006「ときめき魔法」
二階に上がったエマを待ち構えていたのは、折れたパステルや木炭に、パン屑と綿ぼこり、それから、さまざまな色や形が描き殴られた画用紙や帆布の山であった。エマは、開けたドアの前へストッパーのようにトランクを置くと、それらを適当に積み上げて足の踏み場を確保しながら部屋の奥へと進み、外に小さなバルコニーが見えるフランス窓を開ける。すると、オレンジオイルや絵の具のニオイが、吹き渡る爽やかな風によって外に逃げ、画材特有の臭気が薄らいでいく。
「さ~て。魔法の腕が鈍ってないか、ちょいとばかり確かめますか」
エマは、胸元のロケットペンダントを両手で包み込むようにして握ると、その指のあいだに吐息でも吹きかけるようにしながら、囁くような声で詠唱する。
「ベントラカタブラ、カリフラクワバラ、エロヒムニラヒム。しかるべき物は、しかるべき場所に戻れ!」
呪文をかけた途端、ペンダントから指のあいだを縫うように幾筋もの淡い光が発せられ、部屋じゅうがほのかに照らされるやいなや、散らかっていた物が、まるで見えない手足でも生えたかのように、ひとりでに動き出す。エマは、それらの動きに注意深く目を光らせ続ける。
ほんの数分程度だろうか。ペンダントの光が消え、エマがペンダントから手を離すと、さきほどとは別の部屋かと見違えるほど、すっかり整理整頓が行き届き、乱雑に物が放置されていたとは、とても思えない仕上がりを見せる。
「フー。とりあえず、こんなものかしらね」
片手の甲で、エマが額に浮いている玉のような汗を拭っていると、階段を上ってきたアランが、片手で顎を撫でさすりつつ、彼女の背後から驚き交じりに感心して声を掛ける。
「おやおや。二人がかりでも夕方まで片付かないだろうと踏んでいたのに、もうキレイになってる」
「あっ、アランさん。お店を空けて大丈夫なの?」
「平気だよ。ここは、いささか駅から距離があるから、それほど客が殺到することがないんだ。――いやぁ。マリーが見たら何というだろうなぁ」
「マリーさん?」
小首を傾げてエマが訊ねると、アランは眉をハの字に下げて笑いながら説明する。
「画家をしている、僕の妹だよ。ここに置いてあるのは、みんなマリーが納戸代わりにしまい込んだ物ばかりさ」
「へぇ、画家さんなんだ。いつもは、どちらに?」
「西側にある高台に、集めた廃材でアズマヤを建てて住んでるんだ。変わった奴だよ。――オッ。クロエが帰ってきたな」
階下から「ただいまー」という幼い少女の声が聞こえる。アランは「おかえりー」と声を張りつつ、踵を返して急ぎ足で一階へ向かう。
「あっ、私も行く!」
そう言って、エマはアランの背中を追いかけて行く。このあと、エマは無邪気な幼女の鋭い質問にタジタジとなるのだが、このとき彼女は、そんな未来を微塵も予想していなかった。