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初心な二人の恋の行方

作者: 四季咲樹

  初心な二人の恋の行方

              四季咲樹

 序章

 

男の両親は彼が一六歳の時分に家を出て一人暮らしをしなさいと云った。霞家ではこんな家訓がある『男子たるもの一六歳で炊事、家事、洗濯をこなして生きていくこと』とある。

高校に進学することになった男は、一人暮らしを始めることとなった。


第一章 春の並木道

 

 季節は春、日曜日の午前五時をまわった早朝のこと。

 白のストライプの入った黒いジャージを着た男はランニングに出かけていた。彼は桜の並木道を走り、汗を流している。この並木道では、三年前に通り魔や強姦事件といった様々なことが起きた、それ故に春と冬の季節では、午後五時から午前六時まで設置された幾つもの街燈が煌煌と光を燈していた。

 並木道を走っていると、前を歩いている女性がいることに男は気が附いた。そして自然と走るペースを緩め、足を停めて女性の方に視線が奪われた。その女性は桃色のワイシャツに白い長ズボンと云う出で立ちの長い黒髪をした人だった。

女性に釘付けになっていると、緩やかな風が吹き、その風は彼女の髪をやさしく攫った。それにより女性の髪は靡き、男には彼女の髪の一本一本が流水のように美しく見えた。

 そんなことを思っていると女性が男に声を掛けてきた。

何故なにゆえ私のことをそんなにも熱視線で見ているのかな?それに女性の髪を表現するのに、そんな何処からか抜き出したような台詞を口に出して呟かれても女は振り向かないよ」

 女性は少しお道化た様に男に云った。

「もしかして、不意に口に出してしまったような振りをして、実は目に入った女を口説こうとしたとか?」

 女性は楽しそうな笑みをし、男のを見た。

「す、すいません、――声に出ていましたか、別に口説こうとしたわけでは……」

 男は慌てた様子で云った

「あら、そうなのそれは残念だわ。ところで君はこの近くに住んでいるの?」

 女性は男に唐突に訊いてきた。

「はい。この近くの団地に住んでいます」

 男の言葉を聞いて女性は小さく驚いた顔を男に見せた。

「へぇー、そうだったの。(この近くで団地は一棟しかないからすぐに何処かは判るのだけど……)君のような子を観たことがないのだけれど、この道を走るのはもしかして今日が初めてなの?」

 女性はまるで動物を観察するような視線を男に向けた。

「ええ、一週間前に引っ越してきましたので」

 男は躊躇なく答えた。

「(ちょうど私が実家に帰省しているときか)成程ね。それで君のことを私は団地で見かけなかったのか。納得したよ」

 その女性は、まるで男が現在住んでいる団地の住人のような云い方をした。

 男は彼女の云い方が引っかかり、訊いてみた。

「もしかしてなのですが、あの『日暮団地』に住んでいる方ですか?」

「うん、そうだよ。先程の会話から私が住人であることを理解するなんて凄い洞察力だね」

 女性は驚いたような表情を見せた。

「あっ、そうだ。まだ自己紹介をしていなかったね。私の名前は天狗塚美夜虚てんぐづかみやこです。以後お見知りおきを」

 彼女はさらりと云った。

「――俺の名前は霞久信かすみひさのぶです。宜しくお願いします」

 久信は美夜虚に名を名乗り、そして彼女は彼にこう訊いた。

「霞君は高校生かしら?」

「……ええ。明日からこの近くにある高校に通う新入生です。――でも何故そう思われたのですか?」

「それはね、君の着ているジャージが君の身分を証明しているからだよ」

 久信は美夜虚に云われて自分の服装を確認した。着ているジャージには春風と刺繍がされ、桜の花びらを模した刺繍がされていた。

 春風高校とは正式名称『春風恋哀高校』と云う。この近くに住んでいる住民は何時しか略して春風高校と呼んでいる。

「私と同じ高校だね。そうか……、なら私の一つ下の後輩に当たるのか」

 美夜虚はまたも先程のようにお道化たように云った。

 それを聞いた久信は驚いた。それは、美夜虚の背が高く大人びて整った顔立ちで、大人の女性を思わす眼差しをした美しい女性であったからだ。久信から観た彼女の姿はとても一つ年上の女性と云うには無理があった。年齢で云うならば二十二歳もしくは二十三歳と云った印象を初見で受けていたからだ。

「ん?何でそんなに驚いたような貌をするのかな?」

「そっ、それはとても一つ歳上の女性には見えなかったもので、すいません」

 久信は美夜虚に謝り、頭を下げた。その後、彼女は唇の端を吊り上げ、上目づかいで彼を見た。

「それはつまり、私は歳相応に観えないって云う事かな?」

「えっ、えっとそのー、はい。そう云うことになります」

 久信は躊躇し、少し遠慮してから口にした。

「へぇー、なら私はおばさんっていうことかしら?」

 そう訊かれた久信はすぐに否定した。

「いえ、決してそう云う訳ではなくて、ですね、何て云うのでしょうか。そのつまり、女子大生のような綺麗なお姉さんに見えます」

 久信は頬を赤く染めて、美夜虚から顔を背けた。

「そう。ならいいのだけれど」

 久信がそう云うと美夜虚は笑いながら安心したように微笑んだ。

 久信と美夜虚は暫くの間、他愛もない話をそれからもしていた。ちょうど六時を過ぎたところであった。

 美夜虚は久信から古びた革ベルトの腕時計に視線を移した。

「色々話しているうちにもう一時間も経っちゃったね」

「そうですね。そろそろ日暮団地に帰りましょうか?」

 久信は爽やかな貌で美夜虚に云った。すると彼女は彼の貌を真っ直ぐ見て驚いたような顔をして口の端を小さく吊り上げた。

「そうね。後、ちょっと訊きたいのだけれどいい?」

「ええ」

「じゃあ、云うけどさ、さらりと誘ってくれたけど、そんなに私と二人きりで歩いて帰りたいの?」

「え?えっとそう云う訳ではないのですが、何も用事がないのでしたらと思い誘ってみました」

 久信は内心で心臓が早鐘のように鳴り続け乍ら、照れ隠しで、美夜虚から顔を背けた。

久信がとった素振りを見た美夜虚は自分まで照れ臭くなってしまい、そっぽを向いていた。

(彼は年下のせいか、可愛いく見えちゃうのよね。それに口調が軟らかで、話していて、私まで軟らかく解される感じがする)

そのようなことを美夜虚が考えていると不意に久信に声を掛けられた。

「えっと、どうしますか?」

「いっ、行くわよ。私は気晴らしに散歩していただけだから、此処に立ち止まる理由はないもの」

 美夜虚は並木道の出口の方を向いて歩きだした。

「そうですか。では、帰りましょう」

「そうね」

 美夜虚と久信の二人は桜の舞い散る並木道を二人並んで歩いた。


 第二章 交流


 翌日の六時を過ぎた朝。

 久信は学校に登校する前に昨日と同じように桜の並木道でランニングをしていた。すると久信の前を紅い三角タイに黒いセーラー服を身に纏った美夜虚が桜の花を眺めながら歩いていた。彼は彼女に挨拶をするために背後から声を掛けた。

「おはようございます。天狗塚さん」

「ひっ、か……霞君おはよう。今日もランニングをしているの?」

「はい。天狗塚さんは桜を見ながら散歩ですか」

「ええ、今日は少し外が暖かいので。それから私のことは天狗塚ではなく、美夜虚と苗字ではなく名前で呼んで。私、あまり苗字で呼ばれるのって好きではないの。だからお願いね」

 美夜虚は久信に上目づかいで云った。

「分かりました美夜虚さん。なら俺のことも名前で呼んで下さい」

「霞君がそう云うなら名前で呼ぶわ。これからも隣人として宜しく久信君」

「はい」

 ふと、久信は美夜虚に訊いてみた。

「美夜虚さんはこんな朝早くに何でもう制服を着ているのですか?」

「あ、それは寝間着で外出るのは恥ずかしいし、新しい服を箪笥から出すのが勿体ないから、制服を着て外に出ようと思ったの」

「そうですか、ところで今日はどうして学校に来ているのですか?今日は新入生の始業式があるだけで、そのため二年生と三年生は休日になっている筈ですが?」

「ちょっとした用があってね」

「そうですか」

 久信は桜の舞う花びらの中にいる黒いセーラー服の美夜虚がとても尊く思えた。例え彼女に手を伸ばしたとしても届かないという考えが彼のもどかしい気持ちを蝕み、想いを告げる勇気を着々と奪っていった。

