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現実に戻ってきたようだ。
「わたし、ここを知っている」
体から力が抜け、カチは床に座り込んだ。呆然としまま、オフショアを見上げる。
『カチが来た場所に向かっているのか?』
口を動かすことなく響く声は、運命連結装置に取り付けられているスピーカーから流れてきた。
「ええ、そう。そうよ……イサナは、そこを目指している。わたしのシェルターに」
カチは湧き上がってくる恐怖に、オフショアの手を握りしめた。浮力を奪う泡によって、水底まで引きずり込まれた記憶が鮮やかに再生される。
震えが止まらない。怖かった。
『わかった。イサナの位置を、ノートのもとへ送る』
オフショアはカチの視線にただ小さく頷くだけだけで、必要なこと以外は語らない。手と手を取り合ったままの格好で、カチは項垂れた。
「アンピトリテ、いいえ、人が眠っている。たくさんの人が……今でも?」
『アカシャに意識を囚われたまま、深い海を彷徨っている。カチもオフショアも、そうだった』
運命連結装置とは違う震動が響いた。
カチが感じ取ったイサナの位置へと向かって、ヒメガミが本格的に動き出したのだろう。
『ヒメガミは早い。すぐに追いつける』
響き始めた震動と前後して、運命連結装置から光が薄れていった。オフショアの体に浮かび上がった紋様も消え、繋いだ手が重くなる。
カチ自身は気づかなかったが、かなり緊張していたようだ。冷たい手の平を暖めるように、カチは繋いだ手にそっと力を込めた。
その時だ。
(――なに?)
体を突き抜ける幻痛。髪が光を放って広がった。
「オフショア?」
座ったまま、身じろぎしないオフショアの背後にもう一人。まったく同じ姿をした少女が現れた。
……カチの力が作り出した幻だ。オフショアではない。
少女は両手を、呆然と座り込んでいるカチの喉元へと伸ばしてきた。ぞっとする、この感覚は、殺意だ。
「――きゃっ!」
小さな手がカチの喉へと絡みつく寸前。ヒメガミの艦体が激しく揺れた。
カチは繋いでいたオフショアの手を離し、仰け反るようにして転げる。したたかに背中を打ち付け、涙がにじんだ。
「今……のは?」
幻は消え、視界にはオフショアしかいない。
「海に潜った。アカシャを掻き分け、ヒメガミはイサナを追う」
オフショアの様子に変化はない。幻は自分にだけにしか見えていなかったのか。
寝ころんだまま、カチは生々しい殺意に頭を振る。気のせいだと、自分自身に言い聞かせた。
「カチは、どうする? ここで見ているか? それとも、痛みを知るか?」
「わたし?」
予言めいたオフショアの問いに、カチは言葉を濁す。決めろといわれても、いきなりすぎた。
「わたしは……」
『目標海域に接近。艦外作業員は所定の小型艇にて待機せよ』
床に両手をついて起き上がったカチに、機械的な声が降ってきた。
ヒメガミの艦内をざわつかせる不安が、更に濃さを増したのを感じ取った。
精神を浸食するアカシャの海に潜ったのだ。分厚い金属の壁と、思念遮蔽装置に囲まれていても、心に刻まれた恐怖を押さえつけることは難しい。
カチは泥のようにまとわりつく、不特定多数のヒトが放つ感覚に飲まれてしまわないように、深く息をついた。
「わたしが行って、なにができるというの?」
戦うことのできない自分では、足手まといになることはわかりきっている。自分のせいで真朱が傷つくのを見たくはなかった。
「カチには、カチにしかできないことがある」
椅子に体を預けたまま見下ろしてくるオフショアを見て、カチは拳を握った。「待っている」と言ったブルーの声が、とても強い真朱への殺意の感情と共に、再び脳裏に浮かび上がる。
真朱とブルー。二人が対峙すれば、何が起こるのか。
「わたし……行きたい」
握りしめた拳。手の平に爪を食い込ませて、カチはゆっくりと立ち上がった。
「行かなくちゃいけない。そんな気がするの」
それが正しい選択なのかは皆目わからない。だが、カチは体の奥底から突き上げてくる思いがあるのを確かに感じていた。
運命に導かれるとは、こういう状況なのだろうか。目に見えぬ存在に呼ばれているような気がしてならない。じっと、蹲っていることができないほどに。
「ならば、オフショアが導こう」
漆黒の瞳が左を向いた。入ってきたのとは正反対の方向にある壁に、もう一つの出口が現れた。オフショアが操作したのだろう。
「……真っ直ぐに進め。真朱の元へと行けるだろう。装置に繋がっているオフショアは、ヒメガミそのものでもある。大丈夫、迷うことはない」
「わかった」
カチはオフショアに軽く頷き、踵を返した。
「……どんなに足掻こうと、だめ。許されてはいない。わかっているだろう」
遠ざかっていく足音を聞きながら、オフショアは純白の照明に照らし出される、なにもない空間を見つめて言った。
「死者は物語を紡げない。操ることはできない」
小さな声は、光の中に溶けてゆく。どこにも届かない。
それでも、オフショアは続けた。
「あなたは、見ていなさい。あなたはそうすべきなの。本当は存在を残すことすらも、許されてはいけないのだから」
凛とした声だけが、誰もいない室内にに広がっていった。




