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残酷な世界の真実を前に、カチは――
豊かな銀色の長い髪の合間、表情のない頬から同じような細いコードが伸び、それらは囚人を繋ぎ止める鎖のごとく、アンピトリテ達をカプセルに繋ぎ止めていた。
「彼女らは、盾でした。唯一、アカシャに惑わされない希有な存在である、アンピトリテ。彼女たちの持つ特殊な脳波が、精神の侵略者を遠ざけていたのです」
カプセルの中に座ったまま、上半身だけを持ち上げ、数えきらないほどのアンピトリテたちが、カチをじっと見つめている。
「文明が滅び、アルビレグムと接触し、再び地球に降り立ってから、幾年。私どもの生は、アカシャとの戦いに捧げられてきた。この施設は、その時の産物です。女神よ、貴方の同胞は生け贄として悪魔に捧げられたのです!」
アンピトリテたちの生気の感じられない冷たい瞳は、瞬きもしない。作り物のような、濁った池の底を思わせる眼球にじっと見つめられ、カチは身の毛がよだつのを感じた。
(……怖い?)
カチは胸が締め付けられるような圧迫感に戸惑っていた。
(……やめて? ……助けて? これは何――これは、誰?)
思考を埋め尽くしてゆく感情に、酷い頭痛を覚えた。
頭を両手で抱え、カチはコードに繋がれた亡霊たちを見つめ返す。不安と恐怖の渦巻く叫びは、自分のものじゃない。これは、物言わぬアンピトリテたちの声だ。
カチは半ば恐慌状態に陥った。寒くもないのに震えが止まらず、射るような視線に耐えきれずに目を瞑った。
(これは……なんだろう)
帳が下りるはずの視野に、光が浮かび上がってくる。狭い部屋に沢山のものが押し込められているイメージだ。
日本国庁舎の医務室でリドフォールのイメージを見たときと全く同じ現象だと、カチは思った。
恐怖心を飲み込んだ好奇心に急き立てられ、カチは意識を集中させた。ぼんやりとした形だけの映像に、焦点が結ばれてゆく。
視界を埋め尽くしているのは、一見すると人形にしか見えない無機質な人の群れ。銀色の髪を持つアンピトリテの、死体だった。
しかも、もう一つ。多くの死体を見下ろすように佇む、血にまみれた人影が見える。
「殺されたの?」
カチはぞっとする思いで目を開け、カプセルの中で佇むアンピトリテたちを見つめた。
焦点の合わない瞳からは、なんの感情も読み取れない。だが、カチは確かに、胸の内を疼かせる感情を捉えていた。
「そうだ、殺されたんだよ。十年前に自由を訴えた者たちの手によってね。無惨な仕打ちを受け、理不尽に命を絶たれ、今はその存在に触れられることもなく、記憶の縁に沈められている、憐れなお前の……仲間だよ」
淡々とした口調の中に、確かな怒気を孕ませるブルーを振り返って、カチは息をのんだ。
いつの間に放たれたのか、揺らめく炎が室内を覆い尽くしていたのだ。
猛る橙色の光の中から聞こえてくる悲鳴は、武装兵のものだろう。慌てふためいた、見栄もなにもない悲鳴は、聞いていて滑稽なものを感じなくもない。だが、狼狽した彼等を見て笑っているのは、ブルーと須加だけだ。
「わたしの、仲間?」
脳裏に翻るのは、純白の体がとても美しいシロイルカたちの姿。それに加えて、ただの青白い肉の塊となった“自分であったモノ”の姿だった。
身の毛のよだつようなイメージが脳裏をかすめ、カチはたまらずに唇を噛んだ。ちくりとした痛みが、思考を現実へと引き戻した。
「助けたいか?」
答を迫るのは、わざと打ち鳴らされるヒールの高い音だった。反射的に顔を持ち上げれば、視線はブルーの青い瞳と重なる。
向けられる思いは、とても強い。考える余裕を許さないほどに蠱惑的でもあった。
このままではいけない。そうは思っても、目を離すことができなかった。周囲を漂う虹色の鱗粉が、戸惑いと共に体の中に染み込んでくる。
「偽りの眠りの支配から、解放したいか?」
「それは、救いなんですか?」
ブルーの手が差し伸べられる。背後からも沢山の目に見つめられ、カチは追い立てられているような錯覚を覚えて、焦った。考える余裕もない。否定するのをためらわれる雰囲気に、カチは飲まれてゆく。
「わたしは――」
「世界の穢れを背負わせる気か、ブルー!」
響く声に、いち早く反応したのはブルーだった。ブルーは、カチに向かって差し伸べた腕を引き、細い体を捻った。
そのままブルーは、炎の中から飛び出てきた人影に対し、素早く引き抜いた二本のナイフを突きだした。衝突音が、甲高い悲鳴を響かせる。
「真朱さん!」
燃えさかる炎を振り切って現れたのは、真朱だった。