 今の久信の瞳には桃色の花びらが黒いセーラー服の柄のように見え、美夜虚の背後の桜の木々とともに彼女が映っていた。この時の彼の気持ちは、まるでキャンバスに描かれた一枚の絵を観ているような此処に在って、此処に無い物を観ているようなものだった。

「制服とても似合っています」

「あ、ありがとう」

美夜虚は頬が火照るのを感じていた。

 美夜虚は団地の方に向かって行く久信の背中を見詰めていた。彼女には彼の背中が大きくて逞しく見えていた。

「広い背中だなぁー。伯父さんの背中みたいで、格好良いな」

 美夜虚はそのようなことを呟き、久信の背中が視界から消えるまで目を逸らすことはなかった。

 久信はランニングを終えて帰宅した。

久信が時計で時刻を確認すると針は六時三〇分を指していた。それを確認した彼は朝食の支度をしようと台所に向かい、冷蔵庫に食材が入っているかを確認しようとした。

すると、「ピンポーン」という玄関のチャイムの音が鳴った。久信はすぐに玄関の方に体の向きを冷蔵庫から玄関の扉に替えて、扉を開けた。すると扉の向こう側にいたのは美夜虚であった。

「先程はどうも」

 美夜虚は先程と同様に制服姿で照れくさそうにし、持っていた鍋を久信に差し出した。

「こ、この鍋は何ですか?」

 久信は自分に差し出された鍋が何を意味しているのかが分からず美夜虚に対し、疑問を呈した。すると美夜虚の返事はこうであった。

「昨日、肉じゃがを作ったの。だけど多く作りすぎて余ってしまったのよ。だから、よかったら一緒に朝ご飯を食べてくれないかなと思って誘いに来たの。それで、どうかな?もう朝ご飯は食べちゃった?」

「いえ、まだですよ」

 美夜虚は久信の部屋のテーブルに料理を並べた。

「美味しいです」

「本当!ありがとう。お母さんから肉じゃがは、厳しく仕込まれたから、自信があったの」

「そうなのですか、美夜虚さんのお母さんは料理がお上手なのですね」

「――ええ、そうなのよ」

美夜虚に誘われた久信は誘いに応じて、彼の部屋で美夜虚の手料理をご馳走になり、その後、彼女は部屋を出て外で久信を待つことにし、彼は高校の制服を身に纏いその場を後にした。

 九時三〇分を過ぎに春風恋哀高校の始業式が終了し、生徒は各自の教室に足を運んでいた。

久信は一年四組に在籍することになり、そこに向かっていた。その途中で久信は曲がり角で茶髪のショートカットで眼鏡を掛けた女生徒にぶつかってしまった。

「あっ、すまない、怪我はしていないか?」

 久信は自分とぶつかって尻餅を着いた女子に腰を落として手を差し伸べた。彼女は彼が差しのべた手を取り、礼を述べた。

「ごめんなさい。あなたは大丈夫でしたか?」

「ああ、此方には怪我はないから心配しなくても大丈夫だ」

「そうですか。それならよかったです」

 女生徒はそう云うと、何かに気が付いた素振りを見せた。

「何かな?」

「あ、いえ、上履きを見ると、つま先の色が青色だったので、私と同じ新入生なのかなと思ったものでして」

 一年生はつま先が青、二年生が赤、三年生が黄である。

「成程、ところで名前を訊いても?」

「私は天狗塚麗てんぐづかうるはです。以後宜しくお願いします」

 久信は彼女の苗字を聞いて驚いた。

「天狗塚って、もしかして君は一年上の先輩の天狗塚美夜虚さんの親戚なのか?」

 久信がそう云うと麗は驚いた顔をして彼の貌をじっと見詰めた。

「はい。美夜虚ちゃんを知っているのですか?」

「み……美夜虚ちゃんって、君と彼女はどういう関係なの?」

 訊かれた麗は笑顔でこう口にした。

「美夜虚ちゃんとは従妹なのですよ」

「従妹か。それで、眼差しに美夜虚さんに似た面が」

 久信は納得したように呟いた。

 美夜虚の目もとはとても優しい眼差しをしている。まるで、優しさに包み込まれるような。

「はい。親戚にも二人は目以外にも何所か似ていると云われるのです」

 麗は少し暗い笑みを浮かべた。

「そうか。でも君は美夜虚さんと違って……、彼女が『月明かりのような微笑』ならば、君は『陽だまりの微笑』という印象があるかな」

 久信はそう麗に云い微笑掛けた。すると麗は頬を苺のように紅く染め、照れたように貌を目もとまでに掛かっている前髪で、彼から自身の貌が見えぬように隠した。

「そ、それでは私はこれにて失礼します」

 麗はそう早口に云い脱兎の如くその場を去った。

 久信が教室に這入ると、中学時代からの親友である宮崎琢磨みやがわたくまに遭った。

「よぉ、久信お前も今教室に着いたところか」

「ああ」

「それでお前は何処の席なんだ?」

「お前の後ろだよ」

 久信は琢磨の後ろの席に鞄を置き、席に着いた。

「そうか、それなら授業中に喋れるな」

「いや、それは拙いだろう」

 琢磨は身長一五〇から一六〇センチメートルで左目に傷のある男だ。中学の時は、ワイルドチビ略して〝悪チビ〟と云われていた。因みにとうの本人は生徒会長を務めていて優秀だった。

「それで、お前は何をしているんだ、先程校庭の方に視線を向けていたみたいだが?」

「いや、たいしたことはないよ。唯、知っている人が歩いていたから見ていただけさ」

「――そうか、程々にしておくんだぞ。校庭の方では不良の生徒が授業中は遊んでいる奴が多いから見られていると勘違いされて、目をつけられたら大変だからな」

「ああ、気をつけるよ」

「それで、誰を見ていたんだ。才色兼備で知られる天狗塚先輩だよ、さっきそこを歩いているのを見かけたんだ」

「――そうか、そんなに彼女は有名な人なのか?」

「ああ、成績も断トツの学年とトップで、彼女の美しさに告白する男子の数知れず。天潜花先輩のその何気ない優しさは女子をも告白に走らせたという伝説まで」

「そうか、後半の方は盛った感じの信憑性のない話だが、他者をそこまでさせてしまうなんて、もしどこかのミス何とかなどに出たら春風恋哀高校の男子総勢四〇〇人の折り紙附きで優勝しそうな女性ひとなんだな」

「ああ、まったくだよな。俺なんか神々しくてお近づきになるのが恐れおおくてよ」

 久信と琢磨が話していると、チャイムが鳴り、担任の先生が教室に這入って来た。

「出欠を取るぞ」

 担任はその後雑談を少々生徒の前で話した。

 琢磨は後ろの席にいる久信に小声で話しかけた。

「ところで、お前は部活どうするんだ?また陸上部に入部するのか」

「いや、まだ決めかねている」

「……そうか」

(まだひきずっているのか、あの事を)

 久信は中学の時、陸上部でそれなりの成績を残していた。だが練習中の事故で足を骨折し、その年の大会に出られず、引退。

 怪我は治ったものの、練習には出ず、退部届を出し部活辞めた。

「今でも走っているのか?」

「ああ、偶にな……」

 本当は毎日走っているが、タイムは伸びず、このまま陸上の世界に出るつもりはない久信だった。

 先生雑談が終わりクラスでの自己紹介が始まった。

 始業式が終了し、校門を出たところで背後から久信の背中に声が掛けられた。すると彼は首だけを後ろに回さずに體ごと体勢を変えて振り向いた。

「やぁ、今から帰りなの?」

 久信に声を掛けてきたのは美夜虚だった。

「美夜虚さん!どうして此処に、何か用があるって云っていまいせんでしたか?」

 美夜虚はそれを聞いて、にっこりと笑みを浮かべて、何故自分が此処に居るのかを説明し始めた。

「今日は部活の事で、色々な事を纏めた書類や新入生へ向けての部活動勧誘のチラシなどの作成といった色々な作業をしていたのよ」

「そうなのですか。ところで美夜虚さんは何の部活に入っているのですか?」

「――文学部だよ。主な活動内容は小説や詩を書くのと、部員の誰か一人に手紙を書いて渡すとかかな。因みに現在部員は私一人なの。だからもしよかったら文学部に入部してくれると嬉しいのだけれど。駄目かな?……」

