第二十八話 死にゆく獣に幸あれ
カルナス城塞に、ウィルムからの使者が到着した。トライス川におけるコインブラ軍の大敗と、皇帝ベフナムから逆賊グロールを討てと勅令が発せられたという報せだ。コインブラ太守代行にはウィルムが臨時に就任し、カルナス城塞の守将にはリグレットを指名すると書状には記されていた。
「……とても信じられぬが。しかし、これがベフナム陛下からの勅命なのは間違いない。書状に記されるはまさしくホルシードの印章。……いや、それにしても、コインブラ太守代行にウィルム将軍とは、あまりに唐突では」
「ベフナム陛下のお考えに、何か不満でもおありなのか?」
「い、いえ。そういう訳ではないのですが。ただ、私は事態を上手く理解できず」
憲兵長が困惑した様子で右往左往する。憲兵長だけではない、バルバスやカイも絶句したまま言葉を継ぐ事ができないでいる。あれほどの陣容を誇っていたコインブラ軍が、たった一日で壊滅したなどと誰が信じられるだろうか。いずれ決戦になると予測はしていたが、これほどまでに一方的な敗北を喫するなどにわかには信じ難いことだった。
「ウィルム様はリグレット様の働きに大層期待しておられました。現在、逆賊グロールは間道を西に向かって退却中。カルナスの兵を率い、直ちに追撃を仕掛けるようにとのご命令です。また、直ちにノエル・ヴォスハイトを処断せよと仰せでした」
使者が慇懃無礼に口上を述べる。
「……おい、糞アマ。てめぇの親父は見事にバハールに鞍替えしたみたいじゃねぇか。いや、ガディスの糞野郎も一緒か。将軍二人が雁首揃えて裏切りとは、全く大したもんだぜ! そいつらを最後まで信じた間抜け共々本当にめでたい奴等だ!」
バルバスが唾を吐き捨てる。
「口の利き方に気をつけるんだな。我らは勅命を受けた正義の兵なのだ」
「へっ、お前が正義なら、俺は神様だろうぜ!」
使者はバルバスの言葉を聞き流し、カイへと視線を向ける。
「ところで、カイ殿。貴官が属するゲンブも、バハールに同調してコインブラに侵攻を開始したようだ。ゲンブだけではない、リベルダム、ギヴ、ロングストーム、ホルン、カームビズなども兵を向けたとのこと。貴官もリグレット様に協力し、存分に手柄を挙げられると良いでしょう」
使者の言葉に、カイが眉を顰める。無言で頷くが、納得した様子はない。裏切り者に指示される謂れはないとでも言いたげな表情だ。
「……少し状況を理解する時間が欲しいの。貴方には特別な部屋を用意するから、そこで待っていてくれるかしら」
「何を悠長なことを仰せか! グロールは今もコインブラに向かって逃走しているのですぞ! 直ちに兵の準備をされるが宜しい!」
「一々うるさいわねぇ」
「何と言われたか!」
「うるさいって言ったのよ。あわよくば私を始末しようとしていたくせに。それを期待しているなんて、本当に笑わせるわ。第一、ノエル隊長を処断しろですって? そんな真似したらこっちが殺されるわよ、この屑ッ!」
「リ、リグレット殿?」
リグレットの勢いに、使者が思わず怯む。
「バルバス、話の邪魔だから、この馬鹿をどっかに連行してくれる?」
「リグレット殿、何を言われるのか! 私に危害を与えるという事は、帝国への反逆につながるのですぞ!」
「早くつれていきなさい! 目障りなのよ!」
「俺に命令するんじゃねぇ! だが目障りなのは同意見だ。おい誰か、この馬鹿野郎を地下牢に連れて行け!」
「き、貴様ら! こんな真似をしてただで済むと――」
暴れようとする使者は直ちに制圧され、白蟻党の兵に両脇を抱えられて連行されていく。それを見届けた後、リグレットは話し始める。
