第十二話 悪意は巡る
街道上での会戦で勝利したグロールは、軍をそのまま北上させ反乱軍への追撃とロックベル奪還を目論んだ。
既に潰走していた反乱軍は碌な抵抗もできずに敗走し、ロックベルの支配権は呆気ないほど簡単にコインブラへと戻った。
ロックベルの住民から、反乱軍による非道の数々を聞かされたグロールは、全ての捕虜の処刑を命じる。
「例えバハールが裏にいたとはいえ、同胞に対して行なった恐ろしいまでの非道、断じて許してはおけぬ。一切の情けを掛けず、全員撫で斬りとせよ! 逃げた賊どもは、地の果てまで追いかけてでも殺せ!」
「太守、暫しお待ちください。太守のお怒り、心よりお察し致しますが、問答無用の撫で斬りだけはなりませぬ」
文官のペリウスは処置が過剰すぎると諫言する。確かにロックベルで行なわれた行為は万死に値するが、個の事情を考慮せずに撫で斬りにすれば必ず禍根が残る。
「黙れペリウスッ! あの惨状を見て、よくもそのようなことを言えたものよ!」
グロールは腰の剣に手を掛け、罪人を庇い立てする気かと激昂するが、ペリウスは淡々と意見を述べる。
「……では、ロックベルで捕らえた者に関しては、住民から事情を聴取した上で死罪。止むを得ず反乱軍に参加した者については、基本的に助命する方針では如何でしょうか。勿論、個々の所業に応じて兵役を課すなどの罰は与えるべきですが」
「手ぬる過ぎるわッ!! 本来、反乱に参加しただけでも重罪なのだ。ここで甘い処置を行なえば、再び災禍が訪れるわ!」
「恐れながら、それは違いますぞ」
「何が違うと言うのか!」
「反乱に参加した者の殆どは、脅されて強引に参加させられたと証言しております。真に罰すべきは首領のリスティヒと一部の者のみ。それを間違えてはなりませぬ。太守は哀れな者を断罪し、第二、第三の反乱を引き起こすおつもりでしょうか?」
グロールは最後まで渋ったが、ペリウスだけでなく他の文官たちも同じ意見だったため、全員撫で斬りの方針は転換されることになった。
赤輪軍残党に対しては大人しく降伏すれば全員助命すると申し渡し、支配下に落ちていた村々に対しても咎めなしと触れを出した。
最初は騙まし討ちされると疑心暗鬼の者が多かったが、やがて触れが事実というのが分かると、赤輪軍の兵士たちは続々とコインブラ軍に投降していった。首領のリスティヒは捕らえられ、代わりに指揮できる者もいないため、赤輪軍は軍隊としての体制は既に崩壊していたのだ。
殆どの者は助命され無事に村に帰ることを許されたが、例外はあった。ロックベルにて降伏した者たちだ。生き残りの住民は略奪者の顔を忘れることはなく、憎悪を吐き出すかのように捕虜たちの罪状を並べ立てていった。聴取の後、コインブラ州法に乗っ取って略式の裁判が行なわれ、ロックベルで拘束された全ての捕虜に対して同じ判決が申し渡された。――斬首刑だ。
コインブラの天秤旗がはためくロックベルの街を、シンシアとノエルはゆっくりと歩いていた。数名の兵を伴い、残党がまだいないか確認する警戒任務。実際のところは、ノエルが暇だから散歩をしようと提案しただけに過ぎないのだが。
「あーあ、街というよりも廃墟だね。面白そうな物は、何にもないや」
「……苛烈な略奪の後だから仕方あるまい。しかし、惨いものだな。住む場所は違うとはいえ、同胞に対しこれほど残酷なことを行えるとは。私はいまだに信じられん」
シンシアは眉を顰めて瓦礫が散乱する街を見渡す。死体の片付けはまだ完了しておらず、異臭も凄まじい。地面に座り込む女子供の目は虚ろで、男たちの顔には憎悪と悲哀が浮かんでいる。ほんの一週間前までは美しい街だったというのに、今では見る影もない。
「同胞って言ったって、会ったこともなければ喋ったこともない人たちばかりでしょ」
「しかし」
「顔見知りを一人殺すより、見知らぬ他人を百人殺す方が楽だと思うよ。だって、そのうち忘れるし」
「そんなことはない! お前は極論が過ぎる!」
「そうかなぁ。知らない人がどうなったって私はあまり気にならないし、他の人もそうじゃないかな。だから、みんな残酷なことができちゃうんだよ。まぁ、世の中ってそういうものだから、仕方ないよね」
