1.
目が覚めたら赤ん坊になっていた。
………もしかしたら俺は頭を打ってしまっておかしくなってしまったのかもしれない。
もう一度心の中で繰り返そう。
目が覚めたら赤ん坊になっていた。
いやほんともう何を言っているのか自分でもよくわかっていないのだが、とにかく目が覚めたら赤ん坊になっていた。
というかそうとしか考えられない。五感というありとあらゆる全てが、自分が赤ん坊になっているという事実だけを伝えてくる。
いやいや冷静になれよ俺。頭がおかしくなってそう認識しているだけかもしれない。もう一度ゆっくり確かめるんだ。
まず重い瞼を開ける。すると目に入ってくるのは明らかに俺の部屋ではない洋装の天井。
これだけ見ればやれ誘拐だの何だの考えられるがまぁ、ごく一般家庭に生まれた俺としては限りなく低い可能性だ。てか誘拐だとしても丁寧に扱われすぎだ。ソースは背中に感じるふかふかのベッド。
次に手を顔の前まであげる。それを目にした俺はもうこの時点であちゃーとひたいに手を当て、深くため息をつきたい気分になってしまった。
詰んでいる。もうどうあがいても見間違えようがない、やわらなそうなちっちゃい紅葉のような手。とても三十代手前までいった男のものとは思えない。
そこでふと、脳裏に浮かんだのは俺の事をおじちゃんと呼ぼうとして舌ったらずでおっちゃ、おっちゃと手を伸ばしてきた甥っ子。
喉が渇いてお茶を催促してきてるのか、おじちゃんを呼んでいるのかでよく判断に困らされたものだ。
いやぁ、ほんと可愛かった。と、そこまで考えて現実逃避にまたもや走っていることに気がついた。
まぁ、こんな手を見てしまえば某少年名探偵の線を考えてしまうかもしれないがそれはさすがにそれはない。若返りすぎにもほどがあるし。
そしてトドメがこれ。
「あうう…うっ…」
御愁傷様でした。声がもう終わってます。とても可愛らしい赤ん坊の声ですね。なんて思わず感想が敬語になってしまう程の衝撃だった。
ちなみにどうでもいいことだか普通に「あーー」と出そうとした結果が「あうう」で、「うっ」の部分が衝撃をうけた時のうめき声だ。
まぁ、はじめから知ってたけど。なにせ目が覚めて一番はじめに「……ここどこ?」って呟いたはずが「……あう?」だったからな!
だから実はこの確かめようとしているこの行為はまだ5分と短い間だか、いったい何回目か。手を見て叫んでーー悲鳴をあげたともいうーーその声に驚いて、現実を認められず何度も確認してみたが結果変わらず。
どうやらほんとに俺は赤ん坊になってしまったらしい。
短い間だったがもう俺は悟りを開いたんじゃないだろうか? なんて思ったが、どうやら悟りは開けてなかったらしい。
諦めざるおえない現実に直面し、持て余していた感情のままリアルに涙が出てきた。
ーーその時、ガチャっと部屋のドアが開く音がした。ちなみに赤ん坊が故に視野が狭く、今の俺ではあうあうと身体を動かすことすらままならないので、音でしか周りの判断ができない。
当然俺は焦った。だけど少し冷静に考えてみればしかたがないことだ。なにせ時間はまぁ、わからないが、いきなり大人しかった赤ん坊の泣き声が聞こえてくればそりゃあ何があったかと誰かしら来るだろう。
どこか軽い足音だけが近づいてくる。それに合わせて俺の緊張も高まっていく。なにせ俺は無力な赤ん坊。もしこれで泣き声がうるさいとか虐待系の人間だったとすれば、俺の第二?の人生が早々終わってしまう。
影がさした。いよいよご対面。
おお、神よ…! なんて都合のいい時だけ神頼りの日本人精神を発揮しつつ目を向けてみると、まず目に入ってきたのは二つの青。それも一概に青色というより紺青色ーーやや紫色を帯びた深い色ーーといったところか。
次いで視線を上にやると日本人の俺としては馴染みの深い漆黒の髪。だが顔立ちは日本人離れしたもので、甥っ子に負けず劣らずの天使ぶりを発揮する幼稚園児くらいの少年だった。
緊張していたところにやって来たのが見目麗しい少年だったからか、ほっとして力が抜けた。そんな俺をみた少年は不思議そうに首をかしげ言う。
「どうしたの? クレアノーラ」
ーークレアノーラ。あれ?どこかで聞いたことがあるような……。
そこまで考えた時ガツン、と頭を殴られたような衝撃を頭に感じた。そうして思い出したのは、最近どハマりしたと嬉しそうにとある乙女ゲームを語る、オタクである妹の話。
そこに『クレアノーラ』と言う名前が出てきた。
確か『クレアノーラ』と言う人物は、我が妹が初めて攻略した攻略対象である人物の妹で、主人公がその攻略対象を攻略するとその『クレアノーラ』とやらは最後に追放や陵辱エンドを迎えるらしいというものだ。
語るにあたって妹が見せてきた攻略本の中で一番見た目が好みだったので唯一覚えていた。
攻略中邪魔してきてさー! ほんとめんどくさかった! なんて言葉もついでに思い出したがそれはいい。それはいいんだ。
問題は美少年が俺に向かって『クレアノーラ』と呼びかけた事。もちろん、この部屋には俺と美少年しかいないから必然的にそうなる。
いや、もしかしたら死角にいたのかもしれない! なんて事も考えてみるがあまりにも苦しすぎる。
「……クレアノーラ?」
返事をしない俺を心配してか、真っ直ぐ俺の目を見つめながら再度呼びかけてくる美少年。
「………」
どう反応すればいいのかわからず、終始無言な俺。そして二度目の呼びかけ以降何も話さない美少年。お互いがただ見つめ合う。
なんて混沌な空間。
そんな空気に耐えられなかった俺はふと「そうだ、京都に行こう。」と同じノリで「そうだ、現実逃避をしよう。」と思いついた。我ながら良い案だ。
きっとこれは悪い夢に違いない。
相次ぐ非現実にキャパオーバーした俺は軽いパニックに陥って思考放棄をした。
そもそも俺は成人済みの男で、赤ん坊でもなければ女でもない。我ながら壮大な夢を見ているものだ。
ゆっくりと目をつぶる。
そうして次に目を覚ました時には元に戻っているだろうと、普段の俺ではありえないような安易な考えを抱きながら、深い眠りについた。
まぁとにかく、現実、思い通りに事が進むはずがないと決まっているのは確かだ。