 美夜虚は今日作成したと思われるチラシの束から一枚を抜いて久信に見せながら部活の活動内容の説明をした。

「えっと、それは構いませんよ。後、どうして部員が美夜虚さん一人だけなのですか?」

 それを訊かれた瞬間、美夜虚の表情に翳りが差した。それから少し迷ったのか開口されるまでに数秒の間があった。

「私が一年生の頃に二年の先輩が一人と三年生の先輩の複数が居たのだけれど、二年生の先輩が交通事故に遭ってしまって、そのまま息を引き取って亡くなってしまったの。だから文学部の部員は現在私一人だけになってしまったのよ」

 それを美夜虚の口から聞いた久信は訊いてはならないことを聞いたと思ってしまった。それが顔に出ていたのか、美夜虚は慌てて大きく両手を振って見せた。

「あっ、でも気にしないでね。もう数ヶ月も前の事だから。それに久信君が入ってくれたら部員も増えるしさ」

 美夜虚は再度、笑顔を表に出して云った。

「そうですか。ところで美夜虚さんも今から帰るのでしたら一緒に帰りませんか?」

 久信が美夜虚にそう訊くと彼女は人差し指を唇に当てそっぽを向いて考える素振りを見せるとクスっと笑って彼の方に向き直り、視線を重ねて答えた。

「それはもしかしてデートのお誘いかしら?」

 それを聞いて久信は頬を朱色に染めて肯定した。すると美夜虚の目が大きく見開かれた。数秒すると彼女もまた自身のからかいによって返された返事により頬を朱色に染め恥ずかしくなってしまった。

「それなら、初めて私たちが出逢った桜の並木道を通って帰ろうよ。少し遠回りになってしまうけど。どうかな?」

 美夜虚はそう云って久信の返事に潤んだような瞳をしながら期待を寄せた。

「ええ、行きましょう」

 久信は照れ臭そうに云った。

「そう、それならさっそく帰ろうか」

 美夜虚は、一足先に足を一歩前に出してリズミカルなステップで久信を追い越して、両腕を自身の腰の後ろで組むように回し、左足を軸にして左向きに半回転し、久信の方に向き直った。そして上半身を少し前へ傾かせて口もとに笑みを浮かべ、ウィンクをして見せた。

 久信はつい見入ってしまった、美夜虚の濡れた、軟らかく見える下唇、そして豊満で暖かな果実に。

「どこを見ているのかなぁ~」

 久信の視線に気が附いた美夜虚は、悪戯を仕掛け、それに嵌った対象を観察する人間の笑みを見せた、だが彼には成功で口元が歪んでいる人間の素振りにも観えていた。

 久信は一つ咳払いをし、「――いえ、何でもありません」と一言告げた。

 暫く二人で桜が咲き乱れる並木道を歩き、道に設置されているベンチに久信は目をやり、美夜虚にそこに座るよう促して共に座った。

「桜の舞い散るさまがとても綺麗ね」

 最初に言葉を紡いだのは美夜虚だった。

「そうですね。それに風が心地良くて、とても心が落ち着きます」

 二人は十分間ほど無言で桜の舞い散る姿を視界に映していた。

「久信君ってさ、何か雲を掴むような感じがする人よね」

「そうですか、それなら忍者になって霧隠れならぬ雲隠れで、情報収集や暗殺の任務にでも就いた方が天職ですかね?」

「どうだろうね。――そろそろ帰ろうか?」

「……そうですね。のんびり歩いて行きましょう」

 二人はベンチから腰を上げた。

久信の方が一歩前に足を踏み出したと同時、彼は自身の掌に温かい何かに触れられている感触が伝わってきたことに気が附いた。

左手の方に視線を向けると美夜虚の手が久信の手を優しく、そして弱々しく握られていることを知る。その直後に久信は美夜虚の貌に視線を移動させる。すると彼女の表情は見えなかった、正確に云えば、顔をアスファルトの方に少し傾けている所為で長い前髪で顔が隠されて表情が視界に入ることはなかったからである。

「どうしたのですか美夜子さん?」

「手を……その繋ぎたくてね、嫌だったかな?」

 久信はそう訊かれて、拒否する理由もなかったので、「いえ、そんなことないですよ」と返した。

 それから二人は暫く歩いていた。久信は内心で、(この並木道が永遠に続いているといいのに)と仄かな淡い夢物語を描いていた。

そんな事を思っていると自身の耳に呼ばれている声がしたので、声のする方に顔を向けた。

「なっ、何ですか?すいません考え事をしていて聞いていませんでした。ごめんなさい。もう一度お願いします」

「だから、今夜は私の部屋で夕ご飯を一緒に食べないかと誘っているのよ」

 それを聞いた久信は一瞬の間、思考が停止してしまった。それもその筈、そのような甘美な言葉を聞いてしまえば、春風高校の男子生徒であれば、思考停止を通り越して思考回路が焼き切れ、その後に爆弾を投下されて爆発してしまうと云っていい程の爆弾発言であるからだ。

久信が思考停止だけですんでいるのは美夜虚に対する耐性が彼の内に構築されつつあるからだと云っても過言ではない。つまり「慣れ」もしくは「適応力」の成せる業である。

「それは構わないですけど、でも急に何故なにゆえそのようなことを?」

 そう訊かれた美夜虚は暫くの間を置いてから答えた。

「一人でご飯を食べても味気ない感じがして、最近はその所為で寂しくて、それで誘ったのだけれど。迷惑だった?」

 美夜虚の貌が翳りを露わにしていた。そのような貌をして訊かれた久信は即答した。つまりそれは彼にとって考える余地すら掻き消す程の理由になり得たと云うことだ。

「迷惑なんてことはないですよ、寧ろ誘って貰えて嬉しく思います」

 久信にそう云われて美夜虚の貌の翳りが消えていった。

「そう。それなら、今夜ご飯の準備が終わったら部屋の方に呼びに行くね」

 二人で日暮団地の方に帰って行った。

 時刻は七時を過ぎていた。玄関ベルが鳴った。久信は玄関に向かい扉を押し開いた。

「こんばんわ。夕食の用意が調ったから呼びに来たよ」

「判りました。ではお邪魔させていただきます」

 久信は美夜虚に誘われて彼女の部屋に行った。

 美夜虚の部屋に入るとテーブルの上には多くの料理が置かれていた。

 テーブルの上中心には、大きくて底の深い皿にサラダが盛り付けられていた。テーブルの上には向かい合って食べられるように両サイドには箸、そして鯖の塩焼き、白米、お味噌汁が置かれていた。

「ご馳走ですね。凄く美味しそうです」

「そう、ありあとう。――さあ、暖かいうちに食べましょう」

 美夜虚は貌を笑顔に綻ばせ、嬉しそうにし、久信を席の方に座るよう促した。

 二人が食事を始めて十分が経過しようとしていた。

「あ、そう云えば、今日、教室に向かう途中に美夜虚さんと同じ苗字の同級生に会いましたよ。確か名前は『麗』って名乗っていました」

 それを聞いた彼女の表情からは驚きが見てとれた。それは進んでいた箸が止まったからだ。

「そう、会ったのね、あの娘に。とても良い娘だから仲良くしてあげてね」

「――はい」

 食事を済ませ美夜虚の久信は満足した貌で部屋をでた。


 第三章 部活動

 

