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虹の橋の、優しい君へ

作者: ふあ


「もう、頑張らなくていいよ」


 ぼくは、何を言っているんだろう。


「頑張らなくて、いいんだってば」


 頑張って。一日でも、半日でも。たとえ、数瞬でも。


「もう、いいんだよ」


 いやだよ。お願い。生きていて。



 君がやって来たのは、暑い夏のことだった。

「今年のプレゼントは、特別だぞ」

 父がそう言った五歳の誕生日、蝉がミンミンと喚き立てる、夏休みのある日、ぼくの生まれた日。

 君は、兄弟姉妹のいない、ぼくへのプレゼントだった。

 生まれてまもなく、捨て犬として保護された君は、まだ耳も立たない子犬の姿で、ぼくの元へやってきた。

 青い首輪がよく似合う君は、すくすくと大きくなり、垂れていた耳もピンと立ち、焼きたてのパンのようなこんがりした茶色の毛皮は、きらきらと輝いて。真っ黒な鼻は、元気よく濡れていた。くるんと巻く尻尾を背中に乗せ、威風堂々と、部屋の中を歩き回った。

 お手。おかわり。待て。伏せ。

 君は、すぐに何でも覚えた。覚えなくていいことも、安々と覚えてしまう、賢い子だった。母が、「宿題は」とぼくに聞くと、ぼくの服の裾を咥えて、部屋に引っ張るほど、頭が良かった。

 大好物は、お肉。がつがつ食べる君の姿は、見ていて、とても清々しい。

 それなのに、きゅうりなんかも好きだった。しゃりしゃりと音を立てて、夏の縁側で君と頬張るきゅうりは、食卓の前で齧るよりも断然瑞々しくて、美味しかった。


 海に行った。水の嫌いな君は、犬用の救命胴衣を着せられて、海に放り込まれたら、一目散に砂浜に向かって泳いでいたね。

 山にも行った。木々から差し込む木漏れ日が、機嫌よくぼくらの前を歩く君の背中で、ひらひらと踊っていた。どんな急な坂道も、力強い四本の足で、家族の誰よりも早く登っていった。

 クリスマス。大人しくサンタさんの帽子をかぶった、満面の笑みの君の写真は、今もぼくの机に飾ってある。

 夏祭り。庭で花火をするぼくたちに混じって、火の苦手なはずの君は、ぴょんぴょん跳ねてはしゃいでいた。今でも珠に、友達と、その時の話をする。

 そして、君の誕生日。恐らく秋に生まれた君の誕生日は、十月一日。特製の豆腐のケーキでお祝いした。だけど、毎年、上に乗った名前入りのクッキーは美味しく食べるのに、ケーキは殆ど食べてくれなかったね。味気ない豆腐よりも、焼きたてのお肉が欲しい。そんな君の目を見て、ぼくたち家族は、毎年笑えた。


 テストでいい点を取った、嬉しい日。友達と喧嘩をした、悲しい日。雨の日、風の日、晴れた青空の日。いつだって、外から帰る庭先で、くるんと巻いた尻尾を振って、君は迎えてくれた。おかえり、おかえり! 一緒に遊ぼう、散歩に行こう! そんな君の声が、ぼくには聞こえていたんだよ。


「ぼくね、お話が出来るんだよ」


 胸を張って、両親にそう言ったときのことだって、ぼくは覚えている。


 君の声、ぼくにはちゃんと、聞こえていた。そのはずだった。だったのに。



 聞こえていれば、君は苦しくなかったんだよね。


 君は、とっても我慢強くて。人間の言葉を話せない君は、じっと、耐えているしかなかったんだね。

 ぼくたちは、気付けなかった。君の優しさに、甘えっぱなしだった。


 まだ帰りたくない、遊びたいと、散歩の終わりにはいつもぐずっていた君が、もう帰ろうと、とぼとぼと歩くのは、年をとって体力がなくなったせいだと思っていた。

 ご飯をあまり食べなくなったのも、家に上がりたいと、くんくん鳴き出したのも、暖かな縁側に寝転がると、中々起きなくなったのも、十六年も生きたから、年相応なんだと、みんな思っていた。子犬の時より体力が落ちて、おじいさんになったからだねって、誰も疑わなかった。


