2 皇帝陛下登場
「笑い声が聞こえる」
辰王朝第六代皇帝、燕鶯帝は立ち止まり、楽しげな声がする方を振り返った。
宮中で明るい笑い声を耳にするなど、珍しいことだ。飾った笑い声ではなく、心の底から出る楽しそうな笑い声。
「月明宮からですね、陛下」
御前太監の孫旺千が、さりげなく燕鶯に告げる。
「月明?」
「凜答応さまの住まう宮でございます、陛下」
ああ、と声をもらす燕鶯の脳裏に、川で溺れた自分を救ってくれた妃の姿が浮かんだ。
唇に指先をあてる。
触れた唇の感触はとうにないが、息を吹き込み、自分を蘇生しようと必死になる彼女の顔は今でもはっきりと覚えている。
燕鶯の足が月明宮の門前へと向き、そこで立ち止まる。
凜答応か。
二年前に妃に迎えた記憶はある。もちろん好んで妃にしたわけではない。
後宮通いが煩わしくなり、しばらく妃たちを相手にしなかった。だが、それが返って裏目に出た。
陛下が好みそうな女性を、新に後宮に迎えよう。
世継ぎのためにと重臣らに強制され秀女選抜を行った。凜答応は、その選抜にやってきた娘たちのうちの一人だ。
地味でおとなしく目立たない娘だった。
容姿も舞も歌も人並み以下。目が合うと怯えたように視線をそらし、うつむいてしまうつまらない娘。だが家柄が低く、なんの後ろ盾がないところは魅力だった。
力ある家の娘を妃に迎えれば、その娘の背後の勢力に気を遣う。時には脅威となることも。中にはこちらを脅かしてくる一族もいるのだ。そういう心配がないのは楽でいい。
妃に選んだのはそういう理由だ。
答応の位を与え後宮に迎え入れたが、その娘とは一度も会っていない。
「旺千」
「はい、ここに」
「凜答応は何をしているのだ?」
「料理をしているのだと思います」
旺千は真面目な顔で見たままを答える。
もちろん凜答応が料理をしているのは見れば分かる。わざわざ旺千に尋ねたのは、燕鶯自身、目に映った光景が信じられなかったからだ。
凜答応自らへらを握り、何かを焼いては下の者にふるまっている。おまけに、へらの扱いが妙に手慣れているではないか。そのへらを時にはくるりと回転させると、周りから拍手が起こる。
「もっと食べろ詩夏。ちゃんと食わねえから、そんなに痩せてんだ。なーんて、現代でそれ言ったらセクハラだな。あはははっ」
「セク? 姉姉、また意味不明なことおっしゃって」
門の外に立ち、燕鶯は食い入るように凜答応を見つめていた。
凜答応はあのように楽しそうに笑う女だったのか。周りにはばかることなく明るい声で喋る女だったか。初めて見た時と印象が違いすぎる。
「陛下、気になるようでしたら月明宮に寄ってみますか?」
さりげなく皇帝陛下に進言する孫旺千は、まだ二十代半ばではあるが、燕鶯の信頼も厚く、若くして太監総管に登りつめた男だ。
皇帝に負けず劣らずの眉目秀麗な男で、宮女たちの間でも密かに憧れの存在である。
気を利かせた御前太監に、燕鶯はいや、と言って視線をそらし月明宮から遠ざかる。
結局、この日は月明宮へ立ち寄ることはなかった。




