第三十一話 黎明の戦い
「本当に、私と一緒に戦ってくれるの?」
「はっ! 我々は志願してこちらに参りました! ディルク千人長の仇を討つため、そしてコインブラを守るためにも、どうぞ戦列の端にお加えください!」
「それじゃあ、これからよろしくね!」
出撃前日の晩、州都マドレスから二百名の増援が送られてきた。ノエルは全く予想していなかったことで、目を丸くして驚いていた。これでノエル隊総兵力は千人。一撃加えるだけならば十分な人数である。
マドレスに無事帰還したグロールは、ノエルが孤軍奮闘し、造反した領主を次々に討ち取っていることを聞かされ、その働きに報いたいと考えた。
とはいえ、なんとか送り出せたのはディルク隊の生き残り――二百人の歩兵のみ。満足な物資を持たせることもできなかった。なぜならば、それ以上兵や物資を割くと本拠地マドレスの防備が危うくなる。すでにマドレスの港は、リベルダム海軍の手により海上封鎖が行なわれ、物資の流通は途絶えている。陸上も各関所が既に制圧されており、今ある物資でやりくりするしかない現状なのだ。船団の上陸を水際で阻止することを考えれば、余剰兵力など一切ない。
ちなみに、和議交渉は開始されてはいるのだが、極めて難航していた。ペリウスは敗北の報せを聞くと同時に、和議の申し入れをバハールに行ないたいとグロールに連絡を送っていたのだ。完全に戦意を喪失していたグロールはこれを許可。ペリウスは自ら使者となり、バハール陣営を訪れて水面下での交渉を開始した。
勝利を確信しているバハール側は全く聞く耳を持たず、直ちに剣を捨て無条件降伏する以外に道はないと繰り返すのみだった。交渉を担当しているペリウスもそれが当然と理解していたが、最低でもグロールとその家族の助命、コインブラ将兵の罪を問わないと確約をもらわなければならない。コインブラ家臣として、恥も外聞も捨て、最後まで力を尽くさねばならぬと決意を固めている。相手からなんとか譲歩を引き出そうと、ペリウスは執拗にアミルへと嘆願を繰り返した。脅しに屈せず、侮蔑の視線も堪え続けて。
そして、コインブラ太守代行に任命されたウィルムが、彼の天幕を訪れた。疲れの色を隠せないペリウスに、バハール公アミルからの最後通牒の内容が申し渡されたのだ。
「それでは、久々のご馳走なので、味わって食べましょう! 乾杯!」
「乾杯!」
ノエルはというと、新しく増えた仲間を歓迎する為にささやかな食事会を催していた。もともと、出撃前に景気づけのためにご馳走を振舞うつもりだったから特に問題はない。むしろ賑やかになって良いと思っていた。
酒は少量しか出されないが、それでもノエルは嬉しそうにはしゃいでいた。ここまで上機嫌なのは、グロールから二つも褒美をもらったからだ。一つは、コインブラ州で最も栄誉ある勲章――金輪付天秤勲章が授与されたこと。精緻な天秤を模した装飾と、堂々とした金色の輪が本当に見事で綺麗である。相当のことがなければ授与される事はないが、この機会を逃せばもう二度とないとグロールが決断したのだ。
そして、もう一つは千人長への昇進だ。上級百人長を飛ばしての、いわゆる二階級特進である。手渡されたグロールからの書状には、先日の更迭の件、そして己の不明を心から詫びるとの謝罪があり、合わせる顔がないなどと自分を責める言葉が大量に並べられていた。最後はエルガーのことを宜しく頼むと、まるで遺言のようなものまであった。
