「予定日まで一週間あるから大丈夫」と言った俺、気がついたら人生終了
出産にまつわるセンシティブな話題です。苦手な方はご注意ください。
職場の同僚と飲みに行き、家に帰ると明かりが点いていなかった。
妊婦だから早く寝たのかと、気にせずに風呂に入る。
寝室に一歩入ると、びちゃっと足が濡れた。
なんだ?
床くらい拭いておけよ。最近は屈むのが辛いと言って、掃除も適当だよな。産休に入ったのに、改善されない。
一言言ってやろうと思ったが、ベッドに妻は寝ていなかった。
なんだ? どこにいる?
リビングにも風呂場にもいなかった。トイレにも……。
スマホで電話をかけると、ベッドサイドで音が鳴る。
持たずに出かけた?
そこで俺はようやくおかしいということに気がついた。
だが、どうすればいい?
自分のスマホを見る。
飲み会に行くというメッセージに、妻は文句を返してきた。それが午後六時。
午後八時に、公衆電話から不在着信が入っている。
公衆電話?
酔っているから頭が回らない。
明日も仕事だ。
いないものは仕方ない。あいつもいい大人なんだから。
そう考えて、仕方なく俺は寝た。
妻が帰ってこないから、冷蔵庫のものを適当に食った。妊婦が無断外泊とか、何を考えているんだ。
二日酔いの頭を抱えながら、会社に行く。
「昨日はお疲れさん。奥さん怒ってたの、大丈夫だったか?」
「いやぁ、それが、帰ったらいなかったんですよ。ふてくされて家出ですかね。もうすぐ母親になるっていうのに、ガキっぽくて困っちゃいますよ。床が水浸しなのに掃除もしないで――」
「あなたたち、なんの話をしているの?」
女だてらにグループリーダーをしている人が、不機嫌そうに割って入ってきた。
「それ、破水したんじゃない?」
「ええ? 出産予定日までまだ一週間ありますよ」
この人、確か子どもいたよな。予定日に有給を申請しているんだから、俺がいい父親になりそうなことくらい察してほしい。
「予定日より早く生まれるなんて、普通にありますよ。まさか、あなた父親教室に行ってないの?」
すごく呆れたように言われた。
「あ、ちょっと忙しくて」
「今日は有給を取って、奥さんを探しに行きなさい」
なんだ、その命令。
「いやいや、先日、大型の契約が内定したじゃないですか。俺を抜きで進められたら困るんですけど」
ほんと、この人わかってないな。
「後悔しても知らないわよ」
なぜか捨て台詞を吐かれた。なんなんだよ。ヒステリーなババア。
普通に仕事をして帰宅すると、ベッドサイドにあった妻のスマホが消えていた。他にも何か減っているような気がした。俺が出勤している間に荷物を取りに来るとか、姑息だなぁ。
しぶしぶ妻の実家に電話をかけた。
「今さら、何の用だ」
不機嫌な義父に電話を切られた。電車で三時間かかるから、駆けつけることもできない。
まあ、実家にいるんだろう。書き置きもしないで、迷惑なやつだ。
ついに出産予定日が来た。ところが、まだ妻は帰ってこない。
そういえば、どこの病院かも知らない。夫婦揃って行く人もいるらしいが、別に必要ないだろう。
病院の手がかりを探していたら、父親教室のチラシが何枚もあった。主催は市役所だ。病院だったら、そこに今から行くのに。まったく、紛らわしい。
妻の番号にかけたが、出ない。SNSのグループに書き込んでも、未読のままだ。
妻の実家に電話をかけても、すぐに切られてしまう。仕方なく、田舎に行くことにした。もう休みを取ってしまったからな。
「ここにはおらん。金輪際、うちの敷居は跨がせない」
「妊婦だから、心配をしているんですよ」
「一週間も放置しておいて、何が心配だ。ふざけるな」
「俺だって、仕事で大変なんです。それを理解して支えてこその妻でしょう」