 翌日、学校のホームルームが始まる前。

 久信は琢磨に話しかけられた。

「おはよう、部活決まった?締め切りが明後日だけど」

「ああ、文芸部に入部はいることにしたよ」

「ぶ、文芸部?どうして」

「お誘いがあってな。それで俺は本は嫌いじゃないから入ってみようと思ってな」

「そうか、元陸上部員が文芸部に転向か」

 琢磨は小さく笑って云った。

「まあいんじゃないか。部活なんて興味があったりするものを選ぶものだし」

「ああ、俺は出会いに恵まれているらしいな」

「急にどうした?」

「いや、ふと思っただけだよ」

「そうか」

 二人は笑って窓の外から空を眺めた。

放課後、昨日入部を決めた文学部の部室に久信は赴いていた。

「あら、久信君このような場所でどうしたの?」

 不意に後ろから声を掛けられ振り向くと、その視線の先にいた人物は美夜虚であった。

「美夜虚さん。今、丁度文学部の部室に入部届けを出しに行こうと向かっている途中だったのです」

「そうなの、それなら私と同じね。私も今、部室に向かっていたところで君を見つけて声を掛けたのよ」

「そうでしたか」

「久信君も部室に行くなら一緒に行こうか?」

「はい」

 二人は話し終わると部室に赴いた。部室の扉の前に着き、扉を美夜虚が開けた。すると部屋の中には八つの本棚が置いてあり、八つの棚には沢山の本が綺麗に並べられていた。

 扉の大きさに比べ室内はかなり広い造りになっている。

 文芸部の顧問である校長が、春風高校の元文芸部部長だった故に別館である文芸部の建物を改築し、一般にある高校の教室の倍の広さに仕上げたものになっている。

「こ、これは……凄い本の数ですね」

 久信はその本棚を見て感嘆の言葉を漏らした。

「そんなことないよ。この本は文学部が有するほんの一部でしかないもの」

 美夜虚は笑ってそう云った。

「そうですか。残りは何処に保管されているのですか?」

「学校の図書室の右側一番奥に並んでいる十二の棚に詰められている本がこの部が所有している残りの本よ」

「そうなのですか。図書室に……」

 久信は室内に置いてあった、テーブルを挟んで置かれていた椅子に腰を掛けた。

 美夜虚は立ち上がり、テーブルの上に置いてあるアールグレイの入った袋から、茶葉をティーポットに入れ、二人分のカップに紅茶を注いだ。

「入部届け確かに受け取りました」

 美夜虚は唇の端を吊り上げた。

どうやら入部部員が増えたのが余程嬉しかったようだ。

「それにしても色々な本があるのですね」

 本棚に置かれている本はジャンルごとに分けられていた。見ると比較的には恋愛ものが多く置かれていた。

 久信は立ち上がり、美夜虚の後ろに設置してある本棚の方に歩いた。

 久信は本棚の中の一冊の文芸誌に目がいって、その雑誌を手に取った。雑誌の目次を見ると著者名には『天狗塚美夜虚』と明記されているものがあった。

「これって!この雑誌には美夜虚さんが書いた小説が載っているのですが?」

「ええ、そうよ」

「この小説を読んでもいいですか?」

 美夜虚は少し躊躇ったものの許可を出した。

 許可を得た久信は本の頁を捲り、内容に目を通した。

 その本の内容とは……。


 第四章 虚空


  『虚空』

            天狗塚 美夜虚

 私の中には何もない。

 私の中は虚空である。そう……、空っぽである。

 そんな私におじさんが云った一言は私に衝撃を齎した。

「君は何で笑わないの?笑ったら可愛いと思うのに」

 そんな言葉を聞いて私は初めて自覚した私には『笑顔』が無いと。

 いいえ、笑顔はある、ただしそれはお道化た『笑顔』、つまり偽りの笑顔で周囲の人間ものを欺いていた。それを容易く無垢な目で見抜かれた事実に驚きを隠せず、瞳孔を数秒間だけ開いた。

 それからすぐに、私は笑顔を浮かべる為の練習をした。

私は独学で様々な医学書や小さな子供が読んでいる様々な絵本を読んだ。そして何を云われたら笑うのかと云う常識的な会話の範疇を。そして顔の筋肉の使い方を。

 私は数年間、笑顔をつくるための方法を学ぶことだけに専念してきた。私の中の容量は笑うことだけに特化し始めた。その所為か、その他のことを疎かにしてしまっていた。そう、これを他者は何と云うのだろうか、愚行と罵るのだろうか。

 私にはそれが解らない。私はそのようなことよりも、おじさんに云われて感じたこの気持ちのことを理解したかった。そして胸の内から消えることのないこの靄をどうにかしたかった。

 だが、私一人では『笑顔』をつくれなかった、そう『真実の笑顔』心からの笑顔あらわれを。

それからの私は虚空から歪な人間と成り、現在のこの世を彷徨っている。

「嗚呼……幾年まで続くのだろうか。永久に循環し続けるのだろうか」

「誰か私をこの苦悩から掬い上げておくれ……」

 私は声にならないそんな気持ちを胸の内にで呟いた。



  

久信は雑誌を読み終わるとそれを棚に戻して、暫く言葉を紡ぐことはなく、ティーカップに注がれた温かいミルクティーを口に含み、一息吐いた。

 美夜虚が書いた小説は雑誌の五つの短編のうちの一つであった、久信は『虚空』に目を通し云いようのない寂しさと悲しみを感じた。

「どうだった?」

 そう聞いてきた美夜虚の声は少し震えていた。

「とても悲しい気持ちにさせられる内容でした『虚空』という話は」

 久信は部室の天井を仰ぐ。

「――そう」

 美夜虚は静かにそう頷くと窓の外に貌を向けた。

 それから暫くするも二人は一言も言葉を交わすことはなかった。唯その部室にはミルクティーの甘い香りが漂い、ティーカップの中身を啜る音だけが静寂に度々ひびを入れた。

 下校時間が過ぎ、二人は日暮団地に帰宅するも、久信は『虚空』の内容が頭から離れることはなく、翌日の朝を迎えることになった。


 第五章 進展


 久信は寝床から目を覚ました。だが、睡魔が襲ってきたから二度寝をしようとしたが、しかし玄関辺留が鳴った。

久信は上半身を起こし、扉に駆け寄り開けた。

「おはよう……っ!」

 ドアの前に立っていたのは美夜虚だった。

彼女は扉の向こう側から出てきた久信を見て挨拶をする途中で言葉が途切れてしまった。その後、美夜虚は小さく悲鳴を上げて両の掌で顔を覆い隠して、地面にそのまま顔を伏せ、しゃがみこんでしまった。

 久信は自身の姿を玄関に置いてある姿見の鏡で注意深く見てとても女性の前に出ていいような格好でないことに気が附き、扉を閉めて室内に引っ込み、上着を着て暫くしてから、再度扉を開けてみるとそこに彼女はまだ先程と同じようにしゃがみこんで貌を紅くしていた。

「す、すみません。着替えている途中だったもので、本当にすみません。まさかこんな朝早くに部屋に来るなんて聞いていなかったので」

 美夜虚は立ち上がり、顔を紅くしながらも腕を横に振った。

「いえ、此方こそ連絡もせず突然お邪魔しちゃったから、ごめんなさいね。上ってもいいかしら?」

「ええ、どうぞ」

 久信は美夜虚を卓袱台の前に座らせて、緑茶とお茶菓子を出した。

「今日はどう云ったご用件で来たのですか?」

 久信がそう訊くと美夜虚の顔は翳り、口を開いた。

「昨日の短編のことでお話がありまして今日は参った次第です」

 美夜虚は少し改まり、口を開いた。彼女にそう云われ、久信は向き合うように座り、美夜虚の目線に合わせた。

「『虚空』のことですか、――ならば丁度よかったです、俺も話したいことがあったので」

 久信は口にお茶を含み一息置いた。

「其方からどうぞ」

 久信は先に美夜虚の話を聞くことにして発言を促した。

「はい、あれは……あの物語のヒロインをどう見ましたか?」

 久信は答えることに躊躇した。彼の内心では未だに纏まった回答など持ち合わせてはいなかったからだ。だが、自身の持ち得る言葉を駆使して、今の自身のバラバラになっている疑問点という名の数々のピースを組み合わせ、この場を凌ぐことにして言葉を紡いだ。

「最初に、ヒロインの「私」が「おじさん」の一言の影響で、最終的に得たものが『歪んだ人間』に成ったという結末と、今度は「私」が他者を頼って彷徨うという考え難い「私」の思考回路、に疑問を持ちました」

「何故?」

「――ここの部分では「私」が他者を頼るというような表現よりも利用して掬われる方が不自然ではないと考えます。「私」が『歪んだ人間』に成った経緯から察するに「おじさん」の一言が引鉄となって、この結末が引き起こされたとするならば、「おじさん」つまりは他者に対しての大きな憎悪が有って然るべきなのではないかと考えるからです」

 久信はいったん口を閉じると喉が渇き自身で注いだお茶を飲んで渇きを潤してからまた言葉を紡いだ。

「つまり俺が云いたいのは、この「私」という人間は不器用で弱いように表面上では見えるものの角度を変えて考えて見ると、全く違う人物像が浮かんで見えてくるのですよ」

 美夜虚は唇の端を釣り上げて小さな笑みを浮かべた。

「そう。それでどのような人物像ものが浮かんできたの?」

「それは、思考能力がある故に恨みや憎悪といった感情寄りではなく「助力」を求めた。自身でどうにかするよりも形は違えど「利用」することが真っ先に言葉を違えて、いや捩じ曲げて「助け」という言葉に置きえた。