ノエルはグロールへの忠誠心はそんなにないが、一緒に戦う味方という認識はある。給料をくれたし、自分の居場所を軍に作ってくれた人でもある。だから、今まで必死に勝たせるために進言したり、出すぎた真似をしてみせた。バルバスなどは「何を今更ぬかしてやがる!」と憤っていたが、まぁまぁとノエルはなだめておいた。相手も謝っているし、贈り物までくれた。だったらもういいじゃないかと、ノエルは思ったのだ。悪い事をしたら素直に謝る。そして、謝られた方は笑顔で許してあげる。友達付き合いの基本だと、かつて150番に教えられた。
「シンシアも千人長に昇進したみたいだよ。私とおそろいだね」
「おめでとうございます、隊長。本当に今更ですが、めでたいことには変わりありませんぜ。さ、景気付けにもう一杯!」
「ありがとう、バルバス」
空になったグラスに溢れるほどのお酒が注がれる。これで最後にしておこうとノエルは決めた。明日の戦いに万が一があってはいけない。バルバスたちも、それぐらいは分かっているのだろう。いつもと同じく賑やかだが、酒の量はかなり少ない。
「……おかしいわ。なんで私だけのけ者なのかしら。私もかなり働いたと思うのですが」
「ああ? 何ふざけたこと言ってやがんだ。てめぇの親父が誰だったかその愉快な頭で考えてみろ。隊長がいなけりゃ、てめぇは真っ先に処刑されてるぜ」
バルバスの呆れた声。リグレットも本気ではなかったようだ。ただ、何か言わずにはいれなかったのだろう。ここで素直におめでとうと言えないのが、リグレットがリグレットたる所以である。
「ふん、あんな男もう縁を切ったわよ。よりにもよって、私を嵌めるなんて。必ず復讐してやるわ」
「そうかいそうかい。まぁ、これからは精々、言葉遣いには気をつけるんだな。特に目障りな舌打ちは二度とするんじゃねぇ」
「ちっ、相変わらずうるさいわね。これだから盗賊上がりは」
「あーあ、言ったそばからこれだ。やっぱり殺しておくべきだったな」
「ふん、残念だったわね」
リグレットとバルバスの面白いやりとりを眺めながら、きっと舌打ちと言葉遣いは直ることはないだろうと思った。なぜならば、一度染み付いたものというのは中々直らない。シンシアに何度も拳骨を落とされても、ノエルの言葉使いは直ることはなかった。つまりそういうことである。階級が並んだので拳骨の回数は減る気もしたが、多分遠慮なくやられるだろうと、ノエルは考え直した。それはそれで面白いので、何の問題もない。
「じゃーん、これが千人長の印です。格好良いでしょう! この勲章も綺麗だけど無意味に大きいし!」
千人長の階級証と勲章を、早速軍服に縫い付けたノエルは、見せびらかすように笑顔で兵達の間に割って入っていった。基本的に無邪気で人懐っこい性格のノエルは、兵たちからの人気が高い。しかも強いし、部下を見捨てることはしない。兵達は拍手喝采で迎え、ノエル千人長万歳と褒め称えた。先行きは全く見えないが、今を必死に生きて、楽しめるときは楽しもうと割り切っているのだ。
「いよっ、千人長!」
「一生ついていきますぜ!」
「あはは、ありがとう!」
ノエルが兵達と笑い合っていると、俺もお祝いするんだと、次々に兵達が殺到してくる。その一人一人に感謝の言葉を述べ、ノエルは肩を叩いて頑張ろうねと励まし続けている。
「しかし、隊長は綺麗だし、身体つきもいいんだが」
「残念な事に色気がない! ああ、本当に残念だなぁ!」
若い兵が額を抑えて嘆息する。身体は問題ないし、容姿も整っている。一目惚れする者も大勢いるだろう。だが、内面を知ってしまうとそういう対象には見えなくなる。その性格は子供そのものだからだ。喜怒哀楽を直ぐに出し、普段の言葉遣いは軍人とは程遠い。