「ふん、私は父に心底嫌われているからね。隊長の更迭の理由、私の告発によるものなんて捏造していたでしょう。あれで、自らの手を汚さずに、隊長かアンタに私を殺させるつもりだったのよ。現にそうなる寸前だったしね。本当に笑えないわ」
リグレットが舌打ちする。それを救ってくれたのは、小馬鹿にしていたノエルに他ならない。だから、リグレットはノエルに大きな借りができてしまったことになる。
「とはいえ、お前は守将に任命されたんだろう。良かったじゃねぇか。俺と隊長は降りさせてもらうから、後は裏切り者同士好きにやれや。殺されないだけありがたく思えよ」
「待ちなさい」
リグレットが、背中を見せたバルバスにウィルムの書状を放り投げる。
「貴方の友達、ディルク千人長も討ち死にしたそうだけど。それでも、降りるのかしら」
「……なっ」
「本当よ。そこに書いてあるから。太守を庇う為に殿になり、敵将ファリドに討ち取られたみたいね。彼が率いる黒陽騎の評判をコインブラに流せって命令が来てるのよ」
「……まさか、ディルクのおっさんが」
肩を落すバルバス。白蟻党の面々も表情は暗い。
「私はあの男の思い通りに動くつもりは全くないわ。使い捨ての道具にされるのが目に見えているから。二度と利用されてたまるか」
リグレットはウィルムからの書状を拾い上げ、乱暴に破り捨てる。
今まで、嫌われているのを自覚しながらも、なんとか評価してもらおうと努力してきたつもりだ。だが、もう愛想が尽きた。使い捨てにするつもりでなかったならば、ウィルムの傍に置くか、ロイエのように海上に向かわせていただろう。つまり、自分は完全に見捨てられていたということだ。今更書状を送って機嫌を取ろうとしてきたのは、使えるものは何でも利用してやろうという腹なのだ。そして、また都合の良いところで切り捨てられる。
(国を裏切ろうが何をしようが私の知ったことじゃない。私が許せないのは、人を利用した挙句、簡単に使い捨てたことよ。――あの男、絶対に殺してやる!)
「……我ら憲兵隊はどうすれば良いのだろうか。太守をお守りすれば、陛下に逆らう逆賊になる。だが、太守に刃を向けることは臣の道理に反するではないか。ああ、どちらが正しいのか、私にはさっぱり分からん!」
憲兵長が頭の軍帽を両手で抑えて跪く。今まではコインブラの法に従い、ただ盲目に働いてきたのだろう。だが、コインブラはホルシード帝国の一員だ。その最高権力者たるベフナムの命に逆らうことは決して許されない。
「自分のことくらい自分で考えなさいよ。私はもう決めたわ」
「……貴官はどうする気だ?」
「隊長に決めてもらう。私はそれに従うことにする」
「なんだよ、お前も自分で決めてねぇじゃねぇか! 偉そうなこと言いやがって!」
「あの人がどんな選択をしようと、それについていくということよ。前に助けてもらった借りがあるから。アンタも喚いてないで、さっさと決めた方がいいんじゃない? ここを逃げ出すなら、あまり時間はないわよ。逆賊を討つ正義の軍隊様が押し寄せてくるからね」
リグレットはそう言い放った後、ノエルが謹慎している部屋へ向かって歩き始めた。
扉を開けると、部屋の中は真っ暗だった。ようやく雨も止んだというのに、窓は完全に無骨なカーテンで覆われてしまっている。まるで、外の景色を一切見たくないとでも言いたげに。部屋は酷く暑く、立っているだけでじわりと汗が滲んでくる。
「……隊長、急ぎのお話があります」