「……お前、昭和の頑固ジジイか。いかにも仕事ができない奴の屁理屈だな。近いうちに弁護士をやるから、首を洗って待っていろ」
口うるさい妻の親は、理屈っぽくて嫌味なジジイだ。なんで俺の方が「頑固ジジイ」なんて言われないといけないんだ。弁護士ってなんだよ。
妻とは社会人になって知り合ったから、学生時代の友達を知らない。結婚式の準備は妻に任せたから、名簿がどこにあるかわからない。
妻には妹がいるけれど、俺のことを嫌っている。連絡先の交換なんか、していない。
翌日、出社したら声をかけられた。
「子どもは無事に生まれたのか?」と同僚が軽く訊いてくる。
「知らん。実家に行ったが門前払いされた」
「お前、それ、やばくねぇ?」
うるさい。そんなの、わかってる。
卓上の電話が鳴った。内線で、受付からだ。
「弁護士と奥様の妹を名乗る方が受付にいらっしゃっています」
妻の妹は大学四年生だ。就職は決まったはずだから、縁故採用の頼みじゃないだろう。
「離婚届にサインをしてください」
藪から棒に義妹に言われた。
「へ? 子どもがいるのに……あ、生まれたのか?」
義妹は顔をしかめて、俺を睨みつけた。
「一週間前に破水して、私がタクシーで病院に連れて行きました。母体か胎児かどちらかを選べと言われたので、迷わずに姉を選びました。
だから、子どもはいません」
「お前……人殺しだろ、それは!」
俺の声が、ロビーにこだました。
ぎょっとした人たちの視線が刺さる。
「臨月の妻を放置して飲みに行く男が、何を偉そうに!
もし子どもを選んでも、父親教育にすら行かない、出産予定日があくまで目安だってことすら知らない男に、子育てなんかできるわけないじゃない」
「だって、子育ては女の仕事で……」
「共働きで生計を立てている男が何を言っているのよ。
とりあえず、家庭を築く気がないんだから離婚して。一昨日、ようやく起き上がることができて、姉さんは署名したわよ。もう、あんたの顔も見たくないって」
「いや、俺たちは話し合わないと」
「今まで姉さんが協力してって言っても話を聞かなかった。どこの産科に通っているかすら興味ないから、知らなかったんでしょ。
有給取ったから『俺っていい父親』ですって? 父親になる準備もしないで親になろうなんて、舐めるな。ワンオペ育児するなら、役立たずの夫なんか要らないわ」
その後、弁護士が何か説明していたが、まったく頭に入ってこなかった。
「もう駄目なんですね。浮気もしていないのに」
「……私は奥様の代理人なので、その件についてはお答えできません。ですが、相手を思いやるつもりがないなら、夫婦生活を続けていくのは難しいかもしれませんね」
「あんたは結婚しない方がいいよ。子ども作ったって、『一緒に遊ぶ』ことしか考えてないでしょ。オムツを替えるとか、怪我しないよう見守るとかする気がないから――」
「……サインします」
もう、この義妹とは縁を切りたい。
帰って行く二人を、ロビーのソファーに座ったまま眺めていた。
分与するような財産もなく、慰謝料の請求もされず、ただ縁が切れた。ああ、妻の体調が落ち着いたら荷物を取りに来るって言っていたか。
ふらふらと自分の机に戻る。手の中には妻の結婚指輪があった。
義妹に突き返されたのだ。
数日後、大型の契約が成立せずに、皆が頭を抱えた。
ベビーグッズ関連の仕事だったから……。
「お前がロビーで騒いでいたのを、見られたからだぞ」
「そんな……お前たちが俺を飲みに誘ったからじゃないか」
俺は、たった一度の飲み会で、大切なものを失った。
SNSで見かけた話題から、衝動的に書きました。
医療関係など間違いがありましたら、柔らかめの言葉でご指摘ください。