それでも何か、不思議な魅力がある。晴れの日は上機嫌で、雨の日は死ぬ程不機嫌。それでいて、鬼の如き強さと恐ろしさ、そして敵兵を焼き殺すような策略を働かせることもある。コインブラの指揮官の中に、こんな奇妙でどこか惹き付けられる人間は今までいなかった。実にバランスがとれていないと、若い兵達は腕組みをしながら唸っていた。
「俺の娘もあれくらい元気になって欲しいな。毎日楽しくて仕方がないだろうよ」
「うーむ、それはどうだろうか。鉄槌持って大暴れでもされたら、とても止められん。しかも隊長は火付けが得意なんだぞ」
「いやいや、派手でいいじゃないか。子供はそれぐらい元気な方がいいんだ」
「んー、そうかぁ?」
「まぁ、死ぬにしろ生きるにしろ、最後の最後で面白くなったな。本当に糞みたいな戦いだったが、少しだけ報われた気がする」
「隊長によると、戦は面白いのではなく、趣深いそうだ。なんだか含蓄があるな」
「んー、そうかぁ?」
「いやいや、実に深い言葉ではないか」
年配の兵が、目を細めながら眺める。北部出身のこの者達は、コインブラの栄光も凋落も味わってきた。特に未来に期待もしていないし、今後どうなろうとなるようになるさと楽観的だった。そんな人間にとっては、ノエルのような鮮烈な生き方は魅力的で好ましく映る。
楽しい食事を終えた後、ノエルは占領した街を放棄し、全兵力を率いてカナン街道の難所、ヤヴィツ峠を目指して出発した。この地点は、街道こそ整えられているものの、周囲は傾斜がきつく、その面には鬱蒼とした藪や小高い木々が立ち並ぶ。実際、盗賊や熊、狼なども数多く出没していた難所であり、旅人たちからは今も恐れられている。
ぽつぽつと小雨が降るヤヴィツ峠の高所から、ノエルは眼下の街道を見下ろす。既にバハール軍の行軍が始まっており、高らかに太陽の御旗を掲げた先鋒部隊は通り過ぎていった。ノエルより少し西に離れた場所には、バルバス率いる兵が三百配置してある。ノエルの合図とともに火を放ち、行軍の先を混乱の坩堝に放り込む。そして行き先をふさがれたアミルの本隊をノエルが急襲する段取りだ。
「……隊長。間もなく、アミルの本隊がやってきます。あれは、アミルの旗印に間違いありません」
三つの日輪に十字の剣。リグレットによると、これがアミルの紋章らしい。太守として任命された直後から、すでに帝位を狙っていたという証左でもあるとのこと。その野望は実現する直前にまで来ていると、リグレットはどうでもよさそうに述べた。
「そんなに皇帝になりたいのかな」
「それはそうでしょう。この大陸の支配者になるのですから。元々、この戦いだって、帝位継承戦争のようなものです。逆賊云々は全て口実に過ぎません」
「ふーん。あんまりピンとこないね」
「貴方にはそうなんでしょう。とにかく、千人長になったんですから少しは緊張感を持ってください。百人長に過ぎない私の言葉など、聞く耳を持たれないかもしれませんが?」
「ちゃんと聞いてるよっと」
リグレットの嫌味を聞き流し、ノエルは遠眼鏡でアミルの本隊を見やる。近衛らしき騎兵や歩兵が通り過ぎた後、二頭の馬に引かれた戦車隊が連なる。
「あの中にいるのかな」
「弓兵を警戒しているんでしょうな。皇帝の座が見えてるのに、流れ矢に当って敢え無く戦死なんて、笑い話にもなりませんからな。こりゃ、直接行くしかありませんぜ」
「弓で狙撃も考えたんだけどね。確実に殺すにはやっぱり、襲撃して首を取らないと駄目か」