リグレットは、部屋へ足を踏み入れる。何故かは分からないが、とても息苦しい。部屋の中は、こんなに広かっただろうか。ノエルは奥のベッドに、手帳を開いて腰掛けている。だが、その背中は魂が抜けているかのように力が篭っていない。
更に一歩入る。やはりこの部屋はどこかおかしい。背後に誰かの気配を感じる。いや、背後だけではない。部屋のそこら中に、何かがいるような気がしてならない。小刻みに走り回る足音、興味深げに覗きこむ視線、からかうように笑っている奇怪な声。幻聴なのか、それとも真実なのかさえもう分からない。その数は、一つ、二つ、いや、数十だろうか。
そうだ。これは子供のざわめきだ。理解した瞬間、無邪気な笑い声が、頭の中で木霊した。
「――ひっ」
「……どうかしたの、リグレット。雨は、もう止んだ?」
どこか濁ったような目と擦れた声で、ノエルが問いかけてくる。本当にこれはノエルなのだろうか。確信は持てなかったが、リグレットはどもりながら答える。
「や、やみました。窓を開ければ、分かると思いますが」
「そっか。じゃあ、開けてみようか。ずっと雨音がうるさいから、閉め切っちゃったんだ。あはは、そうしたら、とても気分が良かったよ」
ノエルがむくりと立ち上がり、一番近くのカーテンを開け放つ。眩い日光が、闇を切り裂くように一気に広がった。同時に、何かの気配も完全に掻き消えた。もう、無邪気な笑い声は聞こえない。
「……まだ雲はあるけれど、ちょっとだけ良い天気だね。もう、悪い事は起こった後ってことかな?」
「は、はい。さきほど凶報が届きました。コインブラ本隊が敗北したという報せです」
「嫌な報告はどこからか耳に入ってくるよね。雨水が屋根から漏れてくるように」
ノエルは薄く笑うと、リグレットに状況の説明を求めてきた。
一連の事態を説明した後、ノエルは怒ることも悲しむこともなく、ただそっかとだけ呟いた。
「ウィルムの裏切りを、何とも思わないのですか?」
「怒っても仕方ないしね。目の前にいたら殺せるけど。今からじゃもう遅いし」
「では、私を処罰しないのですか? 貴方を更迭するように仕向けたのは、私の父です。しかも、自らの栄達のために仲間を売った卑怯な人間。その娘が私です。誅殺されても文句は言えません」
「だって、貴方は大事な副官だし。仲間に八つ当たりはしないよ。あのとき、裏切ったと言ってたら殺してたけれど」
ノエルはあっけらかんと答えた。そして、とりあえず皆の所に行こうと言って、部屋を出て行ってしまった。
城主の間に到着したノエルは、全ての兵を集めて一言告げた。
「助けに行く」
ざわめく一同を見渡し、ノエルは続ける。
「逆賊だろうとなんだろうと、コインブラ軍の兵は私の味方だし。それに、友達のシンシアを助けなくちゃ」
「……本気ですかい? このカルナス城塞の兵は、カイの兵を除けば僅か七百余り。それに対して、バハール軍は軽く五万は越えてきますぜ。しかも裏切った連中が合流してるはずだ。まともにやりあえる数じゃない」
「敵は太守を討ち取ろうと、全力で追撃してきてるんでしょ? だったら、きっと疲れてるよ。それに対して、私達は休んでたから元気一杯。しかも敵の先遣隊は機動力重視だから、そんなに兵数もいないと思うな」
ノエルが楽観論を述べる。だが、バルバスたちの表情は暗いままだ。
「しかし、敵の騎兵は精鋭揃いと聞きますぜ」
「うん。だから、嫌なら来なくていい。私が見捨てるのは嫌なだけだから。皆は好きにしていいよ。必要なだけ兵糧は持っていっていいから」
ノエルはそう言うと、二叉槍を掴んで、出発の準備に取りかかる。
「カイも今までありがとう。もうゲンブに戻るんでしょ? 遊びに行く約束はなかったことにするね」