 本当に、苦しかったね。


 ある夜、お腹を下した君は、吐いてしまった。ぐったりした君を見て、ぼくたち家族は、やっと、君を病院に連れていこうと考えたんだ。

 遅かった。

 そんなの、遅すぎた。

 癌は、悪性腫瘍は、あちこちに転移していた。

 全てを切除するには、君はもう、歳をとりすぎていた。重なる手術に耐えられる体力なんて、もう残されてはいなかった。

「お家に、帰ってもいいですよ」

 数日の入院を終えて、先生はそう言った。その言葉で、ぼくたちは色々な、それこそ、頭が破裂してしまいそうに重く巨大な事実を、理解してしまったんだ。

 君はもう、助からない。



 ねえ、思い出してるんだよ、君との思い出を。たくさん、たくさんの楽しいこと。辛いことや悲しいことは、君がその、温かな舌でいつも舐めとってくれたから、楽しい思い出ばっかりが、頭の中を回るんだ。

 リビングのソファーの足元、毛布にくるまる君は、すっかり、痩せてしまった。毛皮の上からでも、あばらの数が数えられる。点滴のために、毛を剃られてしまった前足の、剥き出しの肌が痛々しい。艶を失った小麦色の毛皮、乾いてしまった真っ黒の鼻。

 だけど君は、生きている。息をするたびに動くお腹を見て、ぼくはなんとか安心する。


 なのに、こんなことを考えてしまうぼくは、なんてひどい人間なんだろう。


 早く眠ってしまったほうが、君は楽なんじゃないか……って。


 目を閉じて、一日でも早いまま、呼吸が止まってしまえば、君は、この苦しみから解き放たれて、幸せなんじゃないか。


 けれど、何よりひどいのは、こういうこと。


 早く、ぼくをこの辛さから、解放してくれないか。


 何をしていても、ご飯を食べても、お風呂に入っても、学校で授業を受けていても、課題を済ませていても、眠る前も、目の覚めた時も、いつだって心にあるのは君のことなんだ。君が苦しんでいる限り、ぼくは安心することなんてできないんだ。


「……ごめん。自分勝手で、本当に、ごめんよ」


 それなのに、こんなぼくが涙を流すと、君は一生懸命首を上げて、こっちを向いて、美しい黒の瞳でぼくを見つめる。すっかり泣き虫になってしまったぼくは、君みたいに強がることさえできずに、めそめそと君の乾いた毛皮に涙を落としてしまう。もう、ご飯もろくに食べられなくなって、弱っていく一方の君に、泣き言を言って、残酷なわがままを考えてしまう。

「また、元気になったら、散歩に行こうな」

 さんぽ、という言葉を、君はきちんと理解していた。だから、大きな瞳をぱちぱちと瞬きさせて、懸命にぼくの手に鼻先を押し当てて、叶うことのない願いに、全力で応えてくれるんだ。


 君は、優しい子だった。ぼくたちに、悲しむ時間を与えてくれた。覚悟を決める為の時間を、残してくれた。急な喪失に狼狽え、悲痛に嘆くぼくたち家族の姿を、作らせないでいてくれた。


「もう、頑張らなくていいよ」

 だからぼくは、君の、硬く、ごわついた毛皮をなでて、半分だけの嘘をつく。

「頑張らなくて、いいんだってば」

 言葉と正反対に、こんなの嫌だって、ぼくの中で、半分が叫ぶ。もう少しだけでも、生きていてって。

「もう、いいんだよ」

 その裏側、残った半分のぼくが、本当は生きていて欲しいんだと、願い続ける。


 家族思いの優しい君は、ぼくたち家族、全員が見ている目の前まで、耐えてくれた。

 ついに訪れた、そのとき。夕飯を終えた、静かな時間。もうすぐ、ぼくが生まれた日のやってくる、夏のはじまりの風が吹く夜のこと。

 首を上げる力のない君は、それでも、ぼくが手のひらに乗せて口元に運んだ水を、ぺろぺろと舐めた。水がなくなっても、ぼくの手を舐めてくれた。その舌の温かさ、確かな温もりを、ぼくは一生、忘れない。

