第二十四話 あの山を越えて
陥落させたラインの街に入ると、ノエルは領主の館へと案内された。別働隊を率いていたバルバスの手により、街は完全に制圧されている。
「ね、館を燃やしたんじゃなかったの?」
「あー、そうしようと思ったんですが、こいつらが出ようとしなかったんで。じゃ仕方ねぇってことで、倉庫の一つを燃やしたって訳で。仕事熱心というか、頑固というか」
「そうなんだ」
頭を掻くバルバスを一瞥し、緊張した面持ちで並んでいる者達を眺める。従者や使用人、メイドといった者達だ。逃げださなかった様子を見ると、相当職務に忠実らしい。とはいえ、特に反抗するような素振りはない。
バハール人は誰もが勇敢で、侵略者に抵抗を示すという話だが、やはり人それぞれである。出身で性格が固定されるなど実際にはありえない。自分の出身がさっぱりわからないノエルは、そんな風におもった。
(そういえば、私はどこの出身なんだろう。……やっぱり、あの教会で生まれたことになるのかな)
「うーん」
ノエルが意味もなく唸っていると、使用人の一人がおずおずと声をかけてくる。
「……あの、一つお伺いしても宜しいでしょうか?」
「何?」
「ベロッテ様は、我々の主人はどうなったのでしょうか」
「うん。降伏しろって呼びかけたんだけど、逆に斬りかかって来たから殺した。首はここにあるけど。見たい?」
ノエルが手にしていた包みを前に出す。ひっ、と声を出して従者達は後ずさる。
「弔ってあげたいのかもしれないけれど、今は渡せないんだ」
「……そうですか。残念です」
「えっと、貴方達を殺す気はないし、街の人にも手を出さない。だから、これからは好きにしていいよ」
「そ、そう言われましても。我々もベロッテ様がいなければどうしたらよいか分かりません」
「大丈夫大丈夫。私達はすぐに出て行くから。グロール様にお願いして、ちゃんとした人を寄越してもらうよ」
「は、はい」
どことなくほっとした様子を使用人たちは見せる。
「ところで、ここらへんに一番詳しい人を、後で連れてきて欲しいんだけど。ちょっと聞きたい事があるんだ」
「それは構いませんが。……ここらへんと言われましても、範囲が広すぎて。具体的には、どの辺りでしょうか」
「街の裏山、バルケス山脈によく出入りしてる、狩人か木こりを寄越してくれる? 早めに宜しくね」
ノエルはそう言って、使用人の肩を叩く。そして、バルバスにどこか落ち着けるところに案内してくれと促した。
案内されたのは、ベロッテが使用していた執務室。絵画や壺が飾り付けられた、中々小奇麗な部屋だった。特に、バハール名産の絹で織られた絨毯にノエルは目を惹かれる。
「うわ、これすごいね。凄い綺麗だし、なんか模様が光ってるよ。どうやってるんだろう」
「中々いいものですな。バハール以外で買ったら、目が飛び出るような値段でしょう。ゲンブの館にも、これと同じ物を使っていましたぞ」
「それは、この街で作られたものです。特別な虫の繭を用いて、長い時間を掛けて編み上げるのです」
カイが絨毯に触れながら感想を述べると、老いた従者が、誇らしげな顔で語り始める。彼らにとっての誇りは、武ではなくこの製造技術なのかもしれない。
「なるほど。流石は絹を特産とするバハール。それがし、感服致しました」
「ありがとうございます。ベロッテ様は、一番出来が良い物をお使いになられておりました。特に、この絨毯は大層お気に召されたようでして」
あの人の宝物だったようだ。ノエルは少し欲しくなってしまった。普通は、人の宝物を取ったら怒られる。でも、死んでしまった人のならばどうだろう。やっぱり駄目かもしれない。
でも、シンシアは亡き兄の形見の眼鏡をくれた。ちゃんと聞いてみて、駄目といわれたら諦めよう。そう思った。
「ね、もしも、この絨毯を売って欲しいって言ったら、怒られるかな?」