ノエルは弓も使えるが、別に得意という訳ではない。確実に一撃で仕留められるかというと、どうだろうと答えるしかない。しかも雨が降っていると、指がちょっと滑る。他の人は気にしなくても、ノエルにとっては気になって仕方がない。
(大降りじゃないけど、雨は雨だし。なんか、いやだな)
地面を濡らす程の雨ではない。たまに、皮膚に水滴を感じる程度。それでも嫌なものは嫌なのだ。
「恐らく、あの一番豪華な戦車がそうでしょう。ほら、立派な旗も立ってますし」
「凄い分かりやすいね。わざわざ金箔までつけるなんて。私が大将ですって堂々と宣言してるよ」
「その方が士気が上がるんですよ。自分は敵を一切恐れぬと、味方に示しているのです」
金の飾りが付けられた戦車が、我こそが総大将と強調しながら近づいてくる。そろそろ、バルバスに合図をしなければならない頃合だ。足止めし、ノエル率いる七百名が駆け下りて首を取る。敵の総勢は五万だろうが、この地点だけはノエルの兵数が上回る。全ては計画通り、順調なはずだ。
「……どうやら、敵の警戒は薄い。僅かだが霧も出てきている。またとない好機だ。山岳地帯は我らゲンブ兵の最も得意とする地形。襲い掛かれば、間違いなく討ち取れよう」
カイが静かに頷く。
「……うーん、どうしよう。ね、なんだか凄く嫌な予感がするんだけど」
「今更何を寝言を言ってるんですか? ここまで来て攻撃をしかけないなんて有り得ないわ」
「それはそうなんだけど」
「今まで餌を撒いていたのは、このときの為でしょう。……貴方がどうしても決められないなら、私が合図するわ。全員、準備をして」
リグレットが手にしていたラッパを吹き鳴らそうとする。ノエルは反射的にそれを押さえつけてしまった。非難の目を向けてくるリグレット。だが、ノエルは手を離さない。
「……どうしよう」
「ノエル殿、指揮官はそなただ。どちらにせよ、そなたが決めろ。我らはそれに従う」
「いいから攻撃しなさい! 迷っている間に好機が消えていくのよ。早く合図しないと、あの白髪頭が動けないでしょうが!」
荒っぽい言葉遣いのリグレットが、ノエルをしかりつけてくる。
実際その通りだとは思う。今行かなければ、こんな好機は二度とこない。ここが最大にして最後の襲撃機会なのだ。これ以降は、開けた平野が続き、アミルの周囲は常に厳重な警護が付き従うだろう。
――だが、とノエルは思う。あまりに上手く行き過ぎていた。毎回毎回敵はノエルの策に引っ掛かり、まんまと襲撃されて撹乱されて疲弊し続けてきた。その狙いに気付いていないだろうか。今、自分達が死地にいるということに、本当に敵は気付いていないだろうか。グロールを策に嵌めてみせたあのアミルが、気付いていないことなどあるのだろうか。
ノエルの頭がぐるぐると回る。シンシアがいたらなんと言うだろうか。分からないが、多分リグレットと同じことを言っている気がする。いかなければ、逆転はない。絶対にだ。彼女ならとっくに突撃している。騎士道を重んじる彼女ならば。
だが、自分はシンシアじゃない。だから、自分でしっかりと考えて答えを出さねばならない。誰かの真似をしているだけでは、指揮官は務まらない。
ノエルは無言のまま十秒だけ考えて、ようやく答えを出した。
「やめる。このまま撤収する。リグレット、突撃ラッパは絶対に吹くな。吹いたら、気絶させてでも止めるから」
「な、なにを――」
「問答している時間はないんだ。すぐに引くよ。バルバスにもすぐに伝令を出して」
バルバスに攻撃中止を報せなければならない。合図をしなければ、バルバスは攻撃を開始しない。だが、好機と見て勝手に突撃してしまうかもしれない。自分で決断できるのがバルバスの長所でもあり、短所でもある。伝令を向かわせるべく、兵を呼び寄せる。