 「私」が心からの『笑顔』を得るには自身の心に訴えてくれる何者かの存在が必要であると気が附いたからではないでしょうか。彼女は独学と云える方法で答えを得たのではないでしょうか、他者との関わり無くしては『心からの笑顔あらわれ』を得られないと。

そう読み解いたから俺は哀しい気持ちにさせられる内容だったと、感想を述べます」

 美夜虚はそれを聞き終えると俯き、「ふぅ」とため息を吐いた。

暫くしてから貌をあげた。

「そうか、成程ね。あれをそう読み解いたのか君は」

「はい」

 窓を開けていたせいか春の匂いを乗せて風が室内に吹き込んできた。

「君も『この娘』のように歪んでいるのね。形は違えど……」

 彼女は笑ってそう云った。

「そうですね。このように読み解く人はいないかもしれませんね。このように読み解いた一番の理由は『その他のことを疎かにしてしまっていた』という文章を読んだが故なのです」

 それを聞いて美夜虚は納得したような貌をした。

「成程。先程の説明だけでは確証がないままであった。だから腑に落ちなかったのだが、これで漸く納得がいったよ」

 漸く話し終わると時刻は夜の八時を過ぎていた。

「もうこんな時間か……。美夜虚さんもう夜も遅いですし夕飯を食べて往きませんか?この前ご馳走になったので、そのお礼も兼ねて」

「そうね。戴いて往くわ」

 久信は二人分のカツを揚げて、カツと炊きたての白米で彼女を持て成した。

 久信が食事をしていると美夜虚はカツを口に運んで暫くすると手に持っていた箸を箸置きに戻し、頬を少し朱色に染めて貌を傾かせた。

「久信君」

「何ですか?」

「私と今度何処かに行かない?」

 美夜虚に唐突にデートの誘いを持ち掛けられ、炊きたて白米を喉に詰まらせ、その所為で久信は噎せた。

 数秒の間お互い言葉を交わすことはなかった。だが久信の方も貌を朱くし、言葉を返した。

「突然何を云い出すのですか?」

「あんなに的確な面白い見方をする人って初めてでさ。よかったらこれから先も私の傍で私が書く作品を読んで意見とかを訊きたいなと思って。それとも私じゃ駄目かな?」

 美夜虚は言葉の最後の方はトーンを落とし上目遣いで云った。

 少しの間沈黙が久信の部屋を覆った。

「構いませんよ」

 その言葉を聞いて彼女は貌をあげて信じられないものを見るような瞳で久信をじっと見た。

「ほ、本当に私でいいの?」

「自分から訊いといて何を云っているのですか」

 久信は唇に手を添えて笑った。

「その証拠に明日は映画にでも行きませんか?丁度開校記念日で休日なので」

「いいの?」

「はい」

「じゃあ、午前に映画を見に行って、午後には水族館に行こうよ」

 そう云うと美夜虚は嬉しそうに久信の部屋にあった三冊の映画のパンフレットを手に取り、見て選び始めた。

 美夜虚はパンフレットに目を通しながら最近上映している人気の映画の候補を挙げる。

 ①『I LOVE YOU~永久に君のままで~』(洋画)

 ②『人妻Bar酒池肉林の夜』(邦画)

 ③『妄執の楽園』(ミステリーホラーアニメーション)

この三作品はジャンル別で一世を風靡している候補だ。

 久信と美夜虚は肩を並べてパンフレットに貌を覗かせた。

「ミステリーの『妄想の楽園』なんて面白そうだと思いますよ」

 頁に書いてある物語の概要を読みながら口に出した。

「そうかなぁ~、私は『人妻Bar酒池肉林の夜』と『I LOVE YOU~永久に君のままで~』が凄く惹きつけられるかな」

 二人は暫く何を観るかを話し合い、九時が過ぎた。

「そろそろ帰るわね」

美夜虚はそう云って久信の部屋を去った。

 その夜の事。

 宮崎琢磨から久信に電話が来た。

「はい、もしもし」

『あ、もしもしさっきお前の住んでいる団地の前を通ったら、天狗塚先輩がお前の部屋から出て行くのが見えたから、何か進展でもあったのか?』

「何だ知っていたのか?」

『ああ、前に文芸部に入るって聞いた後からなんだかお前が楽しそうに見えたから、放課後にお前の後をつけたら、部活が先輩と同じなのを知ってな。これは何かあると勘ぐって色々俺の学校での情報網を駆使して、よく部室から楽しそうな明るい話声が聞こえると噂になっていることを知ってな』

「成程な。美夜虚さんにデートに誘われたんだよ」

『えっ!本当か、それはよかったな』

「まあな、でも自分の気持ちが偶に判らなくなる時があってな、俺は彼女の事を恋愛の対象として見ているのか、はたまた良き先輩として見ているのか」

『うーん、天狗塚先輩との今までの経緯を教えてくれ、できるだけわかりやすく』

「ああ」

 久信は琢磨に今までの事を洗い浚い話した。

 そして電話口から大きな笑い声が聞こえてきた。

「な、何だ、どうした?」

『いやな、お前がここまで鈍感だとは思わなくてな。お前が鈍感なのは中学の頃から知っていたが、ここまでとはな』

「そんなに俺は鈍感か?」

『ああ、本当にな』

 その後、久信は琢磨から自分の中にあるもやもやを解消してもらい、自分がどのように美夜虚を思っているのかを再確認し、デートに行くこととなった。



 第六章 唇重奏しんじゅうそう


 デートに誘われてから一週間が過ぎた。

 当日の日、美夜虚と久信は午前に映画を見て、それから昼食を摂り現在は水族館に赴いている。因みに観に行った映画は『妄執の楽園』である。

「『妄執の楽園』の主人公の行動が、人間ああはなりたくないなと思わせるようなものだったわね。亡くなった彼女を永久に愛しているという証明のため、愛する女性の記憶そして自分の手もとからも彼女の體を忘却しないように、防腐剤で腐敗しないようにして、自室の木製椅子に座らせて飾るとか正直云ってどうなのだろうね。後は犯人を暴いた探偵の台詞が格好良かったわ『犯人はお前だ!』ってさ」

「そうですね。主人公の話に戻りますが、あれも一種の愛の形なのかもしれないと思うと、一概に批難もできないな」

美夜虚と久信は笑いながら云い合って歩いていた。

話し合っているうちに目的の場所である『神奈川海豚水族館』に到着した。

館内に入ると、天井はプラネタリウムにより、映し出された夜空が投影されていた。

ロビーの中央には巨大な柱が建てられていて、柱の中心と見られる部分には円形に作られた水槽が設置されていた。そして水槽の中には複数のクマノミが水中で鰭を遊ばせていた。

「クマノミ可愛いね」

「そうですね」

 クマノミが泳いでいる水槽をジッと夢中になって美夜虚は楽しそうに見ていた。

 二人は海豚を見るために奥に続く道に脚を運び出す。すると美夜虚はハイヒールを履いていた所為か歩き慣れてないような脚運びで歩いていた。その所為で足下のバランスを崩してしまい、一歩後ろを歩いていた久信に背中から寄りかかる形で抱き留められた。

「大丈夫ですか?美夜虚さん」

「――うん大丈夫……って、あっ!」

今の自分の状況を確認すると彼女は頬を紅く染め、慌てて久信から離れようとして、体勢を久信と向き合うようにしたが、向き直る拍子にハイヒールの踵が片方折れてしまい、彼の胸に倒れこむようになった。その所為で久信の足下もバランスを崩してしまい後ろに倒れた。

『チュ……うっ!』

 抱き合うような形で倒れこんだ拍子に偶発的に二人の唇は重なった。

 そのことに気が付いた美夜虚と久信は驚きあまり暫し時間が止まったようになり、目線を合わせ、互いに頬が耳まで真っ赤に染まった。

 美夜虚は慌ててその場から少し離れた。

「す、すいません。さっきは故意に躓いたのではありません。本当にすいません!」

 久信は平謝りで美夜虚に頭を下げて殴られる覚悟をもって必死に謝罪を述べる。

「え、大丈夫だよ。い、今のは私が上手くバランスを保てなかった所為だから、君の所為じゃないよ。私こそごめんね」

美夜虚は頬を朱色に染めて、そっぽを向き、顎を下向きに小さく傾け、下唇に人差し指をなぞるように手を当てた。

「た、立てますか?踵が折れてしまっているみたいですけど」

 久信は美夜虚が履いてきたハイヒールの踵が折れていることに気が附き、座り込んでいる美夜虚に手を差し伸べた。彼女はその手を取り、立ち上がった。だが踵が折れてしまっているため、またもバランスを崩しそうになったが、久信が彼女の腰に腕回して支えるようにした。