ノエルが試しに聞いてみると、年老いた従者はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、最早この館の主、ベロッテ様はおられません。ベロッテ様は奥様を早くに亡くされ、お子様もおられませんでした。ならば、仇とはいえ貴方に使ってもらったほうが絨毯にとっては良いのでしょう。……その代わり、お願いで御座います。どうか、ラインの住民に対して、乱暴な真似をなされませんよう」
「うん、約束するよ。バルバス、ここにいるのは少しの間だけど、絶対に略奪はしないように。破った奴は厳罰に処すと伝えて。具体的にいうと、頭を叩き潰すから」
「はっ! 隊長がそう言えば、連中も震え上がってさぞかし住民に親切にするでしょうな。とはいえ、この絨毯どうするつもりなんですか?」
「後で誰かにマドレスまで運んでもらうよ。私の部屋で大事に使うんだ。この上で昼寝したら、きっと気持ちいいと思って。――どれどれ」
ノエルは絨毯の上に転がると、気持ち良さそうに大の字に広がった。すごいすべすべして気持ちが良い。この上を靴で踏みつけるなんて、もったいないなと思った。けど、使われてこそ価値があると従者に言われ、なるほどと思った。道具を大事にしまっておいても、意味もなく劣化していくだけだ。
「失礼します。……って、一体何をしているんですか、貴方は。まさかそこの浮浪者の真似ですか? 汚らしい」
部屋に入ってきたリグレットが、小馬鹿にしたような目つきで見下ろしてくる。浮浪者という言葉のところで、バルバスに視線を向けたので、またいつものやりとりが始まる。
「誰が浮浪者だ。我慢にも限度があるってことを、そろそろその身体に思い知らせてやろうか」
「これは失礼。私とした事が、つい本音を。それと、すぐに暴力に訴えるのは野生の証明よ?」
「この糞アマがッ!」
「はいはい、そこまでにしてね」
ノエルはとめる為に、仕方なく立ち上がる。斬りあいでもされて、絨毯がいきなり汚れてしまったらとても悲しい。
「ちょっと考えを纏めていただけだよ。さ、リグレットも来たし、これからについて話し合おうか」
ノエルが促すと、長机の周りにバルバス、リグレット、そしてカイが腰掛ける。老いた従者は丁寧に挨拶した後退出していった。
「あのお爺さん、良い人だったね」
「貴方に逆らって、皆殺しにされるのを恐れているんですよ」
「ま、そうだろうけど」
リグレットの言葉に、ノエルは特に反論しない。
「それより、話し合いと言っても、そもそもラインを落とした意味が私には分かりませんね。点数稼ぎですか?」
「ノエル殿には何か考えがあるのだろう。しかし、攻勢を掛けてから一日も経たずにラインを陥落させるとは。それがし、心より感服仕った」
カイの隊はバルバスと共に別働隊として、街の制圧と火付け役に回っていた。街の兵力はほとんど空だったので、犠牲は全くでていない。何より、荒っぽいことが得意の白蟻党に足軽だ。だからこそノエルはこの役目を任せた。
「カイとバルバスが上手くやってくれたからね。完璧なタイミングだったよ。二人とも、ありがとう」
「ははっ、礼には及びませぬぞ。肩ならしには丁度良かった」
「へへっ、ありがとうございます。ノエル隊長も見事な逃げっぷりだったようで」
「実はリグレットの真似をしたんだけど。そうしたら、敵がもの凄い怒って追いかけてきたよ。凄い効果だった!」
「今、聞き捨てならない言葉が聞こえたのですが。誰の真似をしたんですって?」
完全に聞こえていたであろうリグレットが、顔を引き攣らせながら問いかけてくる。もう一度大きな声で答えてあげようとしたら、バルバスに遮られた。
「てめぇの気のせいだろうさ。それより、あれはどうでしたか?」
「うん上手い事いった。あれなら、街一つ燃やし尽くすのも楽勝だね」
ノエルは机をトントンと指で叩く。格好つけているだけで特に意味はない。
神経質なリグレットは気になって仕方がないようで、既に二回ほど舌打ちしている。更にもう一度大きく舌打ちすると、イラついた様子で発言する。まだ怒っているようだ。
「大体、いつの間にあんな物を持ち込んだのですか? 私は一切知らされていませんでしたが。そういうことでは、副官の仕事に支障を来たします」
