桜の花と巡るいのち
家の近くの桜並木を見て、急いで書き上げました。
桜並木は、春の色に包まれていた。
穏やかな日差しの中、鳥須 真綾は父と手をつなぎ歩いていた。家の近くの小高い川沿いの道は、休日の散歩コースにはもってこいだ。
「きれいだね、パパ」
と、真綾は父を見上げた。ブレザーの裾から袖を経て、高い横顔へとたどり着く。父の両脇には、薄紅の背景が見えた。
「そうだね。でも、もう満開ってわけじゃないな」
父の凜は、娘の方を見ずに言った。
「そう?」
「見てごらん、ところどころに緑色の葉っぱが出ているだろ」
「ほんとだ」
改めて桜を見ると、薄紅色のすきまを縫うようにして、ささやかに新緑が顔を出している。アスファルトの道には、桜の花びらがびっしりと落ちていた。
「じき、花はすべて散り葉で埋め尽くされる。暖かくなるにつれて、どんどん緑が深まっていくだろうね」
「色が変わっていくの?」
「いのちが巡っていくんだよ」
と、父は言った。
「いのち?」
「そう。季節を経るごとに、それは姿を変えて、流れていく――」
真綾は目を閉じて、うーんと唸った。
「……よく分かんないかも」
父は笑った。
「ちょっと休憩していこうか。ママのことが心配だから、少しだけ」
「うん」
少し前にいったところに、横に長い木製のベンチがあった。真綾はぴょんと飛び乗るように、それに座った。
「飲み物でも買ってこよう。待ってなさい」
「はーい」
真綾が答える。父は脇の坂道から土手を降りていった。路傍にある自動販売機に向かったのだろう。見上げると、桜が頭上に屋根を作っていた。まだ小学1年生という年齢ながら、見るともなしについ眺めてしまう。美しいものに感動する心は、生まれながらに備わっているものらしい。ふいに風が吹き抜ける。春のはじめの風は、まだ心持ち肌寒かった。ぱらぱらと花びらが目の前に落ちてゆく。
やがて父が戻ってきた。手には、缶コーヒーと細長いオレンジジュースの缶を持っている。オレンジジュースを真綾に手渡した。父が子供のころからあるというそれは、真綾も慣れ親しんだ味で大好きだった。父が缶コーヒーのプルタブを開け、ひと口飲む。真綾もそれにならった。程よいオレンジの風味と確かな甘みが口の中を駆け巡った。
「で、さっきパパが言ってた、“いのちが巡る”ってどういうこと?」
と、真綾は切り出した。父はうーん、と少し考えてから言った。
「まず、いのちって何だか分かるかい?」
「うーん、なんとなく……」
真綾はそう応えたが、その顔は少し自信がなさそうだった。
「真綾は今、生きているだろ」
「うん。パパもだよね」
「そうだね。僕たちだけじゃない。この桜の木も、川に住む魚も、空を飛ぶ鳥も――あらゆるものが生き物として、今を生きている。“いのち”というのは、それぞれの生きているという証のようなものだ。つまり、この世の生きとし生けるものすべて、いのちを持っている。ここまではいいかい?」
「うん。大丈夫」
と応えながら、真綾の頭はフル回転状態だった。大学で生物系の研究をしている父は、毎度のことながら説明が論理的で言い回しも難しい。それは幼子である真綾にも容赦がなかった。いや、父としては分かりやすく話しているつもりなのかも知れない。けれど、そもそも前提となる話の内容が複雑なので、どんなにかみ砕こうがやはり難しいのだ。
とはいえ、真綾は父と話している時間が好きだった。話についていこうと必死になることさえ、何だか心地よく感じてしまう。しかし、同世代の子供たちを見ると、そのように感じるのは自分だけらしい。自分は変わっているのかも知れない――と真綾は子供ながらに思うのだった。
「だけど、いのちはいつまでも変わらないわけじゃない。その時期や季節によって移り替わってゆく。姿形を変えることもあれば、別のいのちにとって代わることもある。例えば、この桜。やがて花は散り、夏に向けて緑を深め、やがて冬になると葉は散って、やがて次の春には新しいつぼみを芽吹く――。ひとつの桜という木だけれど、1年を通してその形は変わっているんだ」
「私たちも変わっていくの?」
と、真綾は尋ねた。
「もちろん。真綾も徐々に大きくなって、やがては大人になる。あと、今、ママのお腹の中に赤ちゃんがいるだろ?」
「そうだね」
母・愛稀のお腹は、今はちきれんばかりに大きくなっていた。姉になるという実感はまだあまりないが、それでももうじき新しい家族ができるというのは分かった。
「人も生まれて成長し、結婚して新たないのちを生む。新しいいのちがまた成長する。こうやっていのちを繰り返していくんだ。難しい言葉でこれを“世代”というんだが」
「ふーん……」
真綾は考えてみた。まだ実感はないまでも、自分も成長し大人になってゆく。やがては結婚し子供を産むようになるのだろうか。そうだ――ふと真綾は思った。
「私、大きくなったらパパと結婚したいな!」
真綾はにっこりと笑って言った。父も笑ったが、その顔は少し困ったようだった。
「そっか。でも、そうしたら、ママはどうするんだい」
「それもそうか……」
難しいものだな――と真綾は子供ながらに思った。
「それに、真綾が大人になるころには、パパはおじいさんになってしまうよ。いのちは巡るというのは、そういうことでもあるんだ。心配しなくても、真綾には真綾にふさわしい人が現れるよ」
と、父は言う。
「うーん――あまり実感はわかないけれど」
真綾は首をかしげて言った。
「真綾はまだ将来の可能性がたくさんある。楽しみにしていなさい」
と父は言った。けれど、真綾は思う。なんとなく、大人になっても『パパが好き』と思っていそうだ。そういえば、幼稚園の頃に憧れていた男子はいた。けれど、父に対する好きとはまた別の感情だった。その子と結婚したいかといえば、そうではない。
(いつか、パパより好きと思える人が現れるのかなぁ――)
真綾はぼんやりと考えた。
ふと、携帯電話の着信音が鳴った。父のスマートフォンのようだ。父はブレザーのポケットから電話を取り出して、電話に出た。
「もしもし? 本当か、すぐに戻る」
父はそう言って、電話を切った。
「ママから?」
「ああ。すぐに戻ってきてって」
「どうしたの?」
「陣痛がはじまったらしい。帰って、急いで病院に行こう」
父は缶コーヒーを飲み干し、立ち上がった。真綾もそれにならう。手をつないで歩き出したが、その足取りは先ほどまでとは打って変わってハイペースだった。
父に手を引かれながら真綾は思った。先のことなど、考えても分からない。ただ今は、今まさに生まれてくるいのちに出逢えることを楽しみにしよう――と。