「ま、待ちなさい! 理由を聞かせてもらうわ。例え千人長であろうと、利敵行為は許されない。攻撃を中止する納得行く理由を聞かせなさい!」
「嫌な予感がするから。それに、小雨も降ってるし。凄く気分が悪い」
「そ、それだけ? 雨が降っているから、ここまできて攻撃しないというの?」
「私には十分な理由だよ。嘘をついてもいいなら、適当な理由を並べても良いけれど。時間の無駄だから、できればやりたくないかな。理解したら、早く伝令を出しなさい」
答えを聞き、怒りで顔が真っ赤に染まっていくリグレット。こりゃ駄目かとノエルが耳を塞ごうとしたとき、バルバスの潜んでいる辺りから悲鳴と怒声が聞こえてくる。
「――な、何事ッ!?」
「やっぱりか。待ち伏せされてたのは、私達だったみたいだね」
「……真に残念だが、ノエル殿の勘が当ったということだな」
「まさか、敵の伏兵? どうしてこの場所が!?」
「相手もこっちがどう動くか、当然考えるでしょ。私はまんまと罠に嵌められちゃった。でも、逆転するにはこれしか思いつかなかった。向こうからしたら、それを逆手に取るなんて容易いことだったみたい」
「わ、罠。じゃあ、まんまと誘き出されたのは私達!?」
「そうなるね。……リグレット、それに皆、上手くいかなくて本当にごめんね」
ノエルは頭を下げて謝罪した後、ラッパから手を離し側に置いてあった二叉槍を手にする。
「ちょっと。まさか、助けに行く気じゃないでしょうね。この人数で、援軍に行くなんて無謀よ! 白髪頭には悪いけれどもう手遅れ、今は私達だけでも逃げることが先決。それが指揮官の正しい判断でしょう!」
「作戦が失敗したのは私の責任。私は仲間は絶対に見捨てない。バルバスたちは大事な仲間だし。それに、もし自分が見捨てられたら、悲しいでしょ?」
「そ、そんな理由で?」
「戦うには十分な理由だよ」
ノエルはそう言い切った後、戦慄しているリグレット、そして沈黙を続けるカイに、あることを命じた。
伏兵の待ち伏せを受けたバルバス達は、混乱状態に陥っていた。自分達が襲撃するために潜んでいたというのに、そこを襲われては当然だった。白蟻党の面々は直ぐに応戦するが、コインブラの兵は残念ながら動きが鈍い。ノエルの隊ということで士気は高いが、敵の俊敏な動きについていけないのだ。敵の黒鎧の兵たちに瞬く間に斬り伏せられていく。
「糞ッ、こいつら黒陽騎か! 馬に乗ってとっとと行っちまえばいいものを! 面倒くせぇ!」
「てめぇが指揮官か? おらっ、とっとと死んじまいな! アタシたちの邪魔をする奴は全員殺す!」
叫ぶバルバスの首目掛けて、鋭く大剣が走ってくる。バルバスは慌ててのけぞると、自らも大剣を構えて対峙する。敵は他のと同じ黒鎧の兵、だが兜はつけておらず、短い茶髪がやけに目立つ。そして、筋肉隆々とした身体つきは鎧の上からでも分かる。これならば、大剣を易々と振り回せるのも理解できる。
「最近は、女がやたらと強くなって本当に参るぜ。隊長然り、てめぇ然りだ! 世の中どうなってやがんだ!!」
「てめぇらの隊長はノエルってんだろ? アタシの兄弟を一杯殺しやがって。絶対にぶっ殺してやる!!」
「そうはいかねぇぞ! この糞女がッ!」
「ああっ!? 糞はてめぇだろうが!」
バルバスは怒りに震える女の一撃を再び受け止める。衝撃で手が震える。噛み殺さんばかりのその表情に、バルバスは思わず怯む。
(こ、こいつ、本当に強えっ! 力だけなら、隊長と同じか、いや、それ以上か!?)