ベロッテの兵を林で焼き討ちした際に用いたのが、燃焼石だ。ボルック鉱山で、金の代わりに採れるようになった赤い鉱石。それを水に浸しながら砕き、粘土状にして丸めれば完成。油に浸して火を付けてやると、盛大に燃え上がり、最後には勢い良く破裂する。バルバスたち白蟻党が、身を犠牲にしながら開発した極秘の特産品だ。製造するとき鉱石を水に浸すのは、そのまま砕くと破裂するからに他ならない。
「てめぇに知らせても何の得にならねぇだろうが。だから、俺が進言したのさ。驚かせる為にも、あの馬鹿には絶対に秘密にしましょうってな。へへっ」
「馬鹿はアンタでしょう。ふん、下賤な人間たちが考えそうなことね」
「――で、驚いた?」
「驚くよりも不愉快です。隊の情報は全てを教えていただかないと、何かがあった時に対処できません。例えば、貴方がうっかり戦死したら困るでしょう。次に隊を率いるのは私なんだから」
リグレットが挑発するようなことを言ってくるが、特にノエルは怒ったりはしない。言わなかったのは事実だから。
「そうだね。ごめんね、リグレット」
「へっ、隊長の戦死を想定するなんて、本当糞みたいな女だぜ。なぁ隊長、今ならぶっ殺しても誰も文句言いませんぜ。ここで一発やっちまいますか? 死体は燃やして捨てちまいましょう」
「やれるもんならやってみなさいよ! この白髪猿がッ!」
バルバスが腰の剣に手を当てる。リグレットは一瞬怯むが、すぐさまキッと睨みつけ、同じく剣を抜ける態勢を取る。実際にやりあったらバルバスが間違いなく勝つだろうが、リグレットの性格上謝ることは無理だろう。
「ね、仲間なんだから、殺しあう必要はないでしょ。バルバスは白蟻党の党首だし、リグレットは大事な副官。二人とも私には必要。だからさ、仲良くやろうよ」
ノエルの言葉に毒気を抜かれた両者は、剣から手を離し視線を背ける。カイは面白そうに眺めているだけで、特に咎める様子はない。
「……で、ノエル隊長。貴方はこれからどうなさるおつもりなんですか? 先ほども言いましたが、こんな僻地の都市を落としたところで戦略的な意味は何もないと思いますが」
「あはは、何を言ってるのリグレット。これからが本番だよ。楽しい火祭りはこれから!」
「はぁ? 私には意味が分かりませんね。いくら指揮官とはいえ、子供の冗談に付き合う暇はないんですよ」
そっぽを向くリグレットに、ノエルは口調を変えて命令する事にした。こればかりはしっかりやってもらわないと困る。決めるときは決めろと、シンシアも言っていた。
「リグレット、太守に使いを出し、このベロッテの首を届けなさい。そして、こう伝えて。我らノエル隊はバルケス山脈の抜け道を使い、バハール州都ベスタを襲撃すると。私達だけでも焼き討ちは成功させてみせるが、増援があれば陥落させることもできる。できれば、シンシアの隊を向かわせてと願い出て。一緒にやるなら意思疎通が出来る人じゃないと、面倒なことになるから」
「馬鹿馬鹿しい。そんな無茶なことが許可されるとは思いませんが。先日、貴方は同じようなことを言って、皆から失笑を買っていたではありませんか」
「私の隊七百とカイの百、併せて八百名。それにシンシア隊の千人を加えれば、ベスタに壊滅的な被害をあたえることができる。バルバスが持って来た、燃焼石を全部使ってね。城下に田畑、全部焼き尽くしてやる」
「そいつはまた豪快なことで。……しかし、それだけやらかしゃ、相当な悪名を背負う事になりますぜ。……隊長にはその覚悟がおありで? 悪鬼だけじゃなく、ありとあらゆる異名がつくでしょうぜ」
「バハールはコインブラの村や街を悲惨な目にあわせた。だから、私達が復讐したって、相手は文句を言えないでしょう。だって、勝った方の声が正しくなるんだから。皆がそう思えば、それがまかりとおる。世の中そんなものだから、仕方がないよ。だから、私はやる」
ノエルは平然とした様子で言い放つ。バルバスは一瞬絶句するが、ロックベルの惨状を知った後では特に反対する気持ちはない。弱者を襲撃するのは反吐が出ることだが、それはコインブラ人同士に限る。ベスタのバハール人がどうなろうが、最早知ったことではない。先に手を出してきたのは向こうなのだから。