ノエルは穏やかに笑っている。いつもの笑顔に比べて、どこか薄ら寒いものが混じっている。
「な、何が仕方ないものか! このような真似は決して許されることではない! 我々人間は、獣ではないのだ!」
「うん。だからこれから誇り高き人間として、獣たちを処刑するんだよね」
ノエルが軽快に指を鳴らして、これで全てが解決すると頷く。
「……もしかしてだが、お前は罪人を助けたいのか? だから、そのようなことを――」
「ん? 助けたいなんて全然思わないけど」
あっけらかんとノエルは答えた。
罵声と怒声が徐々に大きくなってくる。広場の方からだ。シンシアはそちらに歩を向けると、ノエルものんびりと付いて来る。
広場にはコインブラ兵が数人おり、即席の処刑場が設けられていた。それを取り囲むようにロックベルの住民が立ち並ぶ。彼らは罵声、怒声を延々と反乱軍の捕虜に対して投げつけていた。その中には、ゾイム村にいたクラフトの姿もある。
クラフトはフレッサーと共に本陣奇襲に加わっていたが、敗走した後ロックベルに逃げ込んでいた。乱戦の最中、フレッサーとははぐれてしまったため、どうなったかは分からない。
反乱軍の屍が増えるにつれ、クラフトは迫りくる死に脅えるようになった。血と暴力に酔っていたが、根は小心者なのだ。最後まで戦い続けるなどという気概があるわけもない。ロックベルにコインブラ軍が雪崩こむと、剣を投げ捨て真っ先に降伏したのだった。
シンシアとノエル、付き従う兵たちが人を掻き分けて刑場へと入っていく。ミルトも居心地が悪そうにしながらノエルに付いて行く。
こちらに気付いた衛兵が、背筋を伸ばして敬礼してくる。
「お疲れ様です、シンシア百人長!」
「ああ、ご苦労。我らは現在警戒任務中だ。何か異常はないか?」
「はっ、特にはありません! 捕虜の一部が騒いでいますが、もう間もなく静かになることでしょう」
兵が指し示した方向を見ると、断頭台に罪人が連れてこられるところだった。泣き叫ぶが聞き入れられることもなく、断頭台に拘束され、斧を持った執行人が横に待機する。
「い、嫌だ、助けてくれ! 本当に俺はただの農民なんだ! お願いだから助けてっ!」
『罪人に死をッ!』
『仇を殺せッ!』
住民の怒声が頂点に達したとき、斧は無造作に罪人へと振り下ろされた。首が前に置かれた桶にごろんと転がり落ち、胴体からは血が噴出している。兵がそれを素早く移動させ、次の罪人が連行されてくる。罪人はかなりの大柄で、数人がかりで拘束されている。
「お、おい。ノエル、あれ、クラフトじゃないか? ほら、あのでかい図体と顔つき間違いない!」
ミルトが大声を上げる。それに気付いたクラフトが慈悲を乞う。大声で泣き叫びながら。
「あ、ああ!! ミルトにノエルじゃないかッ! お、お願いだから助けておくれよ! 一生のお願いだよ! このままじゃ、このままじゃ僕、殺されちゃうよ!」
「……ノエル、あれはお前の知り合いなのか?」
「うん、前までは味方だったから一応知ってるよ。ゾイム村のクラフトって言うんだけど。でも、今は敵だからどうでもいいや」
ノエルは特に興味を示すこともなく、淡々と答えた。あまりに冷淡なその口調に、ミルトは思わず怒鳴ってしまう。
「お、おいッ! あいつだって無理矢理反乱軍に参加させられたようなもんじゃないか! シンシア様、なんとかあいつを助けることはできませんか!?」
「……ロックベルでなければ、それもできたのだろうが。この街で捕まえた者だけは容赦無用と太守から厳命されている。残念だが、私の力で助けることはできない。それに、私には住人を説得する術が思いつかないのだ」
シンシアは首を横に振る。下手に助命をしてしまえば、住民の憎悪がコインブラ州に向けられることになるだろう。ならば、残酷なようだがこの街の捕虜には生贄となってもらった方が良い。それに欲望のままに暴行略奪殺戮の限りを尽くしたのは間違いない。同情する気持ちはそれほどない。
「……そんな。な、なぁノエル、本当にあいつを見殺しにするつもりか!?」
「仕方ないんだよミルト。クラフトは自分で選んで負けちゃったんだから。それにこの街の人に酷いことをしたのは事実でしょ。なら、復讐されても仕方ないんじゃないかなぁ」
