はぐれオークさん、くまさんと死合う
超ただいま。
超ごめんなさい。
二人が熊に襲われた瞬間に左腕でしっかりと抱きしめられたケイタは、思ったより毛ぇ柔らかいな、などと明後日の方向に思考を働かせていた。元の世界で特に強盗やひったくりなどに遭遇したことのなかった彼女は、外敵について考えを巡らせるのに慣れておらず、まるで眼前の脅威に反応することが出来ていなかった。
我に返ったのは、ブラガが右手を振りぬいて熊の腕を弾き飛ばし、ケイタを抱えたまま後ろに跳び、細心の注意を払って下ろされた後だった。
「――っ。あ、ぶ、ブラガ」
「ケイタ、巻き込まれぬように離れていてくれ」
震えるケイタの言葉を遮ってブラガは言った。
平時のそれよりも幾分か声は低く、ともすれば黒と見紛いそうなほど深い緑色の体毛を纏った熊から片時も目を離さずに睨み付けていた。奇襲を防いだ右手でケイタが飛び出すのを押しとどめ、左手に握っている槍を熊に向けて突き付け、牽制し続けている。
攻めあぐねているのか隙をうかがっているのか、熊は唸り声を上げながら少しずつ回り込もうとしているが、それを追うようにしてブラガもケイタを熊から隠すように動き、場は膠着するに至る。
「は、離れるって……」
「木を背後に置きながら距離を取るのだ。警戒を解いてはいけない。この手の動物は単独での狩りが多いが、漁夫の利を狙われないとも限らん。標的を変えられた時や他の獣に襲われた時に私がフォロー出来るよう、付かず離れずの距離で見ていてくれまいか」
「っや、見てろってお前、右手が……っ!」
指さした彼の右手からは血が流れていて、太い指を伝って地面に点々と滴っていた。
「む、奇襲をこの程度で防げたのならば御の字だ。まだまだかすり傷の範疇よ、槍をしかと握れるのだからな。この通りだ」
そう言って握っては開いてを繰り返し、過不足なく動作していることを確認させる。微かに聞こえる濡れた音に、ケイタは血の気が引いた。
「~っ……!じっ、じゃあっ!!おれもやる!」
「……」
「おれにゃあ怪力があるし、自分を叩いても、平気なくれぇにゃ硬えから、だ、だから……!」
「……ケイタ」
必死にまくしたてる彼女の言葉を、ブラガは落ち着いた声で遮った。
「っ……っん、だよ」
「勘違いならばすまないが……貴公は今、恐怖で震えているのだろう?」
「――ぅ」
「一つ判断を誤れば命を落としかねない場所では、あまりに致命的過ぎる状態だ」
振り返りもせずに指摘された通り、彼女の手足は遠目に見ても分かるほど震えていて、まともに歩くのすら困難なほどだった。はっとして膝を抑えるが効果はなく、むしろ震えが増しているようにすら見えた。
自身の体内を巡る血が血管を押し広げるのを触覚で感じ、視界が瞬く。出会った時と少々異なりながらもそれに似た感覚。
ケイタはそこでようやく自分がまともな状態でないことを自覚した。顎の力を抜いて、慌てて涙の溜まった目を擦り、深呼吸というには浅すぎる呼吸を繰り返す。
「っや、大丈夫だ。ケホッ、おれにも力が――ぜぇっ、あんだからっ。サボって見て……っぇ、いるわけ、にゃ……」
「加えて過呼吸も、か。確かに戦力はあればあるほど良い。当然のことだ。だが、その有様では平時の様に動くにも難儀するはずだ。意地を張らなくていい」
委縮する体に鞭打ってなおも言いすがるが、それを彼はきっぱりと突き放した。背後でがさりと草の潰される音がした。
「厳しい事を言うが、来ても怪我をするだけになるだろう」
「――ぇも、でもよぉっ……!それじゃあおれぁ、どうしたらっ……」
「……なに、先ほども言ったさ。とても簡単で自己中な理由だよ」
小さく、抑揚のない声で語るブラガ。ケイタの位置からは表情を窺うことは出来ない。
「私は臆病者でいたくないのだよ。そうありたいならば、どうして怯える者を戦いに巻き込めようか。……勝手だが、貴公を守らせてもらいたい」
「ッ……!っま」
「見ていてくれ。――待たせたなぁっ!ぃぃ行くぞぉおオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
「――ガァアアアアアアアアッ!!」
答えを待たず、彼は咆哮して駆け出す。暗い緑色の毛皮を纏う熊もまた、迎え撃つとばかりに咆哮を返した。
彼女が引き留めようと浮かせた手が持ち上がることはなく、結局もどかしげにワンピースのスカートを握りしめた。
*
(ええい、私の阿呆が!今の一撃で仕留め損なうものがあるか!)