「……因果応報という言葉がゲンブには古くから伝わっている。善行には善行が、悪行には悪行が己に返ってくるという意味だ。だが、必ずしもそうならないのが世の中なのだろうな。まさに、この世は複雑怪奇」
腕組みをしたカイが、目を瞑って重々しく呟いた。言っていることはノエルにはよく理解できなかった。まさに複雑怪奇だった。
「ま、私は極悪非道の悪鬼らしいから。どんな悪行をしたって、今更なんてことはないよ。そうだ、今度は鬼の顔を描いた旗でも掲げてみようか。きっと皆びっくりするよね!」
「やめてください! 私がいる限り、絶対にそんな旗はあげさせないわ! 私まで馬鹿に見られるじゃない!」
リグレットが机を叩いて反対する。冗談だったのに、本気ととられてしまったようだ。
「ははは! そういうところも、実にゲンブ人らしい。ノエル殿、コインブラでの冷遇が続くのであれば、こちらに亡命してくると良い。それがし、心から歓迎いたす。それに、我が主、シデンも間違いなく気に入るであろう」
真剣な表情でカイが誘いを掛けてくる。返答に困ったノエルは、「ちょっとだけ考えておくね」、とだけ答え、長机の上に広げた地図を見やる。もう暫くすれば、地理に明るいラインの人間がやってくるだろう。木こりか狩人ならば、バルケス山脈は庭のようなものだ。なんとしても情報を引き出さねばならない。
「私が聴いて素直に教えてくれるといいけれど。駄目なら、リグレット、貴方が聞き出してくれる?」
「申し訳ありませんが、私はベスタ奇襲に賛成している訳ではありません。貴方がそこまで拘る理由をお聞かせ下さい」
舌打ちを堪え、リグレットが納得いかないという表情で問いかけてきた。
「うん、分かった。ここには太守や将軍たちがいないから、正直に言うけど。私から言わせれば、どうして皆がバハール領の制圧に拘るのか分からないよ」
「そりゃ隊長、戦の後にアミルの責を追及して、バハール領を景気よく分捕るためでしょう。無茶な話ですが、アミルを蹴落とせばグロール様が次期皇帝最有力ですし。きっと無茶は通りますぜ」
バルバスがそう言うと、カイとリグレットも同意する。
「勝てれば、ね。勝てなきゃ、何の意味もないし。そもそも、今回の目的は、バハール公の皇太子就任の阻止でしょ」
「そりゃまぁ、そうですが。足元を固めるのは、勝つためにおかしい事ではないんじゃないですかね」
「確かに大事だけど、時間をかけていいとは思わない。私が心配してるのは、敵の主力が本当に帝都にいたのかってこと。それを確かめるためにも、ベスタを一撃しておきたいんだ。州都を放置するような真似はできないはず。自分の名声に関わるからね」
「……またそのようなことを。私の父とガディス様が放った密偵からの報告です、間違いがある訳が――」
「どうもね、気になるんだ。ウィルム将軍にガディス将軍、それにリベルダムの特使グリエル。皆時間をかけて慎重に進軍するように太守に進言してる。バハール公が一番嫌なのは、犠牲を承知で一気に進軍されることのはずなのに。帰ってきたら本拠地のベスタが落ちているなんて、笑えないもんね」
「……ふむ、確かにそれはそうだな。それがしがバハール公ならば、手塩にかけて育てた州都を落とされるなど、堪ったものではない」
カイが一理あると軽く頷く。
「でしょ。私なら、まずはコインブラを挑発して先に手を出させる。これで逆襲するための大義を用意。後は領内に引き込んで、伏せておいた兵で挟撃、最後は退路を断って一網打尽。伏せておいた兵っていうのは、帝都に向かわせると見せかけた主力部隊だね。ああ、バハールの海軍はリベルダムと共同して動いてるかな? バハールは主力が引き返してくるまで時間を稼いでいれば、勝利は間違いなし。ここで最も重要なことは、最後までコインブラの指揮官に“勝てる”という自信を与えておくこと」
いつの間にか眼鏡を掛けていたノエルが、得意気に持ち上げてみせる。長い話で喉が渇いたので、水を一杯飲む。暑さで温くなっており、あまり美味しくなかった。