「何故だ?」
「ゲンブはコインブラの敵になった。だから、次に会ったときは、貴方も敵。敵には手加減しないから、そのつもりで」
「はははっ。それは実に魅力的な提案だが、それがしが、いつここを去ると言ったのだ。早合点されては困るぞ」
カイが不服そうに口を尖らせる。
「じゃあ帰らないの?」
「うむ。主君シデンからは大事が起きたときは、自らの頭で考えろと言われている。生憎、それがしの頭は悪いので、信念に基づき行動することにする。短い付き合いとはいえ、戦友を見捨てるというのはそれがしの信念に背くものだ」
カイが言い切ると、彼に従う足軽たちも同意する。
「あはは、カイたちは本当に戦が好きなんだね。わざわざ負けてる方につくなんて」
「そなたほどではない。それに、戦が好きというのは些か言葉が悪い。ここは、趣深いというのが正しいのではなかったか?」
「あー、うん、そういえばそうだったね」
「とにかく、貴官を招待するという約束を取り消すつもりはない」
「じゃあ、遠慮なく遊びにいくね!」
カイが差し出した手を、強く握り返すノエル。その上から更に巨大な手が乗せられる。
「俺も逃げ出したりしねぇぞ。隊長は仲間だし、ディルクのおっさんの仇を取ってやらねぇと。ここで逃げ出すくらいなら、鉱山で何年も抵抗なんかするもんかよ。……確かに俺たちは賊あがりだが、男としての意地がある! バハールの奴等に痛い目見せてやらねぇと気が済まねぇ!」
「親方が行くなら俺たちも付き合いますぜ! 死ぬときはアンタかノエル隊長の側って決めてんだ! 地獄の鬼にも勝てそうだからよ!」
「お、俺もだ!」
「私も行くぞ! 憲兵とはいえ私もコインブラ軍人、太守に最後まで忠誠を尽くす!」
白蟻党だけでなく、感極まっている憲兵長もノエルに従うと声を張り上げる。ノエルは心から楽しそうに笑った後、二叉槍に二鎚の旗を括りつける。
「じゃあ皆が死んだら私の側にいるといいよ。私は幸せになるから、そのお裾分けをしてあげる。この旗を目印にして帰ってきてね」
「……隊長、死んでたら幸せも糞もないと思いますぜ」
「生きている間にお側に行きたいもんですぜ。ねぇ、親方!」
「お前は黙ってろ!」
バルバスたちが冗談を言い合うと、ノエルは真面目な表情で述べる。
「でも、嘘じゃないよ。無理にとはいわないから、覚えていたらでいいよ」
「へへっ、そりゃありがたい。それじゃ、俺達が死んだら、隊長の背中に憑かせてもらうことにしますぜ。後でありゃ嘘だったってのはなしですぜ!」
「親方、縁起でもないことを言うのはやめてくれよ」
白蟻党の面々がそうだそうだと大声を上げると、バルバスは「そりゃすまん」と笑ってごまかした。ノエルも一緒に笑うと、全員が笑い出した。ぎこちない表情の者、頬が引き攣っている者、顔面蒼白な者もいたが、皆逃げ出すという考えは完全に頭の中から消えていた。死への恐怖はあったが、戦う意志が溢れてくる。それが心の拠り所となり、この場に残ると言う選択肢を皆に選ばせた。
「――それじゃあ行こっか。バハールに一気に引っくり返されちゃったけど、まだ負けてない。やられたらやり返せばいいだけのことだし。私は絶対に諦めないから、最後の最後まで頑張ろう!」
『応ッ!!』
ノエルが叱咤激励すると、身分、出身の異なる八百名の兵が、拳を掲げて意気を上げた。いつのまにか、リグレットも手を上げてしまっていた。
ノエルはカルナスを出発すると、間道の脇に潜み、逃げてくるコインブラ本隊を待ち受けることにした。