「少しここで待っていて下さい」

 久信は美夜虚にそう云って先程のロビーに戻って設置されているソファーに座らせた。

「代わりになるような靴を探してきます」

久信は駈け出してその場を後にした。


第七章 待ち人まだ来ず


「ど、ど、ど、どうしようキスしちゃった!偶然とはいえどうしよう。次ぎ合ってもまともに貌合わせられないよー」

美夜虚は久信が駈け出した後、彼と初めて会ったことから現在までのことを思い返していた。

「――嗚呼、私は優しい彼にどこかで甘えていたのかな。だから今日は少し気が抜けてドジ踏んじゃったのかな……」

 美夜虚は暫くの間、久信が駈け出した方向を見詰めていた。

「それにしても、どこまで行っちゃったのかな、荷物は置いていったから戻ってくるのは確かだと思うけど……」

そんなことを考えて口に出しながら美夜虚は一人水族館のロビーのソファーに座って待ち人を待っている。

 美夜虚は不意に伯父のことを思い出していた。

『司おじちゃん、喉渇いたよ~?』

『……自動販売機でジュースでも買うか?』

『うん』

『あたし、アップルジュースがいい』

『じゃあ、俺はコーラを飲もうかな』


『わーい、わーい、高い、高ーい』

『そうか、高いかー』

『うん』


『いたいよー、膝すりむいちゃったー』

『嗚呼、大丈夫か?おんぶしてあげるから、おうちに帰って消毒して黴菌をやっつけちゃおー』

『ゔん……』


『今日は午後に行くからな』

『うん、今日は私の高校合格祝いだから早く家に来てね』

『ああ、特大のケーキを買ってくるからな』

 そう云って、伯父さんがその日、私の家にケーキを持ってくることはなかった。


 第八章 行き着くその先は


 久信はずっと走って女性用のハイヒールを探していた。だが、水族館の近くではなかなか良い物がなく、靴屋を駈けずり回っていた。

「困ったな、これだという物がなかった。次が最後の一軒だ。確かこの辺りの道の角を曲がって、あ、あった……」

 確かにそこには店と呼ぶべき建物が建っていた。しかしそこに立掛けられた看板には『本日は、お嬢様セール!どんなハイヒールも千円以下の大サービス始動!』と明記されていた。

店の名前は『姫の靴屋・古城』と書かれていた。そして、名前の後には女性のハイヒールを履いた脚の絵が描かれていた。

(こ、ここだよな?靴屋、うん。きっとそうだな)

 久信は内心で自問自答しつつ店内に脚を踏み入れた。

店内にはありとあらゆるデザインのハイヒールが並べられていた。二十四色のそれぞれの色を持つハイヒール、豹柄、白と黒の縞々柄、どうやら見るからにこの店はハイヒールの取り扱い専門店のようだ。

「すいません、誰か居ませんか?」

 店内で息を切らせつつ久信は声を張り上げて云った。すると、店内の奥にある扉がキィーという音を発てて開いた。扉の向こうに居たのは、この店にマッチしていると云えなくもない、黒いハイヒールを履いているブロンドの髪で翡翠の色をした瞳を持つ、黒と白を基調としたスレンダードレスを着たエレガント漂う女性がいた。

そして女性の後ろには、燕尾服を着た執事のような男が居た。

 久信は店員にはとても見えない二人組に出逢ってしまった。そんなことが真っ先に頭に浮かんだ彼にロングヘアの巨乳の女性の方が返事をした。

「はい、いらっしゃいませ」

 女性店員が久信に近寄ってきた。

「本日は何の御用でしょうか?」

 近づいてきた女性店員は貌を近づけて云ってきた。

「えっと、訊きたいのですが、白いハイヒールが欲しいのですが、置いてありますか?」

 久信がそう云うと、女性店員の瞳孔が大きく見開かれ、その瞳は汚物を見るようなものへと色を変えた。

「えっと、女装趣味のお客様にお売りできるサイズのものは当店ではお売りしていませんので、帰ってください(笑)。因みにあなたに似合うハイヒールの色は私の見立てでは青いハイヒールよ」

 女性店員は笑いを堪えるのを諦め、笑いながら親指を立ててそう云った。

「違います!どんな勘違いですか!『彼女』にプレゼントしようと思って……」

 久信は言葉尻に入るところで、照れてしまい消え入りそうな声になった。するとまたも彼女は笑いながら云った。

「そう。でもね、お客様いくらハイヒールが欲しいからって自分に『彼女」がいると偽ってプレゼントと称して購入しようとしなくても……」

 今度は、憐れみを帯びたで女性店員は久信を見た。

「いや、そうじゃないですよ!本当に〝彼女〟がいるのですよ」

 その後、数分の説得を終えて久信は自分が可哀相な人間ではないことを理解してもらい店員のお勧めの白いハイヒールを購入することができた。

「お客様、これはわたくしの名刺です。何かプレゼントが欲しかったらまた当店うちに来て下さい。オーダーメイドもやっていますので」

 店員の名刺に目を向けると、その名刺には〝店主華澤・アンジェラ・楼子〟と明記されていた。

「店主だったのですか」

「驚いたでしょ。私は店主には見えないからね。むしろ店主より従業員にしか見えないものね。因みに楼子と云うのは母が日本を好んでいたから私に日本名を入れたのよ」

 唇の端を吊り上げ、アンジェラは笑みを浮かべた。

「ところで先程から気になっていたのですが、後ろにいる燕尾服を着ている其方の方は一体?」

訊かれたアンジェラは「執事兼従業員の御子柴よ!」と満面の笑みで即答した。

御子柴定國みこしばさだくにです」

 御子柴は久信に渋い声で自己紹介をした。

「そ、そうですか」

 久信はそれ以上彼のことを訊く気にはなれなかった。深入りしない方が吉だと直感が告げたからだ。

久信は店を後にし、美夜虚のもとに駆けて行った。


 第九章 お人好し

 

美夜虚は水族館のロビーのソファーに座り久信を待っていた。

「そこの御嬢さん、お困りのようだね。どうしたのかな、裸足で?」

 美夜虚は自分の真横に人が座っていたことに気がつかなかった。それ故にとても驚いて小さな悲鳴を上げた。よく見るとそこに座っていたのは、ブロンドの紫色のスーツを着た女性だった。

「あ、あなたは?」

 スーツの女性は美夜虚の隣に置いてある踵のとれたハイヒールを見て自分の中で何かに納得したようで、「成程ね」と小さな声で呟いた。

「私は通りすがりの近場にある店の店主よ。君は待ち人来たらずと云ったところなのかしら?」

「ええ、まぁそのようなところです。日本語が達者ですね」

「うん。まあね、両親が日本を好んでよく旅行に行っていたから、そのお蔭で母に日本語を教えられたの。それに日本の暮らしの方が長いっていうのもあってね」

「そうですか」

 ブロンドの女性は一息吐くとこう云った。

いずれ、君の前に君が待ち望んでいる白馬の王子様が現れるだろう」

「――え?それってどういう……」

「そろそろバスがきてしまう時刻だから私はもう行くね。バイバイ」

 ブロンドの女性は美夜虚に小さく手を振ってその場を去った。すると彼女が去って行った方向とは反対の方向から此方に駆けてくる足音が聞こえてきた。

「待たせてすいません、美夜虚さん」

 駆けてくる足音の正体は久信のものであった。

「久信君!」

久信は息を切らしつつ美夜虚に訊いた。

「えっと、どうしてそんなに驚いているのですか?」

 聞かれた美夜虚は先程までの出来事を掻い摘んで話した。

「成程、それで驚いていたのですね」

「ええ」

 美夜虚は頷いてから、久信が手に持っている紙袋に視線を移した。

「その紙袋は何?」

「ああ、これは美夜虚さんのハイヒールが折れたので、代わりになる靴を見つけたので買って来たのです」

 久信はそう云って紙袋の中に入っていた箱を美夜虚に手渡した。

「本当に、開けていい?」

「ええ、箱を開けて中を確認して見てください」

 云われるままに美夜虚は箱を開け、中身を見て驚いた表情を作った。

「これって!このような高価なものを貰ってもいいの?」

「ええ、構いませんよ。そこまで高価なものではないので」

 そう云って久信は美夜虚に笑みを見せた。

「ありがとう。さっそく履いてみるわ」

 購入したハイヒールは美夜虚の足のサイズにピッタリ填まり、動きに不具合を見せる素振りはなかった。

 久信は彼女のその姿を見てサイズが合っていたことに胸を撫で下ろした。

「何か少し重い気がする」

「お、重い?」

 久信が空になったと思えた紙袋の中身を見ると、紙袋の中には一枚のメモ用紙が入れられていた。そのメモを取り出して目を通すと、そこにはこう書かれていた。

『そのハイヒールは水に濡れると透明に変わり、ガラスの靴になるよ。その為その靴はガラス性の商品になっています。ハイヒールが渇くと白い色が浮き出てきて元の白いハイヒールに戻ります。因みにこの現象を人は〝魔法〟と呼ぶ。 