 ふと、思い立ったように、前足を動かした。後ろ足をきゅっと曲げ、よろめきながら、必死に君は立ち上がろうとしたんだ。がりがりに痩せてしまった体で、栄養なんて残されていないその足で、床を引っ掻いて頭を上げて、ぼくと両親が見守る目の前で、もう一度、立って歩こうとしたんだ。


「もういいよ。もういいんだよ。お願い、もう頑張らないで」


 頑張らなくたって、ぼくたちはどこにもいかない。最期まで、一緒にいるから。いさせてほしいんだ。大好きだよ、君の代わりなんて、誰にもつとまらない。大丈夫だから、もう、苦しまないで。


 そんな想いを汲み取ってくれた君は、必死に言い聞かせるぼくたちの前で、もう一度お尻を毛布に落として、ゆっくりと横になって。


 穏やかに、静かに、逝った。


 滅多に鳴かない君は、最期に、くんくんと甘えた声を、小さくても確かに出して、ぼくたちが身体を撫でると、嬉しそうに、垂れてしまった尻尾を揺すった。これ以上ない安らぎの中で、ゆっくりと瞼を閉じた。

 ぼくには、君の言葉がわからなかった。

 わからないと思っていた。

 だけど、知ってるよ。きみが最期に言ったこと。震える足を懸命に立たせてまで、ぼくたちに伝えたかったこと。幼い頃に聞こえていた君の声は、空気を震わせなくたって、ぼくたちにはきちんと聞こえたんだ。


 ありがとうって。


「よく、頑張ったね」

 その温もりが消えるのが何より勿体無くて、君の亡骸を強く抱きしめて、もう止める理由なんてなくした涙を、ぼろぼろ零しながら、ぼくはそう言って嗚咽した。


 君の体から、窮屈だった、青い首輪が外れた。


 本当に、君は頑張ってくれた。最期の一瞬まで、ぼくたち家族を想ってくれた。

 ねえ、君は、うちに来て、本当に幸せだったのかな。もっとお金持ちで、庭も広くて、たくさんのおもちゃや、美味しいおやつを買ってあげられる家に貰われた方が、幸せだったんじゃないのかな。

 そんな仕様のない質問の答えは、君の幸せそうな寝顔が、教えてくれる。だからぼくは、涙が止まらない。

 ありがとう。うちに来てくれて。ぼくと一緒に育ってくれて、ぼくをずっと、見守ってくれて、ぼくたちの、家族になってくれて、ありがとう。君が生きていてくれて良かった。家にやってきたのが君で、本当に、良かった。



 ぼくは知っている。優しい君が、いつもぼくを見守ってくれていること。

 虹の橋を渡った君が、とても遠くて、触れられそうに近い場所から、そのくるんと巻いた尻尾を振って、鼻をつやつやと濡らして、しなやかな毛皮に包まれて、真っ直ぐに、ぼくたちを見守っていてくれることを。


 だから、また会えた日に、たくさん散歩に行こう。首輪のいらない場所で、元気に跳ね回る君に会いたいんだ。

 ぼくは、もう少し、頑張るよ。君みたいに、優しい命になりたいんだ。再会の時、胸を張って君を抱きしめられる人間でいたいんだ。

 だから、虹の橋の向こうの世界、そこに立つ君に、また会える日まで。

「虹の橋」とは、飼われていたペットたちが、亡くなった後に向かうと語られている場所です。

虹の橋を渡ってしまった家族をお持ちの方、今現在、ともに暮らしている方。また、ペットを飼ったことない方にも、何かしら、このお話で心に届くものがあれば、これ以上の喜びはありません。

ありがとうございました。

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[良い点] おもわず……泣いてしまいました。 後半の心理描写がリアルですね。 本当にそうなんです。早く死んでくれればいいのに……そうしたら楽になれるのに、ずっと考え続けなければならない自分が考えるのを…
[良い点] なんだか、感動して泣けるストーリーですごく良いなって思います。文中は回想形式で綴られていて、それに自分も書いたことがあるので、すごく共感できました。 [一言] 美しいお話だと思います。*\…
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