「オラオラ、守ってるだけじゃ勝てねぇぞ! 悪鬼の兵なら、少しは歯応え見せろってんだよ!!」
笑いながら女は何度も何度も叩きつけてくる。大剣の刃が欠けて行く。徐々にだが、押される勢いが増して行く。このままだと、後二撃程度で、大剣ごとバルバスは頭をかち割られることになる。しかし、逃げようにも他の兵達も黒陽騎の相手で手一杯、いや、むしろ押されている。相手はまるで遊んでいるかのようでもある。いつでも殺せるのに、わざと甚振っているような感覚さえ覚える。
「何人かは生かして悪鬼の居場所を吐かせてやる。ただ、お前は殺す。アタシを糞呼ばわりしやがったからな」
「へっ、そいつは悪かったな、糞女!」
「この屑がッ!! その白髪頭、いま赤く染めてやる!!」
女は思い切り振りかぶり、渾身の一撃を振り下ろしてきた。
――死んだ。そう思ったとき、誰かがバルバスの背中を蹴り飛ばし、そのまま女に向かって突進をぶちかました。女は顔面を地面に強打し、鼻血をだらだらながしながら怒りに打ち震えている。
「――くッ」
「ちょっと遅かったか。でも、これ以上は、絶対に殺させないよ」
鉄の額当てで頭突きをかましたノエルが、殺意を篭めて睨みつける。
「へっ、てめぇが悪鬼だとかぬかしてる糞か! ア、アタシは黒陽騎副将のレベッカだ、兄弟の仇を取らせてもらう!!」
「ね、鼻血でてるよ」
「う、うるせぇ!!」
ノエルが自分の鼻頭を突くと、挑発されたと受け取ったレベッカが激昂する。鼻からの出血はひどくなり、顔面が真っ赤である。怒りで集中力が欠けている。
「――待て。興奮している今のお前だとやられる可能性がある。ここは僕が引き受ける」
「ファリドの兄貴! そりゃないぜ! こいつは絶対にアタシが殺るんだッ!」
反論するレベッカの頭を殴りつけると、ファリドは指を突きつける。
「黙れ、僕の命令は絶対だ。お前は包囲を敷いて敵の退路を絶て。悪鬼のおびき寄せには成功したんだ、後はここで確実に始末するだけだろう」
「だ、だってよ!」
「返事はどうしたんだ」
「わ、分かったよ。あー、畜生ッ!」
兜を身につけた黒鎧の男。兜からは血のような赤髪が覗いている。そう、まるでノエルと同じ色の髪。
「バルバス、皆を助けてあげて」
「で、でも隊長、あの筋肉女に退路を絶たれたら逃げ場が!」
「いいから!」
ノエルはバルバスを蹴り飛ばすと、さっさと行くように指示した。そして、目の前の男に相対する。
「君の武勇は噂で聞いている。僕は、バハール軍千人長にして、黒陽騎隊長のファリドという。……君は?」
「コインブラ軍千人長、ノエル。この前昇進したばっかりだけどね」
「それは、お祝い申し上げる」
「どうもありがとう!」
ノエルが軽く笑うと、特徴的な赤毛がファリドの目にようやく入った。今までは、ノエルの動きと二叉槍にだけ注意を払っていたため気がつかなかったのだ。普通の会話をしているように見えるが、気は一瞬たりとも抜いていない。それはノエルも変わらない。隙を見せれば、確実に喉下を貫かれることを分かっている。
「なんだ、君も赤髪なのか」
「あはは、お揃いだね」
「奇遇なこともあるものだ。……では、悪鬼の名を直に窺えたことだし、互いの役目を果たすとしよう!」
そう言うと、ファリドが槍をおもむろに突き出してくる。ノエルは慌ててそれを自らの槍で払う。その間にもファリドは距離を縮めており、ノエルの胴体に強烈な蹴りを見舞ってきた。
「――くっ」
「よく見ているようだけど、身体が反応しきれていないな。……いや、なんだか、妙な感じだ」
ファリドが一瞬動きを止める。ノエルはすぐさま態勢を立て直し、二叉槍を逆に突き出す。それがわかっていたかのように身体を捻って回避すると、槍の石突きがノエルの頭部に打ち下ろされる。赤髪を掠めたが直撃を避ける、しかし回転させた刃が更に襲い掛かってくる。それも、地面を無様に転がる事でなんとか回避。だが、反撃する機会をノエルは見出せない。手を出せばそれが隙となり、身体を貫かれるという光景しか浮かばないのだ。