「……隊長、今の話はあまり大きな声でするのはまずいかと。なんにせよ、憶測で物を言うのは危ないですぜ。どこで聞き耳を立ててる輩がいるか分かりません。どこにでもドブ鼠はいるもんです」
バルバスは何か言おうとして、口を噤む。だが、その視線はリグレットを睨んでいる。ウィルムの飼い犬だと確信しているからだ。
リグレットは不快な表情を隠そうともしない。それもそうだろう。ノエルはあからさまに、ウィルム、ガディスの方針は間違いだと言っているのだから。
だが、不快なのはそれだけが理由ではない。リグレットは、父ウィルムがアミルと誼を通じていることを察している。何度かバハールからの使者が出入りするのを見ているのだから、ほぼ間違いない。だが、それを暴露しても信じる者は誰もいない。錯乱したとして幽閉されるのが関の山。だから、リグレットは大人しく流れに従うことを選択した。生き残るためには仕方がなかった。
ノエルは、その流れに正面から逆らおうとしている。リグレットには、これからどうすれば良いのか分からない。それが、不安で不快でたまらなかった。
「で、ではお尋ねしますが。貴方の考えはすべてが憶測によるものでしょう?」
「うん!」
はっきりと言い切るノエル。証拠は何もない。斥候を放ちたいが、ノエルの言葉が信用されなければ意味がない。敵主力がこちらにいるという光景を見せてやることができればいいが、そんなことはできない。
「なら、そんな不確かな情報で、急進策を取るなど愚行としか思えません。それとも、貴方の策ならば必ず勝てるという確証でもおありなのですか?」
「あはは、貴方のお父さんにも同じ事を聞かれたけど、勝てる確証なんてある訳ないよ。最後はやってみないと分からないし」
再びノエルは言い切った。いくら考えを巡らしても、最後は当ってみないとどう転ぶかは分からない。立てた策の全部が全部うまくいくなら、世の中には皇帝が何人もいることだろう。
「本当に馬鹿馬鹿しいわ。そんなことだから、コインブラ軍の恥さらしなどと笑われるのです。仮にも騎士を名乗るならば、常識を弁えたらどうなんです!」
「常識なんてどうでもいいんだよ。どれだけ笑われても勝てばいいの。第一、“必ず勝てるという確証”なんて、この世の中にある訳がない。もしあるならば、それを逆手にとって罠に嵌めるだけ。戦っていうのは相手の裏をかく騙しあいでしょ。私は、前にそう習ったけれど」
「……き、詭弁を。そうやって口答えばかりしているから、上の人間に睨まれるのです!」
リグレットは己を棚に上げて罵った。日頃、ウィルムに余計な一言ばかり言って煙たがれているのは自分だ。上官や、同僚、部下にもそれで距離を置かれているのだから。自覚していても、止める事ができない。この調子では、いずれ悪鬼と呼ばれるこの上官に叩き潰されるのも遠くはないだろうなどと内心脅えている。それでも口は止まらないのだから、一種の病気だ。
「とにかく、私はこれ以上命令には背けないからね。太守がどうしても駄目って言ったら“制圧”は諦めるよ。上官の命令と軍規には従わないとね」
制圧はやめるだけで、焼き討ちは実行する。そうでなければただの無駄骨である。
「あ、当たり前のことを何を偉そうに言っているのですか」
「太守への使者の件はよろしく。バルバス、木こりか狩人が来たら私を呼ぶように。カイは好きなようにしてて良いよ。兵には休息をとらせるようにね」
「了解しました!」
「それじゃ、私はごろごろしてるね」
ノエルは各自にそう言って移動すると、絹の絨毯の上でゴロゴロと転がり始めた。これから運命とやらがどう転がっていくのか。自分には全く予想出来ない。ならば、今出来ることを全力でやるだけ。ノエルは単純に考えることにした。
できれば、シンシアが来てくれれば嬉しい。彼女と一緒の戦いでは、負けたことがない。ベスタ制圧もきっと上手くいく。
――バハール州、とある野営地。帝都から引き返している最中のアミルは、兵を止めて短い休息を取っていた。その数は三万人。南の街道からは将軍バルザック率いる二万人を向かわせている。北と南で、一挙に挟み撃ちにするのが狙いだ。