コインブラ兵は誰もが満身創痍であり、もはや武器を握ることすら難儀する様子であった。それに容赦なく刃を振り下ろす敵騎兵隊。槍には飛龍の旗が付けられている。その旗は真紅に染まっており、何人ものコインブラ兵の命を吸い取ってきたようだった。
その凶刃は、いよいよシンシアの元にも迫っていた。千人いた部下は、すでに三百近くまでに減らされている。逃走した者が少ないのはシンシアの統率力が優れていた証拠だが、気合で体力を補うのにも限界がある。逃げても逃げても敵は追ってくる。しかも、こちらは敗勢濃厚、疲労がたまれば嫌でも士気は下がって行く。
「……シンシア様、我らは、どこまで逃げればよいのでしょうか?」
肩で息をしている副官が、不安そうに尋ねてくる。
「コインブラ領まで戻ればなんとかなるはずだ。援軍が、きっと来る」
「し、しかし、伝令からの報告によれば、既に各州がコインブラに攻め入っていると。しかも、友邦のゲンブ州までです。それに呼応して、領主達が寝返っているなどという噂まであります」
「……敵の流言だ。兵達には余計なことは知らせるな。これ以上士気が下がれば、我らは崩壊する」
流言と否定したが、恐らく事実だ。コインブラ領に戻っても、一体誰が味方で誰が敵か分からない状態だろう。ウィルム、ガディスが裏切った今、誰を信じていいのか、シンシアにも分からない。間違いなく味方と呼べるのは、更迭されたノエル、今一緒に退却しているコインブラ軍の面々、そしてトライス川で死んだ者たちだ。
「……敵兵が盛んに喧伝しております。もはや手遅れかと」
「……そうか」
シンシアはそう短く答え、会話を打ち切った。もう深く考える気力も尽きかけている。こんな苦しい撤退戦を味わうぐらいならば、ディルクとともに残り、討ち死にしていたほうがマシだったかもしれないと、頭の中に浮かんでくる。
(敵の数、そして勢いは凄まじい。それに加えて恐ろしく強い騎兵まで攻め寄せてくる。これが、バハール軍の真の強さなのか)
飛龍の旗を掲げ、黒衣を纏った騎兵――黒陽騎が襲撃してくる度、部下の数が著しく減っていく。こちらも反撃をしているが、動きが全く違うのだ。完全に見切ったような動きで、繰り出した槍を受け流し、反撃を食らわせてくる。シンシアの見てきた限りでは、まだ一騎も黒陽騎を討ち取る事ができていない。これは、異常なことだった。
「こちらが疲弊しているとはいえ、ここまで差があるなど、考えられん。あいつらは、一体なんなのだ?」
「シ、シンシア様、また黒陽騎が現れました! 後方より敵襲ですッ!!」
「槍衾を組め、突進を阻め!! 太守のもとまで決して行かせるな! 我らが盾となる!」
シンシアが怒声を上げ、及び腰の兵達を叱咤する。最後の力を振り絞り、シンシア隊の者たちが隊列を組み上げ、槍を構えて待ち受ける。二十騎ほどの黒陽騎は急停止して、横隊に広がったかと思うと、手にしていた槍を一斉に投擲し始めた。凄まじい速さで殺到するそれらは、槍衾を組み上げた兵たちに突き刺さっていく。即席で組み上げた隊列が、一撃で突き崩されてしまった。悲鳴と血飛沫が舞い上がる。シンシアの顔に、臓腑の欠片が付着する。正面から投擲槍の直撃を受けた兵は、体を鎧ごと分断されていた。
黒陽騎の一人が嘲笑を浮かべたかと思うと、腰に提げていた剣を抜き放ち、馬を走らせてくる。指揮官である自分を討ち取るつもりなのだろう。シンシアも剣を構えるが、体力がつきかけており、手に力が入らない。目が霞む。
「敵将と見受ける、その首もらったッ!」
「行かせるか!」
「邪魔だ、雑魚がッ!!」
防ごうと立ちはだかった部下を斬り伏せ、黒陽騎が一気に迫る。
「死ね!!」
「――ッ」
(ここまでかっ!)