「し、仕方ないって」
「じゃあさ、ミルトは大事な妹のキャルが、酷い目に遭って殺されても同じことが言えたのかな?」
「そ、それは……」
「ねぇ、同じ事が言えるの? ねぇ」
「…………」
ノエルは笑みを消して、無表情でミルトを見ている。
答えが分かっているのに、敢えて聞くことで自分の発言の場違いさを分からせようとしているのか。それとも特に考えはないのか。シンシアには理解できなかった。だが、言っていることはノエルが正しいと思う。非道を行なうならば、報いを覚悟しなければならない。受けないためには勝ち続けなければならない。だから、敗北したクラフトはその報いをこれから受けるのだ。
「――罪を憎んで人を憎まず、か。どこかの国の凄く良い言葉だけど、実行するのはとても難しいよね。だって、憎まずにはいられないもの」
ノエルはミルトの顔を下から覗き込み、受け売りらしい言葉を告げてくる。
「……悪い、クラフト。お前は、人間として、やっちゃいけないことをしちまったんだ。だから、やっぱり助けられない」
苦虫を噛み潰したような表情で、ミルトは顔を背ける。
「そんな! 嫌だよ、僕は死にたくないよ! た、助けておくれよ!!」
強制的に断頭台に掛けられるクラフト。だが巨体が邪魔して、中々首が嵌らない。更に全力で暴れるので断頭台から頭が外れてしまった。兵と執行人が慌てて全身を押さえつける。
「…………」
「行こう、ノエル。最後まで見る必要はない」
シンシアはノエルを気遣い、場を離れることを提案した。が、ノエルは足を動かそうとしなかった。
「……ねぇ、シンシア」
「なんだ?」
ノエルが、もがくクラフトを無表情で見つめたまま尋ねてくる。
「クラフトは、私が殺してあげてもいいかな」
「……止めておけ。お前が余計な罪を背負う必要はない。かつての仲間を殺すというのは、後々まで堪えるものだ」
「一人増えるくらい何でもないよ。ね、お願い」
ノエルが真剣な口調で頼み込んでくる。宥めても聞きそうな様子は全くない。シンシアは少し躊躇った後、頷いた。
「ありがとう」
ノエルは腰に挿していた鉄槌を取り、ゆっくりと断頭台へと近づいていく。剣ほどの大きさの鉄槌は、それなりの重さである。それを軽く一回転させた後、強く握り締める。
「ね、ちょっとどいてくれる?」
「な、何だお前は!」
「私はノエル十人長。ほら、これが階級証だよ」
「し、失礼しました! こいつは直ぐに大人しくさせますので、もう暫くお待ちを!」
「後は私がやるから。ちょっとどいてて」
「そういう訳には――」
「シンシア百人長の許可は貰ったよ。だから、ね?」
強引に兵たちをどかせると、拘束から解放されたクラフトがノエルの足元に駆け寄ってくる。
「助けてよノエル。僕は死にたくない、死にたくないんだよ!」
「うん、今助けてあげる。ほら、顔を上げて私の目を見て」
涙でぐしゃぐしゃのクラフトが顔を上げる。太陽の陽射しが目に入り、ノエルの顔は良く見えない。頬を冷たい掌でそっと撫でられた。冷たくて、冷たくて、心地よい。興奮状態にあったクラフトの精神が落ち着いていく。先程あれほど聞こえていた殺意の喧騒がまるで聞こえない。今聞こえるのは、自分の呼吸とノエルの声だけだ。
頬に当てられたノエルの左手を両手で握り、
「ううっ、ありがとう、本当にありがとうノエル。どうして僕はあんな酷いことを。きっと、あの時の僕はどうかしてたんだ」
「もう大丈夫だよ、すぐに怖くなくなるから。……ね、クラフト。次は、ずっと味方のままでいられるといいね」
「――ノエル?」
「ばいばい」
陽射しの中に、ノエルの優しげな顔が浮かぶ。それが、クラフトが見た最期の光景だった。
ノエルの後ろ手で握られていた鉄槌が、クラフトの頭に振り下ろされた。ぐしゃっという音と同時に、果実がはじけるように脳漿が飛び散る。それを間近で浴びたノエルは赤い液体と欠片で染め上げられた。
その凄惨な姿に、殺気立っていた住民も思わず息を呑む。喧騒が止み、場に張り詰めた静寂が訪れる。
それをつまらなそうに一瞥すると、ノエルはシンシアの下へと戻っていく。
「ありがとう、シンシア。あはは、ちょっと、甘かったかな?」
「……お前は、本当に、変わっているな」