「今のをかわすか。やはり、悪鬼と恐れられることはある」
「ハアッ、ハアッ!」
「僕の動きを、凄く良く見ているようだが。残念だけど君の体がついて来ていない。それに、大分疲れているようだ。……そういうところも、どこかで見覚えがあるな」
ファリドが言っているように、ノエルは相手を良く見ている。ノエルが今まで生き残り、戦果を立ててこられたのは、良く見てきたからだ。神経を全力で集中し、相手の動きを見ようとする。そうすると、なんだか相手の動きがゆっくり見える気がする。それにあわせて自分の攻撃を繰り出せば、大体は一撃で討ち取ることができる。凄く疲れるが、簡単に相手を倒せるノエルの得意技でもあった。
だが、このファリドとかいう男の動きは、よく見えない。神経を集中しても、あまり変わらない。むしろ、こちらの動きを読まれているかのように攻撃を繰り出してくる。本当に、凄く強い。
「アアアアアッ!!」
ノエルは止むを得ず、牽制を交えた攻撃を繰り出す事にした。これならば反撃の隙をつかれることはない。嘘をたくさん交えた中に、本命の真実の刃を隠しておく。ノエルが最初に叩き込まれた戦闘術。良く見てもどうしようもないならば、もうこれしか方法はない。
三、四、五撃目、そして本命の渾身の一撃。身体を反転させた勢いをつけ、ファリドの頭部へ全力の横薙ぎで放った。二叉槍のどの部分が当っても、昏倒させられるだけの威力を乗せた会心の攻撃だ。これ以上のものはノエルには出せないほどの。
「僕も、良く相手の攻撃を見ているんだ。だから、君は僕に勝てないよ」
届かなかった。ファリドは即座に槍を捨てると、迫りくる攻撃を抜き放った剣で軽々と受け流してみせた。まともに受け止めていれば、確実に態勢を崩せたはずなのに。ファリドはノエルの脇腹に蹴りを入れて、強引に態勢を崩させる。そのまま覆いかぶさり、振り下ろした剣で刺し殺そうとした。
だが、ファリドの刃も届かない。ノエルが獣のように笑いながら、剣を掴んでいるのだ。刃が掌に食い込み、ぽたぽたと血が流れていく。赤い雫が、ノエルの顔に降りかかる。
その瞬間、ファリドの脳裏に誰かの表情が過ぎった。
「――き、君は」
「私が負けるのは、死んだときと決まってる。貴方より、一秒でも長く生きていたら、私の勝ち。だから、逃がさない」
ノエルが更に手に力を入れた瞬間、周囲の藪から火の手が上がる。火の手は更に後方の木々へと燃え移り、煙は瞬く間に兵達の間に充満していく。小雨程度では全く消えそうもない。確実に人の手が加わっている炎だった。カルナスの煉獄が頭に浮かぶ。
「――火計だと? まさか、味方まで巻き添えにするつもりか! このままではお前も焼け死ぬぞ!」
火が鎧を熱していく。バチバチと耳障りな音が弾ける。息苦しい。カルナス城塞の末路を思い出したファリドは、見下ろすノエルの顔を見る。死を覚悟している濁った目だ。死人に生半可な痛みは通用しない。剣を離し、傍に落ちている槍を拾うかと考えるが、それも難しい。その瞬間、ノエルはファリドに飛びかかり、共に火に焼かれようとするだろう。動きが見えたとしても、回避できないことはある。
「一人で死ぬのは寂しいけれど、皆と一緒なら私は平気。だから、お前らも全員道連れにしてやる」
ノエルは狂ったように笑う。流石の黒陽騎たちも、煙に巻かれて苦しんでいる。死ぬことは恐れないが、こんなところで焼死など冗談ではないと、各自がファリドに目で訴えてくる。レベッカもだ。
そこに退却の鐘が打ち鳴らされる。アミルによる撤退の指示だ。
「絶対に逃がさない。お前もここで一緒に焼け死ね」
「悪いがこんな場所で死ぬ訳にはいかない! 黒陽騎、直ちに撤収するぞ!」
「糞どもがっ、勝てないからって汚いことしやがって! てめぇら全員灰になっちまいな!」
剣を離したファリドはそのまま素早く後退し、黒陽騎を従えて坂を全力で下っていく。炎が燃え盛り、煙が充満するその場には、横たわるコインブラ兵たちだけが残された。生きているのか死んでいるのかを見分けるのは至難の業だろう。