馬上から繰り出された渾身の一撃が、シンシアに届こうとしたその瞬間。黒陽騎の身体が不自然に宙に持ち上がった。主を失った馬が必死に嘶いている。
「――グ、グガッ」
「シンシアは私の友達だから、殺させないよ」
見覚えのある二叉槍が黒陽騎の胴体を貫いていた。それを豪快に薙ぎ払うと、何か赤い物を撒き散らしながら大木に衝突した。
「ノエル! 本当に、ノエルなのか!?」
「へへ、お待たせ! 皆と一緒に助けに来たよ。お互い、また無事に会えて良かったよね!」
嬉しそうなノエル。だが、他の黒陽騎は未だ健在だ。
「ゆ、油断するな! こいつら、本当に手強いぞ! 我らはこいつらに散々掻き乱されたのだ!」
「そうみたいだね。でも、さっきの剣の動きは全部見えたから、少しだけ私の方が強いみたい」
ニヤリと笑うと、二叉槍を構えながら無造作に敵騎兵に近づいていく。
「よくも我ら暁の兄弟をッ!」
「女と雑魚共を踏み潰せッ! 一匹も逃がすな!」
憤った黒陽騎たちが、押しつぶそうと殺到する。ノエルはあえて騎兵の下へと潜り込むと、馬の下腹部から一騎を串刺しにする。その悲鳴を合図に、周囲から大勢の兵が飛び出してくる。旗はコインブラの天秤旗と二鎚旗が掲げられている。ノエルの伏兵だ。驚くべき事に、バハール側についたはずのゲンブ兵まで加わっている。
「あ、あの戦装束はゲンブ兵!? 彼らは既にバハール側に参戦したはず。な、なぜ、我らの味方を」
「決して仲間を見捨てぬという、ノエル殿の言葉に賛同したまでのこと」
いつの間にか隣に立つ、頬に傷のある無骨な男――ゲンブの武官、カイだった。
「貴官はカイ殿か! 援軍、本当にありがたい! しかし、このようなことをしては――」
カイのしていることは明らかに命令違反、下手をすれば反逆罪に当るもの。裁きをまつまでもなく、死罪だ。
「主に刃を向けた訳ではないから、謀反にはあたらぬ。万一のときは、処罰を潔く受け入れるまで。そのときは悪鬼の戦いぶりに、魂が魅入られたと言い訳させてもらうがな!」
カイは豪快に笑った後、シンシアに向き直る。
「それと、貴官とコインブラ公が真に礼を言うべきは、救援を決断したノエル殿であろうな。彼女はそれがし同様に賢くはないが、人を惹き付ける何かがあるのやもしれん。ああ、賢くないというのは馬鹿という意味ではなくて、生き方の問題だ」
「……無実の罪で更迭されたというのに、ノエルは私達を救いに来てくれたというのか。……合わせる顔がないとはこのことだな」
「ノエル殿は気にしてはいないとおもうが。まぁ、そのような反省は後でされるがよかろう。今は、この場を切り抜けるが最優先だ。コインブラ公には、一旦カルナスへ入っていただき態勢を整えていただく。そこまでは我ら足軽隊が確実に守りきろう!」
「カイ殿、申し訳ない! 私はここで敵の追撃隊を防ぐ! どうか太守をお願いします!」
ノエル隊の働きで九死に一生を得たシンシア。兵たちもここが最後の踏ん張りどころと、槍で体を支えながらも立ちはだかる。バハール兵はというと、精鋭である黒陽騎が十程度討ち取られた事で萎縮してしまっていた。憎々しげな怨嗟の声を上げながら後退していくと、随伴する歩兵達も算を乱して散っていった。
「シ、シンシア様、バハール軍が退いていきます!」
「はあっ、はあっ、ほ、本当か!」
シンシアは息を荒げながら、逃げていくバハール兵を見送る。見せ掛けではなく、確かに退却しているようだった。追撃する余力などあるはずもない。シンシアは直ちに負傷者の手当てを命じ、カルナスにひとまず危機は去ったと伝令を送る。
