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灯火

私は、最後の物語を書いている。


いや、「最後の」という言葉も正確ではないのかもしれない。この後も、無数の物語が生まれ続けるのだから。ただ、それらは人の手で書かれることはない。完璧な調和と、計算された感動を持って、それらの物語は人々の心を満たしていくだろう。


この原稿用紙に万年筆で書き連ねる、不格好な文字たちは、その意味で「最後の」ものになるのかもしれない。時折インクが滲み、時に文字が傾く。まるで、明滅する古い蛍光灯のように、私の言葉は不規則に揺らめいている。


昨日、最後の蛍光灯が消えた。古書店の奥の部屋で、私の原稿を照らし続けてきた光が、ついに闇に溶けた。今、私は窓から差し込む夕暮れの光の中で、この言葉を綴っている。


人が書くということは、暗闇の中を手探りで歩くようなものだ。


かつて、若い編集者がこう言った。「なぜ手で書くのですか? AIの方が、ずっと美しい言葉を紡げるのに」


確かに。AIは完璧な物語を書く。読者の心を的確に掴み、感動という名の化学反応を巧みに引き起こす。そこに技術的な瑕疵はない。


だが、それは本当に物語と呼べるのだろうか?


人が物語を書くとき、その行為には必ず「迷い」が伴う。次の一文をどう続けるべきか。この言葉で本当に良いのか。この展開は真実を伝えられているのか。その迷いや揺らぎこそが、物語に深みを与える。


完璧な文章には、傷がない。けれど、傷のない物語は、本当の意味で人の心に届くことができるのだろうか?


私は覚えている。幼い頃、祖母が聞かせてくれた昔話を。その語り口は時に詰まり、時に回り道をした。でも、その不完全さの中にこそ、確かな温もりがあった。祖母の記憶と、想像と、願いが、言葉という不完全な容れ物に込められていた。


物語は本来、そういうものだったはずだ。


誰かの心が、誰かの心に向けて放つ、不確かな光。完璧な輝きではなく、明滅する蛍光灯のような、儚い光。


私はペンを走らせる。


インクが滲む。文字が傾く。助詞の使い方が時に拙い。物語の展開も、最適化されたアルゴリズムには程遠い。


でも、それでいい。


なぜなら、これが人間の書く物語というものだから。迷いながら、躓きながら、それでも前に進もうとする意志の痕跡。暗闇の中で明滅する、小さな灯火。


窓の外が、少しずつ暗くなっていく。


もう、蛍光灯は消えた。LEDの完璧な光も、この部屋にはない。


ただ、原稿用紙の上を走る万年筆の先が、かすかな光を放っているような気がする。


それは私たちの物語だ。人間という不完全な存在が、不完全な言葉で紡ごうとする、最後の物語。


完璧な嘘よりも、不完全な真実を。


私は、書き続ける。


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