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暖かい温度を、カチは感じていた。
ゆらゆらと揺れる感覚は、まるで波に揺られているようだと、夢心地にぼんやりと思った。
懐かしさと心地の良さに包まれている。でも、多分これは夢だ。しかも、この感覚は他の誰かのものなのだ。漠然とではあるが、カチはそう思った。
瞼を開くことなく、カチは一つの映像を見ていた。
視界に映っているのは男と女。
燃えるような赤い髪を持つ男には見覚えがある。
リドフォールだ。
側に蹲っている女は誰だか分からない。長い髪で表情は隠され、泣いているのか笑っているのかさえ分からなかった。
柔らかく、暖かなこの感覚は、女をじっと見下ろしているリドフォールのものなのだろう。確かな言葉で証明することは難しい。でも、心を満たす感情は、リドフォールから流れてくるようだった。
目を細めて感覚を研ぎ澄ませれば、薄い、虹色の靄が流れ込んでくるのを見ることができた。
とても、美しい光景だ。
カチはキラキラと輝く霧を更に引き寄せようと手を伸ばし――
「目が覚めたかな、カチくん」
唐突に掛けられた声に、カチは、はっとなって瞼を持ち上げた。
「リドフォールさん?」
虹色の霧は消え、代わりに視界に飛び込んできたのは青白い人工灯の光だった。現実に戻ってきた。夢から覚めたのだなとカチは思い、ごしごしと瞼を擦った。
「ここは?」
「医務室だよ。君は倒れたんだ」
寝かされているパイプベッドから起き上がったカチは、鼻孔をくすぐるツンとした薬品の臭いに、思わず顔をしかめた。あまり好きになれない空気だった。
不安に押し流されそうな、不安定な胸中を満たしていた安らぎは消えてなくなっていた。輝く霧も今はまったく見えない。
ベッドの側に置かれている椅子に座っているリドフォールの表情も、夢の中で見たほどには穏やかではなかった。
微笑を浮かべてはいるが、緩んではいない。目に映るものを探るようなリドフォールの鋭い視線に戸惑いながら、カチは尋ねた。
「あの、真朱さんは?」
「何度も言っているが、大丈夫。ちゃんと生きているよ」
我が儘な子供を宥めるように、リドフォールは嘆息した。
赤い髪を掻き上げながら椅子から腰を上げ、不安を拭えずにいるカチを誘うように顎を軽くしゃくった。
「こことは別の所にいる。見てみるかい?」
血まみれのまま、担架に乗せられて運ばれてゆく真朱の姿が脳裏に浮かび上がってくる。
カチは拳を握りしめて体の震えを押さえ込み、リドフォールに向かって大きく頷いた。
「実際に目にしなければ、理解ができないこともあるだろうしね」
カチはブーツを履き、差し出されたリドフォールの手を取って立ち上がった。
多少バランスを崩してしまう。でも、一人で立てないほどではない。
カチは礼を言って手を離し、早く案内して欲しいと視線で訴えた。
「おいで、ここからそう遠くはないよ」
安心させるためなのか、そもそもこれが地顔なのか。穏やかな笑みを浮かべたまま歩いてゆくリドフォールの後をついて、カチは逸る胸中を押さえながら医務室を出た。
「あの、本当に真朱さんは大丈夫なんですか?」
歩幅に合わせてゆっくりと歩くリドフォールの横に並び、カチは高い位置にある端正な顔を見上げた。表情は相変わらず崩れることはない。笑ったままだった。
ひとかけらの心配もない様子に、カチは苛立ちを覚えた。
「言っただろう、真朱は死なない、死ぬことはない。そういう存在なんだってね」
「死なない存在だなんて、そんなのわかりません。だって、真朱さんは人間なんでしょう?」
リドフォールは笑い顔を更に緩めた。含み笑いといったところか。なんだか自分が笑われているように思えて、カチは俯いた。
青白い人工灯に照らされている通路には、塵一つもない。清潔というよりは、潔癖な偏執性を感じさせる空間は、かえって居心地が悪かった。
目にする景色、建物、人々。全てが物珍しく、はしゃいでいたカチだったが、今は逆に重い疲労が残るばかりだった。
どうして、こんな事態になってしまったのか。なぜ自分なのだろうかと頭の中が困惑で埋め尽くされ、他のことが考えられなくなってしまう。
「地球人であろうと、アルビレグムであろうと、あんな高さから落ちれば死ぬよ」
無機質な廊下に、ようやく暖かみを感じさせる太陽光が射し込んだ。
大きく取られた窓から見える景色を眩しそうに目を細めて見下ろしたまま、リドフォールは肩をすくめ、そのままカチを見下ろした。
「どうやら、真朱は何も君に話していないようだね。この世界のことも、自分のことも」
通路は棟と棟を繋ぐ連絡橋のようだ。
長い、直線の廊下の端と端には動く歩道が設置されていて、談笑する役員達をゆっくりと運んでいた。カチはリドフォールに倣い、微かな機械音を立てる歩道の上に乗った。
「聞く余裕もありませんでした」
「そうだろうね」
リドフォールは苦笑を漏らす。
「覚醒してから一日も経っていないのに、こんなに色々なことが起こっては、心の休まる時もなかっただろう? 本当に、すまないね。こちらとしても、まさか襲撃を受けるとは思っていなかったんだよ」
カチは歩道と連動して動く手すりを握りしめた。
向けられた拳銃と殺気のこもった視線は、思い出そうとするだけで背筋を氷らせるようだった。
「あの人は、いったい何なんですか?」
カチはブルーに握りしめられた手首をさすった。湿った革の感触と共に残っている痛み。白い肌には手形が赤くなって刻まれている。
「一緒に来いって、私に言ったんです。救済のために私が必要なんだ、と」
「救済のため……か」
呻いて、リドフォールは手を組んだ。
「残念だが、ブルーの真意がどんなものなのかは分からないね。しかし、彼女が何者であるかは、知っているよ」
驚いて顔を向ければ、リドフォールは本当だと頷いた。
「ブルーは連星政府軍の元軍人だ。記録の上では殉死していることになっていたはずなんだけどね。驚いたよ」
真朱もまた、死んだものと思っていたブルーが現れたことに驚愕していたのを、思い出す。
「殉職……死んでいる? でも……」
「遺体は発見されていないようだからね。有り得ないとは言えない話ではあるよ」
歩道から下り、リドフォールはそのまま突き当たりを左に曲がって、再び動く歩道の上に乗った。
カチは上手くタイミングを合わせられず、下りる瞬間に蹴躓いてしまった。
集まる視線に気恥ずかしく思いながらも、小走りになってリドフォールを追いかけた。
「宇宙戦艦が撃墜され、機体の三分の二が宇宙の塵となって消えた。部隊は全滅。何千人もの人間が死に、回収された遺体は二十体にも満たない。ほとんどは戦艦と共に塵になったか、宇宙に投げ出されて行方知れずになったと聞いている」
首に巻いた白いファーの位置を直しながら、リドフォールは資料を読むような淡々とした口調でさらりと言ってのける。おかげで、カチは事態の悲惨さを感じ取ることはできなかった。
(じゃあ、あれはもしかして、ブルーさんの記憶?)