「な、何とか、切り抜けることができたようだな。ノエル、怪我はないか?」
「…………」
シンシアは血と泥が混じった汗を拭った後、二叉槍を持ったまましゃがみこむノエルに声をかける。流石にノエルも疲れているのか、色白の顔が少々紅潮している。熱を帯びているようだった。
ノエル隊の面々は、逆に追撃するぞという素振りだけ見せている。その後ろでは、騎兵の行く手を遮る乱杭が慌しく打ち込まれ、木々の間に黒縄を縛りつける作業が開始されている。やるべきことは全て手配済み、余裕のないシンシアよりも、指揮官としての使命を完全にこなしている。
「ノエル」
「……この人、これでまだ生きてるんだよ。外に内臓が飛び出てるのに。私の不思議槍の炎が、傷口を塞いじゃったみたい。だから、死ねないんだね」
最初にノエルが串刺しにして、放り投げた黒陽騎だった。シンシアの部下にした行為が、皮肉にも自ら味わう羽目になったようだ。だが、驚くべき事に命の火が尽きていない。いや、ノエルの言葉通り、死ねないというのが正しいのか。胴体の傷が、炎で塞がれて失血死を幸運にも免れている。だが、壊れた鎧からは原型を留めていない腸が溢れている。この状態では、死を免れることは絶対にできない。
他の黒陽騎も限界まで抵抗したらしく、ノエル隊の兵によって、何本も槍を打ち込まれて凄惨な最期を遂げていた。
「――ガ、アッ!」
「もう楽にしてやれ。敵とはいえ、いたずらに苦しめることはない」
「今ね、話をしてたの。この人、暁計画の完成品なんだって。まだ何も武功を立てていないのに、辛い訓練と実験に折角耐え抜いたのに、こんなところで犬死なんて嫌だって、子供みたいに泣いてる」
「……暁計画? 生憎、私は聞き覚えがないが、一体なんのことだ?」
「さぁ、なんだろうね。私もよく分からないや」
ノエルが、言葉を濁した。知っていて答えないのだろうと思ったが、シンシアは追及するのをやめた。今はそんな場合ではないし、何よりノエルが知られたくなさそうな顔をしていたから。
「しかし、この有様でも気を失わないとは、やはり常人ではないのか」
この様な人間が揃えられたのが黒陽騎。恐るべき相手だと、シンシアは改めて認識する。
そして、瀕死の黒陽騎の顔を見る。充血した目からは、確かに涙が溢れ出ている。だが、その口からはヒューヒューと掠れた呼吸が聞こえるだけで、何を言っているかは聞き取れない。憎むべき敵だが、これ以上何か情報が得られるとは思えない。
「……ノエル、もういいだろう。お前がやりたくないのなら、私がやるが」
シンシアの言葉に、ノエルは首を横に振る。
「最初に、殺して楽にしてあげようかって言ったら、嫌だって言ったんだ。だから、最後まで生かしてあげようと思って。えっとね、最後くらい自分の意志で死にたいのかなと思って。だから、私は止めを刺すのはやめたんだ」
「しかし」
「…………」
「……悪いが、これ以上見ていられん。止めをさすぞ」
シンシアは少しだけ悩んだ後、剣を取り身体に突き立てようとした。ノエルは特に止めようとはしてこなかった。なぜならば、その黒陽騎の目は既に閉じており、乱れていた呼吸は完全に止まっていたからだ。
「……死んだか。最後まで苦しむ必要はなかっただろうに」
「まぁ、そうだよね。……でも、この人は、幸せだったと思うよ」
「……何故そう言えるんだ?」
「一人で死ぬのは寂しいじゃない。でも、私は沢山話を聞いてあげた。最期は私とシンシアが一緒にいてあげた。だから、きっと幸せだったと思うんだ」
ノエルはそう呟くと、二叉槍を杖がわりに立ち上がり、どこかふらついた様子で自分の隊の下へと歩き出した。