バハール全域に守備兵として残してきたのは約一万人。当然ながら、各都市ごとの防衛は薄くなる。策とはいえ、自分の街を敵に渡すのはやはり耐え難いもの。アミルは込上げてくる焦燥感を押し殺すのに苦労していた。
「アミル様。カルナス城塞からの連絡です。ホスロ千人長は最後まで勇敢に戦い、見事に討ち死になされました」
「……そうか、ホスロは任務を果たしたか。私が帝位を掴んだ暁には、必ずや彼の者の遺族に報いねばなるまい」
「それと、もう一つ悪い報告がございます。バルケス山脈の麓の都市、ラインが陥落致しました。領主のベロッテ伯爵は迎撃に出るも戦死されたようです。現在は敵の支配下にあるようですねぇ」
アミルの知恵袋、参謀のミルズが書類を片手にそう告げてくる。寝癖のついたぼさぼさ頭に、人の良さそうな柔和な表情。一見ただの優男に見えるが、提案してくる策はどれもこれも悪辣なものばかり。人は見かけによらないを地で行く人物だ。
アミルの武を担当するのがファリドの黒陽騎ならば、策の担当はミルズ。この両輪を最大限に活用する事で、アミルは帝位獲得寸前までたどり着いた。アミルの覇道に欠かすことの出来ない人間たちである。
「ラインが落とされただと? 少々面倒なことになったな」
アミルは広げられた地図を見る。コインブラ軍が州都ベスタを狙うならば、中央街道を通るしか術はない。だが、敵が危険を承知の山越えに討ってででるならば、このラインが最短の拠点となる。
「……恐れながら申し上げます。特に考えなどなく、ただ手薄な拠点を攻めた可能性はありませんか? コインブラの愚昧な連中ならば、十分ありうることかと」
武官の一人が都合の良い考えを述べるが、ミルズはありえないと否定する。当然、アミルも同じ考えだ。
「敵を侮ってはいけませんねぇ。すぐに油断するのが、我ら武勇に優れるバハール人最大の欠点です。戦というのは刻々と状況が変わるもの、指揮官はそれを考慮して次なる手を打たねばなりません。ラインを落とした将は、まず間違いなく山越えを狙っているでしょう。現地の者ならば、抜け道の一つや二つ知っていて不思議はありませんし」
髪をぼりぼりと掻いた後、ミルズがラインに天秤を模した駒を置き、バルケス山脈へと進める。
「だが、兄上の考えとはとても思えんな。コインブラの凋落後、兄上は神経質なまでに体面を気にするようになっている。リスクを冒してまで、急戦策を取るとは考えにくい」
そうなるように追い込んだのはアミルではあるが。金に糸目をつけずに流言飛語を駆使し、グロールの悪評を徹底的にばら撒いた。それに対するように、バハールの目覚しい発展を述べさせ、アミルがより優れているという印象を民達に植え付けた。邪道であるのは理解しているが、帝位を掴むにはこれぐらいは当たり前の手段である。グロールも対抗手段はいくらでも取れたのだから、批判される謂れはない。
「では、厄介な知恵者でも味方に引き入れたのでしょうか」
「そのような話は聞いていないな」
「となると、その指揮官が、独断で落としたのかもしれません」
「だから、厄介なのだ。駒に勝手に動かれては、兄上との真剣勝負に水を差されてしまう。そうではないか、ミルズよ」
アミルがミルズに視線を送る。口の端をあげたミルズが、懐からもう一枚の書類を取り出す。
「仰る通りです。私の密偵の調べによりますと、ラインを落とした指揮官はノエル・ヴォスハイト百人長とのこと。兵力は千に満たない程度のようです。今はラインで兵を休め、次に備えているみたいですねぇ」
「千程度なら脅威ではありませんが、増援を呼ばれると厄介ですな。今のベスタの守備隊の数では、城下を完全に守りきるのは不可能です」
「左様。喉下に、短刀を突きつけられているようなもの。アミル様、ここは直ちに奪い返すのが宜しいかと」
他の参謀が意見を述べる。だが、アミルは首を横に振った。
「我らは隠密行動中なのだ。兵を奪還に向かわせれば、本隊の位置が知られる恐れがある。そうなればすべてが水の泡。正面切っての決戦に持ち込まれるなど愚の骨頂。……全く、そのノエルという者は、実に厄介な真似をしてくれたものだ」
