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青の住人  作者: 濱野 十子
三章 メモリーダスト
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「あたたかい」

 一定の温度に保たれている室内は、日差しが射し込んでいるように暖かかった。肌寒い場所に長くいたせいか、気持ちよささえ覚える。カチは口元を緩めて体から緊張を取り去ると、色とりどりの花で埋め尽くされた温室をぐるりと見回した。

 肌に触れる空気は潤い、色の奔流に満ちる視界は眩しかった。

種類ごとに集められ、植えられている植物の数はざっと見ただけでは把握できそうにない。それほどまでの本数に、カチはただ圧倒されるばかりだった。

 赤や白、黄色。

 広い区画に集められた花々は、それぞれに香しい甘い匂いを放っていた。

 しかし、中でもひときわ目立つ花に、カチの目は奪われていた。

「青い、バラ?」

 青い色素のないバラ。自然界では有り得ない色を持つ青いバラが、温室を出た先のバルコニーに大輪の花を開いていた。

 カチは誘われるようにして温室を抜け、バルコニーへと出た。

 発展した遺伝子組み換え技術によって生み出された青いバラは、パンジーの持つ青色色素を作り出す酵素を組み込まれることによって誕生した人工物だ。

 しかし、バラの色は人工物とはいえ、とても美しかった。

 奇跡、神の祝福という花言葉を持つこのバラに、カチは見覚えがあるように思えた。

 むろん、温室の中にある植物にも、いくつか記憶の端に引っかかるようなものはある。だが、青いバラほどに強く惹かれることはなかった。

 海へと傾き始めた太陽の光に照らし出される真っ青の花びらへ、カチはそっと、手を伸ばした。

「有り得ない奇跡」

 くぐもった声に、カチは動きを止めた。

 いつの間に現れたのか、バルコニーの手すりの上に人が立っていたのだ。

「ブルーさん?」

「ブルーだけでいい。そのバラと同じ、ブルーだ」

逆光のせいで、表情がいまいち読み取れない。カチは、ぶり返してくる恐ろしさに戦き、後退しようとした。

 でも、怯えきった体は、上手く動いてくれない。強張ったままの瞳で、手すりから飛び降りたブルーを見つめた。

「どうして、ここに?」

「知りたいのだろう、お前は。私だけが教えてやれる」

 表情も口調も相変わらず冷たい。だが、乾ドックで向けられた殺気は全くない。

 反射的にこわばる体の緊張を解こうと、カチは大きく息を吸って――吐いた。破れそうなまでに激しかった鼓動が、僅かに静まる。

「何を?」

「この世界の本当の姿、隠されている醜い膿だ。我々を殺した奴等の妄執を教えてやろう、真朱の原罪を教えてやろう」

 柔らかくなり始めた日差しを背に受けて立つブルーは、世界に滲み出す汚れのようにも、おぼろげな世界の中で唯一くっきりと輪郭を示している象徴のようでもある。

「真朱さんの、罪?」

 風が流れ、バラの濃厚な甘い匂いが沸きだつ。

 咽せるような芳香と眩いばかりの青い色の中で、カチは一歩、足を前へと進めた。

「全ては、世界を知ることから始まる。お前は、自分が何者であるのか知らなければならない。でなければ、何も始まらずに、お前は囲われるだけだ」

 ブルーもまた歩を進め、迷うカチの手を取った。

 カチの答など、最初から求めてはいなかったのだろう。驚く間もなく引き寄せられたカチは、そのまま抱き上げられた。

「何を……!」

 視界が大きくぐらついて、唐突な浮遊感に声を飲み込んだ。

 高く、それこそ空に手が届いてしまうのではないかという勢いで飛んでいたのだ。

「恐れることはない、これは私に与えられた能力。私を堕とすことは誰にもできない。たとえ、この惑星の重力であっても」

「ブルー、あなたもマーフォーク?」

「この世にただ独り残った、最後のマーフォーク。それが、私だ」

 幾つものビルを一気に飛び越えた。ソーラーパネルが眩く輝くひときわ高いビルの屋上へと降り立ち、すぐにまた空へと飛び上がる。

 どこを目指しているのか、まったく分からない。間断なく襲いかかる慣れない浮遊感に、カチは堪らずにブルーにしがみついた。

「最後のって、真朱さんもマーフォークなのでしょう?」

「あれはそもそも、生物であると認められてはいない。あんな出来損ないなど、存在する価値もない」

 淡々とした口調からは、心境を読み取ることは困難だ。それでもカチは、ブルーから怒り……いや、呪詛めいた不穏な感情が流れてくるのを感じた。

 苦しくなる胸の内に、カチは唇を噛みしめた。

 流れ込んでくる他人の感情や記憶。自分が感じているように思えてしまう強い感覚に、押し流されそうで怖かった。

 ブルーの深い恨みは、カチにまで影響し、真朱に対して理不尽なまでの怒りを感じる。

 これが、自分の能力なのだろうか。

 心を浸食する感情に頭を振って、カチはものすごい勢いで過ぎ去ってゆく景色を見据えた。髪を舞いあげる強い風は、バイクで真朱と駆け抜けたハイウェイを思い出させた。