“本当に狂っている”と言いそうになり、シンシアは慌てて言葉を変える。手拭でノエルの顔を拭いてやった後、兵たちに合図してその場を立ち去る。まだまだ罪人は残っている。もう暫くもすれば再び喧騒が轟くことだろう。そうなる前に立ち去りたい。これ以上あのような場面を見せられては、精神がもたないとシンシアは思った。
「なぁ」
「どうかしたの、ミルト」
「……もし、あそこにいたのが俺でも、お前は容赦なく頭を叩き潰してたのか?」
ミルトが震える声で問いかける。クラフトの死に衝撃を受けているようだ。身近な人間の死など、この青年には初めてのことだろう。
「そんなことしないよ。だって、ミルトは仲間だから」
「……どういうことだ」
「私は仲間を絶対に見捨てない。だから、死ぬ気で助けたと思う。うん、絶対に助けようとした。でも、クラフトは敵だったから。敵を助ける必要は、ないよね」
「…………」
ノエルは何を当たり前のことをと言わんばかりに答える。
ミルトには割り切ることができないのだろう。人間、ましてや顔見知りを躊躇なく殺すことなどできる方がおかしいと強く思っているのだ。
「ああ、そういえば。ミルトもこれで分かったでしょ?」
「……何がだ?」
「幸せになれないとどうなるか。ああなりなくたいから、私は幸せになる方法を探してるんだ。だからさ、ミルトも一緒に探そうよ」
――ノエルは微笑んでいる。
なるほどとシンシアは思った。ノエルが幸せに拘る理由が少し分かった気がした。この少女は、幸せが何か分からない。だから、幸せになる方法を探すことに執着する。そして幸せになれないというのは、無残な死と同義なのだろう。故に幸せに拘り続ける。幸せが何か分かりもしないのに、探し続ける。
思わず哀れみを覚えてしまいそうになるが、それは自分も同じだとシンシアは自嘲する。貴族としての名誉を守るために騎士となり、女だてらに剣を取る。太守への忠誠は勿論あるつもりだが、根底にあるのは己の自尊心を守るということだ。実に薄っぺらい動機。名誉、誇りなどという形のないものに拘る自分。ノエルと大した違いはない。
(……似たもの同士と思ったが、ノエルの方が私よりも上だな。私はこの少女に敗れたのだから)
ノエルがどうかしたのと覗き込んできたので、なんでもないと愛想笑いを浮かべる。
先程処刑されたクラフトの顔が、何故だか頭に浮かんだ。幸せになれないとこうなるとノエルは言っていたが、あの青年は最後の最後に救われたのではないだろうか。少なくとも、苦しみの内に死ぬことはなかった。この世界で、安心の内に死ねるというのは、実に幸せなことではないかと、シンシアは思ったのだ。
ロックベルに守備兵を残し、グロールはコインブラ州都へと帰還した。一時は窮地に追い込まれたものの、無事反乱軍を殲滅し、首領格のリスティヒの生け捕りまで成功したのだ。これ以上ないほどの勝利といえる。
グロールは太守に就任して以来、一番と言って良いほど機嫌が良かった。すぐさま家臣たちを招集し、今回の鎮圧戦の論功行賞を執り行うことにした。反乱鎮圧の功を大々的に称えるというのは本来は異例ではあるが、裏にバハールがいるということを強調する狙いもある。策謀を見事に打ち破ったと、各州太守と父である皇帝ベフナムに強く訴えるのだ。アミルの非を訴える使者を、既に各地に派遣している。次はこちらの番だと、グロールは強く意気込んでいた。窮地を脱した今、次期皇帝の地位を奪還するのも夢ではなくなったからだ。
論功行賞では反乱軍を潰走に追い込んだウィルム、そして各指揮官たちの功が評され、グロール直々に褒美と感状が与えられていく。
普段はこういった評定に参加を許されないシンシアとノエルも、今回はこの場にいることができた。グロールから名指しでの招きを請けての登城だ。シンシアは再び身体を緊張させ、顔を強張らせていた。ノエルは頭が良さそうに見えるお気に入りの眼鏡を掛けている。
「百人長シンシア・エードリッヒ。命令に違反し持ち場を離れたのは事実だが、お前が駆けつけてくれなければ私の命はなかったかもしれん。心より礼を述べると同時に、その働きを褒め称える」
「は、はい。あ、ありがたき、幸せにございます!」