PS今宵、暗雲立ち込み恵みの雨が降り注ぎ白馬の王子様に肖れるであろう。頑張って下さい、お客様』

メッセージの最後にはキスマークが添えられていた。

「白馬の王子ねぇー」

 そんなことを考えつつ久信は美夜虚と外に向かい歩いて行き、自動ドアを通り外に目を向けると外は暗雲が立ち込み、天が涙を流し泣いていた。

 その涙が美夜虚の履いているハイヒールに触れると、忽ち白色が失われ透けていき、ガラスの靴へと姿を変えた。

「嗚呼……、久信君これは?」

 その現象を見て美夜虚は驚き狼狽して久信の方を向いた。すると小さく唇の端を釣り上げて優しい笑みをつくった。そして久信は地に跪き手を差し伸べてこう云った。

「美夜虚さん、好きです、俺と付き合って下さい」

 美夜虚は驚きを露にした。

「付き合ってくれるのならこの手を取ってください」

 暫し美夜虚は無言の後、久信の手を取り、美夜虚は満面の笑みで云った。

「はい。此方こそ宜しくお願いします」

 その後、二人は手を繋ぎ日暮団地に足を運んで行った。


 第十章 夏の始まり


 久信が美夜虚に想いを打ち明けてから数ヶ月が過ぎ夏休みが始まろうとしていた。

 二人の関係は少しずつ進展していき、いまだに久信の方は美夜虚をさん附けしているが、美夜虚の方は呼び捨てで呼ぶようになっていった。

 久信が現在住んでいる日暮団地の家賃は大人料金が五万円。そして高校生が千円で大学生は五千円といった格安価格である。家賃の受け渡しは毎月二十五日に封筒に入れたお金をポストに入れ、後日に自室のポストに返事の手紙を入れるという仕組みになっている。

 今朝早くに久信は何時ものようにランニングに出ようとすると管理人室から誰かが扉を開けて出てくる様子が視界の端に入り、それに気が付いた彼は管理人室の方に振り向き、そこにいる女性に挨拶をした。

「初めまして、二階の二〇五号室に住んでいる霞久信です。宜しくお願いしま……あ!あなたはハイヒール販売店の店長さん!」

 そこにいたのは数ヶ月前のブロンドのバニーガールだった。あの時とは違って今は灰色の〝もっこり〟と太字でプリントされたTシャツを着て下半身には黒色でストライプのジャージ姿であった。

 華澤・アンジェラ・楼子は久信に気が付き、口元に手をやり驚いた素振りを見せた。

「あ、ハイヒールの君」

「あなたがこの団地の管理人だったのですね」

「ええ、そうよ。そう云えば二年前にも女の子が一人住むようになったって不動産屋に聞いたわね」

 それを思い出したようにアンジェラは呟いた。

「ここに戻って来るのは四年ぶりで、君に会ったのが丁度久々に店を開けた日だったのよ」

 アンジェラは笑って云った。

「そうだったのですか」

「まあ、それからはちょくちょくここには帰って来ていたのだけど、最近はちゃんと家に帰って来ているのよ」

 そう云うとアンジェラは何かを思い出したような素振りを見せた。

「そう云えば、彼女さんにハイヒールは喜んでもらえたかしら?」

 そう訊かれた久信は何の躊躇もなく答えた。

「ええ、とっても喜んでいましたよ」

「そう」

 アンジェラは「この後予定があるからこの場はこれで失礼させてもらうわ」と云ってその場を去って行った。

 それから暫くして八時を廻った頃、久信は春風恋哀高校の終業式に赴くために制服に着替え終えると玄関の方からチャイムの鳴る音が鳴り響いてき、玄関の扉を開けると、そこにいたのは美夜虚と麗だった。

「美夜虚さんが居るのはわかるのだけれど、何故麗も居るの?」

「それは昨日、麗が私の部屋に泊まったからだよ。彼女のご両親が栃木の方に、母方のご両親の墓参りに出かけてしまったからなのよ。それで学校を休ませる訳にもいかないし、一人で留守番させるのが不安だからって、私の部屋で泊めることになったのよ。だから今日は一緒に登校することになったのよ」

 それを聞いた久信は納得し、二人と行動を共にした。

 暫く三人で通学路を歩いていると美夜虚が口を開く。

「久信って、明日は予定とか入っているの?」

「いえ、特にこれと云った予定はないですよ。でもどうしてですか?」

 美夜虚は小さく口籠るが暫くしてから先程よりも声のトーンを低くして云った。

「明日は母の兄、つまり私の伯父さんの命日だから墓参りに行こうと思うのだけれど、母と父に急な仕事が入ってしまって一緒に行けなくなってしまったの。だから私一人で行くのもあれだから、一緒にどうかな?……」

 久信は「大丈夫ですよ。行きましょう」と返事をした。

 その日の夜。

 麗から自宅に電話があった。

「夜遅くにごめんね」

「ああ、大丈夫だ。それで要件は?」

「墓参りのことなのだけど、美夜虚ちゃんのこと頼むね。彼女伯父さんのこと子供の頃から大好きだったから亡くなった時もすごく泣いていたから」

「判った」

「付き合ってからデートはしたの?」

「ちょくちょくはしてるよ」

「そうなの。霞君は伯父さんにどこか似ているから、美夜虚ちゃんは貴方に甘えられるのかも」

「そんなに似ているのか?」

「うん」

「そうか」

 久信は受話器を置いた。


 第十一章 涙


 終業式の翌日。

 蝉の啼く声が夏を暗示させていた。

久信は蒸暑い中、坂道を登った先にある美夜虚の伯父が眠る墓標に赴いていた。

 久信の右手には線香とマッチの入った手提げの小さな鞄を持っていた。

 美夜虚は左手で墓に供える花束を抱えるように持ち、右手で白い日傘を差して久信の隣を歩いている。

「今日は暑いわね」

「そうですね。でも午後からは気温が下がるって、天気予報のお天気お姉さんが云っていましたよ」

「そう、それなら帰りは少し楽になるわね」

 暫くすると墓標の前に着いた。墓石には『天狗塚』と彫られていた。

「久しぶり、司伯父さん。今日は恋人を連れて来たよ」

 美夜虚は持ってきた花束を供え乍ら呟いた。久信はそんな彼女を見て、背中から寂しさのようなものが滲み出ているような気がした。

 美夜虚は久信の方に少し顔を傾けると独り言のように言葉を呟いた。

「久信……私ここに来るのが怖かったんだ。優しかった司伯父さんがこの世からいなくなったことを直視するのが怖くて、ここに来るのにかなり躊躇していたの。でも漸く決心がついて行こうと思ったの。それに、ずっと行かない訳にもいかなかったから」

「それなら、どうして急に決意されたのですか?」

 そう訊かれた美夜虚は頬に涙を伝わせ、小さく唇の端を釣り上げて、その質問の答えを司が眠る墓前の方に向き直り云った。

「それは、君が私の隣に居てくれているからだよ」

 美夜虚は久信にそう云うと、墓石に語り掛けた。

「司伯父さんが亡くなったのを私のせいだと思っていたから、私が早く来てなんて云ったからだと自分を責め続けていたからごめんね」

 涙を流しながら漏れ出る言葉は墓前に向けた謝罪だけだった。

「司伯父さんがこの世を去ってから私の心は、灰色に覆われた様な景色をしていたの。でも最近になって、好きな人ができて、灰色の霧に覆われた私の心に温かい陽射しが差し込んできたの。それのおかげで心を覆っていた霧が晴れてきたわ。――だから、私は今此処に来られるようになったのよ。隣に居て、私の涙を拭いて、震える手を握り締めてくれる人が傍に居てくれるようになったからっ……司伯父さんは心配性だったから、心配はいらないよって今日は伝えに来たよ」