先手必勝と繰り出した一閃。熊の首へと振り下ろされる刃は、毛皮で受け流そうとしてか、回避行動を取らない標的をしかと捉えていた。
だが、槍は滑らかな毛皮に威力を殺がれ、数本の体毛と浅く皮膚を切り裂くのみに終わった。軌道がぶれ、刃の向きと振り下ろしの方向が合わなかったからだ。
オークの腕力は常人のそれよりも圧倒的に勝る。彼らの平均的な腕力はそこそこ熟練した兵士と並び、上は天井知らず。力自慢のオークならば身の丈ほどの岩石すら持ち上げてしまうほどの怪力を有している。――その代償というべきか、大抵の事を力技で解決してしまう彼らは技術に乏しい種族であった。極論、槌や昆ならば技術がなくとも腕力のみで十分効果を得られるが、刃物は違う。扱いを誤れば望み通りに切ることは叶わないどころか、使い手自身を傷つける可能性すらありうる代物だ。
そして彼……ブラガの腕力は平均で言えば上の下ほどに位置する。目の前の熊程度であれば、腕力において真正面から張り合うことも出来る力があった。全力で振り下ろしたならば、その槍で斬鉄さえもやってのけられるだろう。その力で『正しく』刃を振るえたのなら。
「――っぬぅ……!」
イメージと結果のずれで数瞬硬直した所へと、あえて攻撃を受けたが故に万全の体勢を維持していた熊が右手の爪で襲い掛かった。か細い樹木ならば一撃でへし折ってなお勢いを残すであろう痛打を、しかし彼は身を屈め、槍をしかと握ったまま円を描くように振り回し、石突をその一撃に合わせ上へと受け流す。
「っ、ふっ、んぬぅっ……!」
そして回す勢いを利用しつつ矛先を熊へ向け、牽制目的で数度切りかかる。追撃を躊躇い二の足を踏んだのを確認したら、深追いはせずに刃を揺らしながら一旦退いた。
再び始まる睨み合い。お互いが隙を窺いながらも、刹那の瞬間に酷使した自身の体と摩耗した精神を休める。彼らの間で一つ違うのは、熊はただ脅威となる正面の敵だけに気を割いているのに対し、ブラガは背後のケイタの状態にも気を配らねばならない所だった。
(ケイタは――うむ、人の息づかい一つ。今の所は無事、か)
耳を頼りに安否を確認する。目線は熊から離さず、耳で周りの音を拾い、無酸素運動で乱れた呼吸をゆっくりと整える。そうして軽い息切れはすぐに収まるが、自分のみならず他人の安否を気遣い続ける現状で精神的疲労を軽減する事は、彼には無理な芸当だった。
(熊が退かない……生活に必要な食料が足らん、のだろうな……)
短時間で著しく疲弊した精神が、現実逃避をするように思考に沈み始めた。
野生動物というものは臆病なものである。好奇心などに多少の差はあれど、恐怖を感じれば大抵の動物は逃げ出していくものだ。事実、槍で少々突いてやれば今までは向こうが勝手に逃げ出す形で何とかなっていた。
そうしないという事は、重度の空腹の上に食料の当てがないため、危険であろうと獲物を仕留めなければ餓死しかねないのだろうと推測できる。その上、自分達も目の前の熊に遭遇するまで十分に大きな獣はおろか、小動物の気配すらも感じなかったのだ。恐らくそれで間違いない、とブラガは考えた。そうして目の前の敵と戦わざるを得ない状況と、自分にまともな戦闘経験がないことに嘆息する。
(……やれやれ。こんなことになるならば、素直に槍でなく昆を扱うべきだったかな。罠で生計を立てていたというのに、不得手な得物にリソースを割く事も無かっただろうが――)
睨み合う時間が続く。緊張で体が火照る。毛深い体の僅かな汗腺と浅い呼吸では籠る熱を排出しきれず、腕の傷による痛みを熱さと錯覚した脳は次第に思考をぼやけさせた。
――遠い昔、威圧感があるというだけで槍を購入した自分を恨んだ。いや、それは建前で幼少期に見た槍を扱う戦士が活躍する童話への憧れだったようにも思う。好き勝手に無様な舞を見せる自分を見かねて指南書をよこしてくれた長老がいなければ、先の競り合いでも負傷していたかもしれない。
ああ。そういえばつい最近、ここら辺で――。
「――ブラガっ!!」