「た、隊長。助けに来てくれて、ありがとう、ございました。や、焼け死ぬのはちょっとばかり嫌ですがね」
「あはは、私も、嫌だよ。こんなに暑いのは、大嫌い」
「全員、道連れにしてやるんじゃ、なかったので?」
「あ、あれは、ただのはったり。やっぱり、焼け死ぬのは、嫌かな」
呼吸が苦しくなってきたノエルは、そろそろやばいかなと思い始めてきた。そこに、聞き覚えのある舌打ちと共にリグレットたちが駆け込んできた。顔には厚布、身体は水でずぶぬれで。
「頭がおかしいんじゃないの! 敵と一緒に火を掛けろなんて、正気じゃないわ!」
「でも、やってくれたんでしょ?」
「う、うるさいわね! 考えてる暇がなかったのよ!!」
くぐもった声で、リグレットが目を見開いて叫ぶ。煙が入ったようで少し苦しそうだ。
「し、死ぬときまで、く、糞アマの耳障りな声が。ついて、ねぇ」
「うるさい! ほら、生きてる奴は早く運ぶわよ! 私はこの馬鹿女を運ぶから! カイがなんとか火の広がりを防いでるけど、そんなにはもたないわ!」
リグレットに乱暴に担がれながら、ノエルはバルバスに声を掛ける。
「こ、黒陽騎は、強いから、これしかないと思って。私達のほうが、兵も少なかったし。ごめんね」
「い、いや、し、仕方ない、ですぜ」
ノエルがリグレットに指示したのは、燃焼石を使って火計を実行しろというもの。標的は、バルバスの潜んでいた場所だ。当然味方も巻き添えにするが、黒陽騎から逃れるにはこれしかないと思った。ノエル一人が頑張っても、あれにかかれば、仲間は一杯殺されてしまうだろう。だから、アミル襲撃が失敗した今は、一人でも多くの仲間を助けることを選択しただけのこと。火計を掛ける際、逃げ道を一つ残しておいて欲しい、そして、気が向いたら助けに来てくれとお願いした。命令ではなく、お願いである。リグレットはその通りに来てくれた。だから、ノエルはとても嬉しかった。
「全部、はったりだったけど、皆と一緒なら、寂しくないっていうのは、本当」
「そりゃ、光栄で」
「うるさいわね馬鹿共が! いいから口塞いどきなさい!! せっかく来たのに死なれてたまるか!」
必死に後退するリグレット。黒煙充満する茂みの中に、ノエルは見知った顔を見つけてしまった。血塗れで、苦悶の表情のまま死んでいる憲兵長の亡骸。横柄な性格だったが、意外と面白い人間だった。もっと色々と話したかったが、こうなってはもう二度とその機会はない。間もなく炎に巻かれ、死体は完全に焼却されてしまうことだろう。彼らを運んであげる余裕はない。
(一緒に、死んであげられなくて、ごめんなさい。皆、約束を覚えていてくれるかな)
ノエルは、憲兵長、そしてこの場で犠牲になった兵の為に悲しんだ。気付かれないようにちょっとだけ涙を流し、直ぐに顔を拭いて必死に足を動かす。途切れそうになる意識の中で、ノエルはリグレットから離れないよう、仲間に置き去りにされないように精一杯に走って走りぬいた。そうしないと、また一人ぼっちになってしまいそうだったから。
こうして、ヤヴィツ峠の戦いは終わった。戦闘自体は小規模なものであり、特筆すべきものではない。元々、アミルは数名の“影”を用意しており、旗印の下にいる者は全てが偽者だった。このような危険地帯で、慢心するほど愚かではなかったということだ。
万が一ノエルがそのまま襲撃していたならば、戦車から近衛が飛び降り、周囲の茂みに潜んでいた部隊により完全に包囲され殲滅されていたことだろう。敵に逃げられたアミルは不満そうだったが、ファリドが噂の悪鬼を退けたと知ると手を打って喜び、その武勇を褒め称えた。火計の一件が伝えられると、アミルは『真に恐るべき悪鬼である』と述べた。
難所を超えたバハール軍は、西進を再開。一路マドレスを目指し始めた。この先は復興ままならぬロックベルの街、そして州都マドレスを残すのみ。戦いの終りが近づいている事は、最早誰の目にも明らかであった。