宇宙にただ独りで漂っていたあの映像は、ブルーの記憶の断片なのだろう。ならば、愛おしげに女性を見つめていたリドフォールの映像もまた、記憶の断片か。
不可思議な現象に気持ちが悪くなって、カチは視界に入ってくる長い髪を掻き上げた。指に堅い感覚がぶつかる。サイレンスだ。
カチは憂鬱なこの気分が少しでも軽くなればいいと、サイレンスを外して首に掛けてみる。閉ざされていた小さな音が流れ込み、世界が一瞬だけ鮮やかになる錯覚を覚えた。しかし、気が晴れることはない。
「ブルーの行方は、警察機構とも連携して探しているから大丈夫。君に危害を加える前に確保してみせるよ。それよりも、気をつけなければならないのは、旧人類解放同盟パンドラという過激派組織だろうね」
「パンドラ……ですか?」
「目的のためなら実力行使もいとわない、きわめて危険な組織だよ。奴等はアンピトリテを狙っている。真朱が君にくっついているのも、実は護衛のためだったんだよ。さて、着いた。ここがそうだよ」
歩道の執着地点。目の前には重そうな鉄の扉があった。
リドフォールは扉の側に取り付けられているセンサーに手を差し伸べ、ロックを解除した。重厚な見た目と相反する軽い音をたてて扉がスライドし、沢山の配管が天井を伝う部屋が現れる。
「日本国庁舎の研究棟へようこそ、カチくん。歓迎するよ」
肌寒さを覚える冷んやりとした風が流れ込み、足元に絡みつく。同じような作りの建物であるはずなのに、扉の向こうの空間は、明らかに世界が違うように思えた。
カチは少しばかり戸惑いながらも、先に中へ入っていったリドフォールを追って踏み入った。
体が震えるのは、恐怖よりも凍てついたこの空気のせいだろう。カチは制服の上から両腕を擦り、室内をぐるりと見回した。
「真朱は、この階の奥にある十三号研究室に運ばれているよ」
「研究室? 医務室じゃないんですか?」
一つのフロアには五つの部屋があり、外から様子を窺うためなのか、壁は全てガラス張りだった。
手近にある部屋は照明が落とされていて、今は使われていない様子だ。
何に使われるものなのかは分からない。でも、部屋の面積の半分ほどを占めている大きな機械は、何処か不気味だ。天井からぶら下がっている大きな丸いライトも、照らすものを焦がしてしまいそうなレンズが、いくつもついていて怖い。
「治療の必要がないからだよ、真朱にはね」
「どういうことなんですか」
誰もいないフロアを並んで歩きながら、カチは無機質な空間をものともせずに平然と歩み続けるリドフォールに、恐れを抱き始めていた。
何処かがおかしい。
自分の中にある警戒心が、穏やかな微笑を浮かべる男に注意すべきだと知らせていた。
「それは、力を持っているからだよ、カチくん。君が持つ、絶対反響定位能力や多面感応能力といったものと種類を同じくする、特殊な能力をね」
奥へと続く扉の側に設置されている、管理人室にいる若いアルビレグムの男に、リドフォールは片手を挙げて開けるように合図をした。
男は側にいるカチに戸惑いながらも頷いて、リドフォールが望むように灰色の重厚な鋼の扉を開放した。
「真朱さんも、アンピトリテなんですか?」
地響きを立てる重たい音に負けじと声を張り上げれば、リドフォールは無言のまま唇の端を緩めて歩いて行ってしまう。
「でも、真朱さんは、そんなこと一言も言ってませんでしたよ! それに、真朱さんは地球人だって……」
「真朱は、はっきりと言ったのかい? 自分が地球人だって」
「それは……」
「必死にごまかしていただろう? 真朱は。僕には、分かるよ」
言い返され、カチはくぐもる。そう、リドフォールの言うように、真朱は自分が地球人であるとも――まして、アルビレグムともアンピトリテとも、はっきりとは言っていないのだ。
「じゃあ、真朱さんは何だと言うんですか? リドフォールさん?」
どこまで行っても変わらない、照明と磨かれた床と誘導灯だけがある面白みのない景色は、時間の流れを麻痺させた。
カチは延々と歩いているような錯覚に囚われながら、竦みそうになる足を必死になって動かした。