第二章:影の都6
「全く、夜の森ってやつは、気が滅入っちまうよ。」
シモンは、独り言を言うと、こみ上げてきた寂しさを紛らわすために相棒のマンドリンを鳴らしてみた。
リズムをとるために体を揺らすたびに下に敷き詰められた干し草が、ガサガサと音を立てるものだから、どうも調子が狂ってしまう。
シモンは、ため息をつくと、マンドリンを置き、干し草の上に寝転んだ。
静かな森も干し草のベットも狭い馬小屋も馬の鼻息や体臭もこんな風に馬屋番をしている自分も何もかもが、野暮ったい。
「一体、いつまでこんな生活送りゃあいいんだい?」
誰が返事をしてくれるわけでもないのにシモンは、一人ぼやいてみた。
シモン・べリックを知っている者は皆、口を揃えて彼をキリギリスのように怠け者であると言った。
事実、シモンは、普通の若者達が夢見るように軍隊に志願して功績を挙げることに興味はなかったし、ましてや家業の鍛冶屋を継ぐ気など毛頭なかった。
万年五月病という言い方でさえまだましの二十歳になった今も、ブラブラと遊びまわっている始末であった。
そのシモンが、なぜ馬屋番なんかしているのか。
もちろん、彼が、望んで仕事をしているわけはない。
吟遊詩人の真似事をしながら、町の酒屋を回っていたのだが、不景気のせいか最近めっきり見物料が、入らなくなってしまった。
仕方がないので、鍛冶屋をしている父親に金の無心をしていたのだが、その父親にも愛想を尽かされて勘当された挙句、飲み代のツケも溜まってしまい、とうとう借金の形に相棒のマンドリンを取られそうになった。
これは困ったと重い腰を上げて、仕事を探したところ、森の中にあるお屋敷の馬屋番の仕事がなかなかいい報酬になると聞きつけ、今に至る。
さて、シモンが、うとうとし始めた頃にふいに静寂が破られた。
遠くで何かが割れる音がしたかと思うと、重々しく静まり返っていた屋敷の雰囲気がにわかに騒がしくなった。
それでも、シモンは、自分には関係ないだろうと思い、のんびりと横になっていた。
そんなわけで、ひどく息を切らした少年が、馬屋に飛び込んできた時も初めは、気が付かなかった。
馬の嘶きに横目をやった時、ようやくくせ者の存在に気が付いた。
「ちょっと、まったあ!」
シモンは、手近の馬に乗ろうとしている少年の首根っこを掴んだ。
「ちょっと、あんた何者だい?屋敷の人には、あんたみたいな子供はいなかったよ。」
シモンは、少年を掴んだまま、自分のそばに引き寄せた。
ふいを突かれた少年は、一瞬驚いたものの、すぐに体を浮かせて、シモンの腹に蹴りを入れた。
痛みに耐え切れず、シモンが、手を離すと、少年は、躊躇せず身軽に馬に飛び乗った。
もしも、シモンの腕が、人よりずっと長くなければ、エリーは、そのまま逃げ遂せることができただろう。
しかし、シモンの腕は、ひょろりと長かったし、彼も多額の報酬のために必死であったので、寸前のところでエリーの細い足首を掴んだ。
これには、さすがのエリーもギョッとした。
足首にマンドリンを片手に持ったクシャクシャ頭の奇妙な男がぶら下がっているのである。
なんとか振り落とそうとしたけれど、シモンは、なんとしても離すまいと必死にしがみついていたまま、泣き落としを始めた。
「ちょっと、待ってくれよ。ここで、お前に逃げられたら、俺は、相棒と離れ離れになっちまうんだぜ。」
「そんなの知らないよ。僕には、関係ない。おい、離せ。」
二人の言い争う声を聞きつけて、見張りの男達が、走ってくるのを見たエリーは、いよいよ焦り、シモンを蹴飛ばそうとした。
「どうしてもっていうなら、俺も乗せてけ!」
突然、シモンが叫んだ。
驚いたエリーが、下を向くよりも早くシモンは、弾みをつけてエリーの後ろに飛び乗った。
「伏せろ!」
呆然としているエリーは、シモンに押しつぶされた。
途端、弓なりの音がしたかと思うと、耳元でビュっと鈍い音がした。
いつの間にか手綱は、シモンの手に渡っており、抗議する間もなく、エリー達を乗せた馬は、屋敷を飛び出していった。
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シモンは、木々の生い茂る森を無我夢中で駆けていた。
手綱をきつく握り締め前ばかり向いていたものだから、押しつぶしていたはずのエリーの姿がなくなっていたのにも気が付かなかった。
小一時間走りようやく森がひらけて、小川のほとりに出たので、シモンは、安堵のため息をついて馬を止めた。
下にいるはずの少年に声をかけようとした時であった。
シモンは、首元に何か当たっているのに気が付いた。
恐る恐る下を見ると、喉元にきらめく刃物が当てられている。
「馬から降りろ。」
背後から押し殺したような声がした。
「オーケー。オーケー。ちょい、たんま。穏便に行こうよ。押しつぶしてたことは、謝るからさ。」
二十年間お気楽人生を送ってきたシモンは、人に刃物を突きつけられるなんて初めてであった。
「どうでもいいから、降りろ。」
エリーは、苛立ちを隠さず吐き捨てるように言った。
「そんなこと言わないでおくれよ。俺は、もうどこにも行く所がないんだから。あんたは、俺が、あのおっかない奴らに殺されてもいいのかよ?」
懇願の言葉にもエリーは、眉一つ動かさず、代わりにナイフを持つ手に力を入れた。
「いいも悪いも、僕には関係ない。」
エリーは、シモンの背中を押すと、地面に叩きつけた。
シモンは、小さく呻いた。
「こんな所に置き去りにされたら、夜の森に殺されちまうよ。俺は、夜の森が大嫌えなんだ。」
泣きそうな声で呟いた時、ふいに馬上の少年が、シモンの方を見た。
「お前、「夜の森」を知っているのか?」
「知ってるもなにもやっこさん。ここ一カ月、毎日、一対一で睨めっこしてる仲だよ。」
シモンの返事は、どうやら少年の心を動かしたらしかった。
しばらく沈黙があった後、エリーは、一人納得したように頷いた。
「よし。いいだろう。乗れ。」
シモンは、パッと顔を輝かせると、いそいそと馬に乗った。
真夜中の月は、高く昇っていた。
今となれば、シモンは、夜の森なんざ怖くなかった。
朝が来るまでにも二人の会話に大きな語弊が生まれていたことに気がつくまでにも、まだ時間があった。
しかし、それは、シモンの罪ではないことを大きな月だけが知っていた。