ケイタの悲痛な叫び声で現実に立ち戻る。咄嗟に持ち上げた槍は熊の爪と爪の間に引っかかり、ブラガを引き裂くことは無かった。
「ぬぅ……ッアア!」
槍を横にずらし、思い切り右足を振り上げる。受け流されてつんのめった熊の顔を思い切り蹴り上げると、熊は痛みで、ブラガは無理な体制で蹴りを放ったために体勢を崩す。槍を杖代わりにした分だけブラガが僅かに素早く体制を整えた。熊がこっちを向くのと同時に、それに背を向けてケイタのいない方へ走り出す。
「こっちだ!ついて来い!!」
「グルァアアア!!」
怒り狂った熊はケイタを無視し、ブラガを追いかける。ぐんぐん距離が縮まろうとしたとき、ブラガは踏み込み過ぎたのか大きく2メートルほど跳び、宙で足が数回ほど空を掻き、無様に倒れ込んでごろごろと転がった。
「ガアアアアッ!!」
雄たけびを上げて熊が迫る。ケイタは助けようとするが、恐怖で引き攣る喉からは声が出ず、震える手足は自由に動くわけもなく、その場に崩れ落ちる。
熊がブラガに迫る。ケイタには熊の動きが遅くなったように見えた。
一歩。
そしてまた一歩。確実に、少しずつ距離が縮まっていく。
飛びかかるためか前足が一際強く地面を叩く。
前足が沈み。
――視界から熊が消えた。
唐突に叫び声が途絶え、代わりに土の崩れる音と擦れる音が鳴り響く。途中でゴキン、と指の骨を鳴らす時に聞こえるそれを何倍も大きくした音がした。
「……えっ」
状況の呑み込めないケイタの口から間抜けな声が出る。熊のいた場所には大きな穴が開いていた。
「――っ、ぶふぅ。うまくいって助かったな。……うむ、しっかり死んでいる」
ブラガは穴をのぞき込んで生死を確認すると、のっそりと立ち上がってケイタの下へ歩いて戻って来た。
「ケイ、勝ったぞ。お世辞にも華々しい勝利とは言えぬものだったが、な」
声をかけられるが反応せず、ケイタはぽかんとした顔で落とし穴を見ていた。
「……罠?」
ケイタがそういうと、ブラガは恥ずかしそうに顔を掻いた。
「……む。このように槍などを持ってはいるが殆ど格好だけのものでな、普段は使わんよ。いつもは罠にかかった動物で生計を立てているのだが、まさか槍の方を使う日が来るとは思わなかったな」
くははと苦笑するブラガに、ケイタは前からブラガの腹にもたれかかり顔をうずめる。途端に不器用な笑い声が止んだ。
「……かった。おれ、怪力あんのに足手まといで、お前はケガしてるってんのに手伝えなくて。転んだ時はもうダメだって思って……お前が生きてて、よかった」
嗚咽が聞こえる。毛が涙で濡れる。ケイタがブラガの毛にしがみついていた。何か言葉を返さなければ、とブラガは訳も分からず焦った。
「け、ケイ……」
「あ゛?」
彼女の顔がぐいんと上がる。超絶に不機嫌そうな顔には涙の跡があったが、それは憐れみや愛らしさではなく恐怖を掻き立てるのに一役買っていた。下手な盗賊より怖かった。ブラガは熊との戦いよりも焦った。
「あー……け、ケイど――のぶひゃっ」
言い終わるや否や頭突きが鼻に勢いよく決まる。豚のような悲鳴を上げて倒れると、そのまま馬乗りされ、マウントポジション。
「恵太だっつってんだろが!」
「ぬあぁーッ!?待って!すまない!悪かった!!あっほら右手!ケガっ、手当っ、危険っ」
唸る拳。いなす左手。風切り音。後、地面に手形ならぬ拳形。唸る拳。いなす左手。風切り音。後、地面に手形ならぬ拳形。以下繰り返し。
駄々っ子パンチと言えど即死級パンチの乱打を腕一本で凌ぎ続ける様は先ほどよりもずっと輝いていた。技術的な意味でだけ。傷ついた右手を目の前で振るも、ケイタは一向に手を緩めなかった。
「死ねバカ!アホ!空気読め!そこで間違えんな!」
「理不尽なあァーーーーーッ!?」
見てくださってありがとうございます。塵メンタル掃き集めるのに半年以上かけてしまった事をここにおわびします。以後繰り返さないよう精進いたします!
それにしてもうっかり名前間違うだけで殴るなんてケイちゃんってばりふj