「そのことですが、そのノエルという将は、最近コインブラに仕えるようになったみたいですねぇ。しかも女だてらに、悪鬼と呼ばれ恐れられる武勇の持ち主。実は、ホスロ殿を討ち取ったのもその者です。いやはや、弱兵と名高きコインブラになんで悪鬼がいるのやら。本当に参りましたよ」
ミルズがお手上げといった仕草を取る。だが、これも白々しい演技なのだ。その頭では、既にどうやって除去するか算段を立て始めている。アミルとて油断する事は出来ない。下手をすれば、この謀略家は帝位を簒奪にかかる可能性すらある。
だが、それぐらいの人間を使いこなせなければ、皇帝になどなることは出来ない。それが、頂点に立つ者の定めである。
アミルは余裕の笑みを浮かべ、側に控えるファリドに話しかける。
「くくっ、女だてらに悪鬼とはな。ファリドよ、先にお株を奪われてしまったようだぞ」
「ははっ。そのノエルという者、確実に我らの脅威となりましょう。先のコインブラでの折、リスティヒ殿を捕らえただけでなく、我が麾下のゲブ、ネッドがこの者に討ち取られております。両者ともかなりの兵でした。噂を信じる訳ではありませんが、油断はできませぬ」
ファリドが眉を顰めて慎重な意見を述べる。自分の力に自信はあるが、敵を侮ることはしない。油断は慢心を生み、敗北をもたらす第一歩だ。徹底的にあの場所で叩き込まれた。
「これはまた恐ろしいこと。ならば、参謀として何とかしなければいけませんねぇ」
「……では、我ら黒陽騎から最精鋭のみを選抜し、ラインを襲撃致しますか? ノエルを追い払うだけならば、そう難しい事ではないかと。少数ならば、敵に疑念を抱かせる恐れもないかと考えます」
「うむ、それも一つの手ではあるな。定石ならば、邪魔な駒はとっとと取り除くに限るが。遊ばせておくと、後々厄介なことになりうる」
アミルが視線を宙に向けて思案し始めると、ミルズが気色悪い笑い声を漏らし始める。
「フフフ、なんのなんの。全くご心配には及びませんよ。このようなときのために、多くの金と長い時間を掛けてコインブラに協力者を作り出したのです。しかも、戦後の栄達の手形まで与えてしまいましたからねぇ。早速ですが、かの将軍殿に動いてもらうとしましょう!」
「ウィルムを使うつもりか? あまり動かすと、流石の兄上も気付くかもしれんぞ」
「承知しておりますとも。ですが、使える者はなんでも使いませんともったいないですからねぇ。バハールが発展した理由は、大量の無駄を、有効な資源へと強引に変えたからです。この方法は、内政だけではなく戦でも通用しますよ」
ミルズが歯を剥き出しにして笑みを浮かべる。柔和な表情は一転して、邪悪な謀略家のそれへと変貌している。この二面性こそが、この男の真骨頂だ。硬軟自在に使い分けるその手法は、アミルのために大いに役立っている。帝位を得た暁には、ミルズを宰相、ファリドを元帥として任命するつもりだ。バハールも手放すつもりはない。代官を置いて直轄支配とし、自分の意志が完全に届くようにするつもりである。バハールの勇敢な兵は、是非とも側に置いておきたい。
「なるほど。確かにお前の言う通りだ。使える者は全て使わねばなるまい。斬り捨てられたとしても、それはそれで構わん。兄上を混乱に陥れることができよう」
「フフ、ありがとうございます。アミル様、私ミルズめに全てお任せを! コインブラの愚かな雌鬼なぞ、紙切れ一枚で取り除いてみせましょう。フフフフ!」
「よし、鬼退治の件はお前に一任する。ウィルムへの指示もお前の好きにするがよい。どのような手段を使うことも許可する。ファリドよ、我らは予定通り兵を進めるぞ」
「御意にございます。フフフ、アミル様の覇道の露払いを勤めることができ、このミルズ、光栄の至り!」
「お任せを!」
ミルズとファリドが頷き、深々と一礼する。それを見たアミルは満足そうに頷いた。
現在、一時的に感想返しを控えております。
どうしてもネタバレになっちゃいそうなので。
誤字脱字はすぐに対応させていただきます。