 美夜虚は手を震わせ、泣きながら大きな声で今の自分の気持ちを答えの返らぬ屍の眠る墓石に云い放った。

 そんな美夜虚の手を握り久信は自身の胸に彼女の頭を抱え込むように抱き寄せた。

「今日はハンカチを忘れてしまいました。なので、代わりに俺の胸が空いていますのでそれで良ければ……」

 美夜虚は久信のそんな不器用な優しさに甘えるしかなかった。温かいぬくもりに包まれる感覚を、居場所を欲する気持ちで心が一杯だったからだ。

 その後の帰路で美夜虚は久信に伯父のことを楽しそうに話した。まるで子供が自慢話をするように。


 終章 幸せと最期の向こう側へ


「美夜虚さん、一緒に温泉に行きませんか?」

 此処は美夜虚の部屋の日暮団地の一階である。

美夜虚は首を傾げて、少々驚いた。

「急にどうしたの?」

「先程、母から俺に連絡があって夏休みだから温泉にでも行かないかと云うことで、母の旧友に鄙びた温泉旅館を経営している女将さんがいてその伝手で。でも母は用事があって行かれないので俺にどうかと云う話が来たのです」

「そう。ここから近いの?」

「ええ、平塚駅からバスで一時間と近いところにあります。どうですか?」

「行く!」

 美夜虚は躊躇せず即答した。

(温泉か、丁度暇を持て余していたから良かった)

「ところでいつ行くの?」

「明日にでも、と思っているのですが、どうですか?」

「いいよ。朝七時頃に此処を出ればいいかな?」

「そうですね」

 翌日、久信と美夜虚は二人で久信の母の旧友が営む『七宝旅館』に着いた。

「いらっしゃいませ。君が和恵の息子ね。貌が良く似ているわ」

 旅館の入り口に入ると若い女性を数人引き連れた三十代前半頃の女性が声を久信に掛けて来た。

「はじめまして美散流さん。今日と明日は宜しくお願いします」

 久信と美夜虚は小さく会釈をし、菊乃美散流は二人を部屋に案内した。彼女はこの『七宝旅館』の女将である。部屋は『瑠璃の間』この旅館で一番高級な部屋の一つである。

「部屋は一つだけしか用意していないの、ごめんなさい。私は和恵が来ると思っていたので、彼女は毎年一人でこの『瑠璃の間』を使っていたの。それに今日は夜に花火を打ち上げるから、いつもより忙しくてこの部屋以外は全部埋まってしまったのよ」

「そうなのですか。なら花火が楽しみですね美夜虚さん」

「そうね」

 美夜虚は微笑んだ。

 部屋に入ると室内なかには瑠璃の花の入った花瓶が一つ。窓からは海が見え、窓を開けると潮風が香り、波の音が聞こえてきた。

「いい部屋ね?」

「そうですね」

「お夕食の方は六時からとさせて頂きますがよろしいでしょうか?」

「ええ、それでお願いします」

 夕食の時刻になり、食事の場所に案内された。その部屋には『暴食の間』と筆で記されていた。

 室内に入るとテーブルの上にはご馳走が並べられていた。魚の刺身、かき揚げ、白米、海老で出汁を取った味噌汁、金目鯛の煮つけの五品が置かれていた。そしてテーブルの横には炊飯器が。

「ご飯のお替りもありますので、ご自由にお取りください」

 美散流はそう云って『暴食の間』を後にした。

 久信と美夜虚は食事を楽しんでいた。

「このお刺身美味しいね」

「そうですね。この金目鯛の煮つけも美味しいですよ」

 美夜虚は刺身を口にし、箸をおいた。

「ねぇ、久信君。私と初めて会った日のことを憶えている?」

「ええ、憶えています。あれは綺麗な桜の並木道でした。街灯に照らされた美夜虚さん、そして美しい黒髪……」

 美夜虚は頬を紅くして

「あの日ね、私は伯父さんの墓参りに行こうかどうしようか悩んでいたの。自分の中での考えがまとまらなくて、気晴らしに散歩に出たの。そしたら君に会ったのよ」

「そだったのですか。それなら今日はお参りできてよかったですね」

「ええ、私は伯父さんが亡くなったことを認めたくなかった。でも墓前に立てばそれを認めることになってしまう。それが怖かったの。だけど君に背中を押されてあそこに来られるようになった。ありがとう……」

二人足を置き、口に入るのは互いに冷えた麦茶だけだった。

「後、この腕時計は伯父さんが亡くなる前にくれたの」

 美夜虚は革ベルトの腕時計を眺めた。

「とても高そうな時計ですね?」

「そうなの。伯父さんは時計職人で、自作の時計を売って若い頃は旅をしていたって云っていたわ。それで旅の最中さなか妻である天ヶ嶺虚々(あまがねここ)さんに出会って、この腕時計をプレゼントしたって云っていたわ。でも結婚して二十年後、體の弱かった虚々さんは私が産まれる数日前に肺結核で亡くなって、伯父さんは虚々さんの名前の一文字を私の名前に使ったの」

 久信と美夜虚は夕食を済ませると入浴することにした。しかし美夜虚は彼とは一足遅くに部屋に入って来た。

「旅館内の温泉以外に、露天風呂もあるみたいだよ。さっき女将さんが私を呼び止めて云ってきたの」

「そうなのですか。それで露天風呂は何処に?」

「この旅館を出た裏手の少し先に行ったところにあるみたいよ。カップル限定で女将さん自らがお客さんに紹介しているって云っていたわ」

「じゃあ、行ってみましょうか」

 二人は難なく露天風呂を見つけ、性別の書かれた暖簾を潜り脱衣を済ませた。露天風呂は湯気の所為であまりに周りが見え難くなっていた。

「嗚呼、生きているって感じがするな、風呂に入ると」

 久信は風呂に浸かり、しみじみとそのようなことを思っていた。すると背後から體に波紋が伝わってきた。振り向こうとしたその時。

「今頃、久信もこの湯に浸かっているのかな」

「えっ!」

 久信の背後から美夜虚の声が聞こえたことに驚き、彼は声が出てしまった。

「だ、誰!」

 男の驚いた声を聴き、美夜虚は背後に人が居ることに気が付きすかさず相手との間合いを取った。

「お、俺です。久信です」

「え、久信……、何で女湯に?」

「え?女湯だって?……」

「ええ、そうよ。ここは女湯よ」

「そんな筈は無いですよ、ちゃんと男湯の暖簾を潜りましたから」

「私はちゃんと女湯の暖簾を潜ったわよ。それなのにどうしてかしら?」

 それを聞き久信は何かに納得がいったようで、唇の端を吊り上げた。

「成程、美夜虚さん、此処は男湯でも女湯でもありません。確かに暖簾は男女別になっていましたが、それは此処が混浴ではないという先入観をお客に持たせるためのものです。つまりここは混浴と云うことです」

 それを聞き美夜虚は納得した。

「でも、何でこのようなことをしたのかな?」

「それは単純明快です。ただ単にカップルでこの旅館に訪れるお客を驚かせたかっただけでしょう。ここに来る前に母さんに詳しい場所を訊こうと連絡を取った時に、女将さんは遊び心ある方だと伺っていたので」

「そう、遊び心ねぇ~」

 美夜虚はあまり納得のいっていないような顔をして納得したような頷きをした。

「でも待って、それならカップルではないお客さんは何処で湯あみをしているの?」

「――おそらくですが、他の方には

「それより、此方を向かないでね」

「は、はい!」

 久信と美夜虚は背中合わせのまま湯に浸かることになった。

「久信、空を見上げて観なさい」

 久信は云われるままに空を見上げると夜皿には星々が散りばめられ、まるで宝石のような美しさだった。

「綺麗な夜空ね」

「そうですね。――でも俺は、美夜虚さんの方が、この夜空に散りばめられた星々よりも美しいことを知っています。なので、目移りすることは絶対にありません!」

「あ、ありがとう」

 久信は美夜虚の方を振り向いて云い、美夜虚は恥ずかしがりながら背中を向け乍ら礼を口にした。

 久信は美夜虚の隣に移り、彼女の肩を抱き寄せ、流れのままに彼女は體を彼に寄せた。

(私はこの人しかこの先決して愛さないだろう。例えどんな困難があったとしても伴に乗り越えて生きて逝きたい)


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