突き出したナイフは、あっさりとブルーに弾かれ、体勢が崩れた真朱は仰け反ったまま、蹈鞴を踏んだ。
「やめてっ!」
がら空きになった真朱の胴を狙って、ブルーの右手がしなる。鋭い刃が閃光となって襲いかかった。
しかし、真朱は間一髪の所で床を蹴って後方へと飛び退いて難を逃れる。僅かに開いた間合いを保つべく、ナイフを構え、緊張の滲む目をブルーへと向けた。
「ようやく来たな」
「俺を待ってたなんて、嬉しいこと言ってくれるじゃないか」
「つまらない冗談は最悪だよ、真朱」
僅かな緩衝地帯を先に崩したのは、ブルーだった。
早すぎて、もはや一筋の光にしか見えないナイフの刃をしならせ、迎え撃つ真朱へとブルーは腕を振り下ろした。
「切り刻んで、粉々にしてもお前は生き残るのかい?」
「さあな。少なくとも、今はまだ生きているぜ!」
鼓膜を突き破りそうな甲高い音に、カチは思わず耳を塞いだ。
「つぶれても生き残る。気色の悪い奴め!」
「うるせぇ!」
互いに刃を弾きあい、僅かな距離を取ると、すぐに一歩を踏み出して刃を振るいあう。まさに一進一退といった状況だ。
しかし、ナイフをぶつけ合う回数が増すのに比例して、真朱の呼吸が荒くなっているのにカチは気づいた。
「こんなことに、あいつを巻き込むんじゃない!」
真朱は開いている右手で銃をホルスターから抜き、襲いかかってくるブルーへと銃口を向けた。迷う素振りも見せずに、銃爪を引く。
「事実から遠ざけてなんになる! 真朱、貴様はあいつ等のように、この娘を飼うつもりでいるのか?」
銃弾はブルーが作り上げた不可視の力場に阻まれ、弾かれて届かない。だが、真朱は顔色一つ変えずに、銃とナイフを構えて突進した。全て予想していた展開だった。
真朱は駆けながら、更に三発の銃弾を発射させた。狙いはどれも曖昧で、当然のごとくブルーの能力に阻まれ、あさっての方角へと弾かれる。
だが、牽制のための弾幕が張れれば、それで構わなかった。本命は右手に持つナイフなのだ。
「飼われているのは、俺だけでいい。こいつは、優しい世界の中で生きるべきだ」
「馬鹿なことを言うな、真朱! その言葉は偽善にまみれているよ!」
間髪を入れずに撃ち鳴らされる銃声。不可視の壁に弾かれ、火花を散らす空間。
万能と思えるブルーの能力ではあるが、発動中は過度の集中力を強いられる。つまりは、僅かながらの隙が生まれるということだ。
真朱は銃弾とタイミングを合わせ、ブルーの間合いへと一気に飛び込み、ナイフを振り上げた。
「優しい世界など、どこにも存在しない。分かっているのに、お前は言うのか真朱!」
「――なに?」
人間なら間違いなく致命傷を負うだろう一撃だった。しかし、ブルーは人ではないうえに、真朱を凌駕する能力の持ち主だった。
「馬鹿な!」
己の力を過信していたか、それとも、ブルーを甘く見すぎていたか。
絶妙なタイミングで振り上げられた真朱のナイフは、人知を超えた反応速度で追いついてきたブルーのナイフによって弾かれてしまったのだ。
刃が小さな弧を描いて、あさっての方角へと虚しく消えていった。
「真朱さん、避けて!」
体勢を崩した真朱にもう一つの鋭い刃が襲いかかるのを見て、カチは背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。今度は逃げられない。直感が告げた結末に、血が凝るような眩暈を覚えた。
「真朱さん!」
饐えた匂いが空気を浸食し、赤い飛沫を散らして、真朱の体がくずおれる。
「死に損ないが、出来もしないことを企てるから、こうなるんだよ!」
嘲るブルーの足元。真朱は腹部を押さえ、歯を食いしばって苦しげに呻いていた。
「十年前、お前はやはり、ここで死ぬべきだった。他の出来損ないと一緒に消えてしまっていれば、こんな罪を背負うこともなかっただろうにな」
「俺が憎いのなら……殺せば、いい」
血の混じる唾を吐き出して咳き込む真朱に、ブルーのかたちの良い眉が跳ね上がった。
「そんな程度で気が晴れるのなら、そうしているよ。だが、そんな手間を掛けていられるほど暇ではなくてな。お前の命など、お前が思っているほどに重くもなければ、意味もないんだよ」
両手に持つ刃よりも更に鋭い声に、真朱の顔は苦痛に歪む。ブルーはそんな真朱の顔を容赦なく踏みつけ、堅い床にこすりつけた。
「やめて! どうして、こんな酷いことをするんですか!」
「ひどい……か」
揺らめく炎の赤が、ブルーの眼鏡のレンズに映り込んだ。妖艶とさえ思える微笑みを向けられ、カチはわけも分からずに竦んでしまう。恐怖ではない、嫌な予感というものなのか。