「……どうして? 存在する価値がないだなんて」

「行けば、分かる」

 銀色の尖塔を横切り、ブルーは息を乱すこともなく黙々と飛び続けている。どうやら郊外を目指しているようだ。

 聳え立つビル群を抜け、民家と思える建物を一気に跳び越えると、景色はすぐに殺風景なものに変わる。

 人工のものとは思えない平野が見えるころ、カチはだだっ広い空間にぽつんと放置されている施設を見つけた。

「あれは……」

 大きさこそ半分しかない。だが、平野に鎮座している塔はまさしく、銀色の尖塔……思念遮蔽装置そのものだった。

 ブルーはどうやら、この塔を目指して飛んでいたらしい。塔を囲むようにして並立している建物の前に降り立つと、カチは放り投げられるように地面へと乱暴に降ろされた。

 砂の浮いている乾いた地面に足がめり込み、バランスが崩れる。ふらつきながら、震える足に力を入れてしっかりと立ち、眼前に聳える建物を見上げた。

「従いてこい」

 侵入を阻む鉄格子は、既に破壊されていた。ブルーがやったのか、それとも他の誰かがやったのかは知る術もない。ただ、行かなければならないだろうことだけは、はっきり分かった。

 先に中へと入っていったブルーが鋭い視線を向けてくる。逃げることはおろか、拒むことすら叶わないのなら、行くしかない。

 カチは緊張に渇く喉に唾を流し込んで、どうにか足を動かした。

「どこに、行こうとしているんですか? ここは何ですか?」

 恐れを少しでも薄めようと、カチは尋ねてみた。だが、ブルーは黙ったまま、一定の距離を保って歩くばかりで振り返ろうとすらしなかった。

 人の気配はまるでない。辺りは静まりかえっていて、誰もいないようだった。いや、むしろ放置されてから、だいぶ時が経っているように思えた。元は銀色であっただろう壁面は埃にまみれて黒ずんでおり、酷くみすぼらしい。

(……違う)

 壁に近づいてみて、カチは黒ずんだ汚れは埃でないことに初めて気づいた。

 これは、煤だ。

 だいぶ前、ここで火災があったのだろうか。丈夫そうな壁が熔けていて、僅かに歪んでいる。黒く淀んだ煤はこびりつき、簡単に取れそうにはない。

 踏みしめる大地は痩せていて、渇いて割れた地面から……壊れた舗装の合間から雑草が生えている景色は、とうてい人の住みかとは思えなかった。

「入れ」

 竦み上がったカチの胸中を見透かしたように、ブルーの有無を許さない鋭い声音が促した。

 強引に開かれたのが見て取れる、ひしゃげた扉の横に立つブルーの横を通り過ぎ、カチは薄暗い室内へと、せめてもの抵抗とばかりに、ゆっくりと踏み入った。

 カチを出迎えたのは、冷んやりとした空気と、先を見透かせない濃い闇だった。背後から近づいてくるブルーの足音に注意を払いながら、息を潜めて神経を尖らせる。

 警戒というよりはむしろ、一方的に突きつけられる状況に流されてしまわないようにと、自戒のためにキュッと唇を引き結んでいるカチに、聞いたことのない、嗄れた声が掛けられた。

「恐れることはありません。私は貴女様に危害を加えることはできないのだから」

 闇の中から聞こえてくる、いささか聞き取りにくい声は、男のものだ。隣に立つブルーのものではない。

「貴方は……誰ですか?」

「海よりの使者よ。私どもの元に訪れるのを、一日千秋の思いで待っていました」

 噛み合わない会話に、カチは不気味なものを感じ取って後ずさろうとした。でも、逃げる前に肩をブルーに掴まれてしまって、動けなかった。

 体を硬直させたまま、闇をじっと見据えた。そうしているうちに、目は室内を満たす闇に慣れてきたのだろう。徐々に薄まってゆく黒の中に、一人の男が立っているのが見えた。

「誰ですか?」

 カチはもう一度、尋ねた。

「……須加。須加緑(すが りよく)というものです。知恵あるアンピトリテの少女よ」

 きりきりと甲高い錆びた音が聞こえ、闇の中から男がゆっくりと歩み寄ってくる。

 距離が近づいたことで薄まった闇の中に立っている老齢の男は、腰までの高さのある金属の四角い箱を――中に様々な機械が詰め込まれている、携帯型の医療キャリーを杖代わりにして、傾いだ体を支えていた。

 薄い白髪や、皺の刻まれた肌は、ひどく病的だった。

 呼吸と連動して響く機械音に、ふとすれば掻き消されてしまいそうな声で須加と名乗った男は、白目がちの目をカチへと向けた。

 東洋系の黒い瞳だけが強い力を放ち、困惑するカチを見据えた。

「どうか、我々の同胞を救っていただきたい。私の罪をあがなってほしい」

 喉に通された半透明の管を感情的に揺らし、須加は規則的に動く無機質な生命維持装置の手すりを、老いて枯れた手で握りしめた。

「さあ、見てください。我々人類の……同時に、異界からの侵略者の罪を」

 須加の声を合図にして、薄暗いばかりの部屋に照明が灯った。


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