だ」

 真朱はディスプレイの側にある接続口に、バックパックから取り出した携帯端末を差し込み、取り出した情報をダウンロードする。

 シェルター内を満たす空気濃度のパーセンテージ、製造年月日、制作者、責任者に乗客の個人情報、そして地図など。様々な情報が小さな端末に詰め込まれていった。

「最高の環境だ。オフショアが発見されたシェルターでさえ、これほどの生命維持システムは残っちゃいなかったぞ」

「あ、あの。真朱さん?」

 呼びかけに真朱は応えない。無言のまま、タラップ部分へとフリッパーを隣接させる。キャノピーが僅かにスライドし、持ち上がった。

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