「亡き父に恥じぬ働きであった。今回の功を評し、上級百人長の地位を与える。そしてコインブラ銀冠勲章も授ける。今後も私、そしてコインブラのために働いてくれ」
近衛兵から階級証と天秤と冠が刻まれた勲章がシンシアに恭しく手渡される。シンシアはぎこちない動作でそれを受け取り、顔を紅潮させて敬礼した。
「こ、これからも太守、そして、コインブラのために全身全霊で働くことを、ち、誓います!!」
「うむ。そして、もう一人今回の鎮圧戦でかつてない働きをした者がいる。――十人長ノエル、こちらに来るが良い」
グロールが手招きすると、ウィルムが顔を顰めて諫言する。
「恐れながら。かの者の素性は不明です。あまりに無警戒なのはいかがなものかと」
「ハハハッ、またウィルムの心配性がでたか。我が首を狙うのであれば、あの時をおいて他にはあるまい! ノエルよ、遠慮せずに参れ!」
笑いながらグロールは催促する。玉座の隣には息子のエルガーが控えており、どことなく落ち着きのない素振りでノエルを眺めている。
ノエルは小さく手を振って合図をすると、エルガーは口元を綻ばせる。眼鏡を掛けているノエルは全くの別人に見えてしまうので、間違いなく本人だと分かり少し安堵していた。
ノエルはゆっくりと歩き、グロールの前へとつくと大人しく跪く。シンシアはひどく心配そうな視線でそれを見やる。遠慮のない性格なため、何をしでかすか分からない不安がある。太守に非礼でも働けば、一発で死罪もありうる。最後まで大人しくしていろと、祈る他なかった。
「最初はただの文官にしか見えなかったが、まさかあれほどの武を備えていようとは。我が軍でも一、二を争う剛勇の持ち主であろうな。実に恐れ入ったぞ」
あまり家臣を褒めることをしないグロールが、珍しく持ち上げている。それに驚いた家臣たちが思わずざわめく。グロールは直ぐに感情を露わにする気分屋で、愚痴や不満をそのまま口に出す欠点がある。育ちの良さから人を認めることができず、自分は優秀であるという驕りが全身から溢れているのだ。物事が順調にいっているときはそれは人を惹き付ける力となるが、一度躓けば傲岸不遜としか思われない。故にグロールは家臣たちからの信望を殆ど失いかけていた。
そのグロールが手放しで称賛する少女――ノエル十人長に視線が集中する。
「この者は単騎で敵の先手隊長を討ち取り敵騎兵隊を壊乱させた。それだけではなく、忌むべき賊将リスティヒを生け捕って見せたのだ。私はその光景をこの眼でしかと見届けた。そなたの武勇、並の物ではないと私が保証する」
「ありがとうございます。お褒めの言葉を頂き、身に余る光栄です」
ノエルが跪いたままそれに応じて感謝の言葉を述べる。
「聞けば、サーラやエルガーを助け出した際もそなたの尽力があったとのこと。今回の件と合わせればその功は多大な物となろう。……そなたさえ良ければ、騎士としてこのコインブラに仕えぬか? 地位は百人長を用意している」
グロールの言葉に、場が騒然となる。どこの馬の骨とも知れぬ少女に、百人長、そして騎士の地位を与えるなど異例中の異例だ。若さだけならばシンシアも該当するが、それは父の後を継ぐという名目があった。ノエルには何の後ろ盾もないどころか、仕えてからまだ一ヶ月も経っていないのだ。
「お言葉ながら、いきなりの昇進は軍の秩序が乱れる原因となりますぞ。しかも騎士の地位を与えるとは些か乱暴が過ぎます。ノエル十人長には今しばらく経験を積ませた方が宜しいかと」
文官が諫言するが、グロールは一蹴する。
「くだらん。今必要なのは秩序ではなく能力だ。この者が持つ優れた武力を、私は欲しているのだ。――どうだノエル、悪い話ではないと思うが」
ノエルは顔を上げ暫く考えた後、頷いた。
「喜んでお受けいたします」
「そうか、仕えてくれるか! ならば、百人長の階級証と、銀冠勲章を受け取るが良い」
「はっ」
「それと、騎士になると姓を持つことが許される。何か良い案はあるか? なければ考える時間を与えるが」
「ヴォスハイト。ノエル・ヴォスハイトを名乗りたいと思います」
ノエルは特に考え込む様子を見せずに思いついた名を述べる。
「……騎士ノエル・ヴォスハイトか。中々趣のある良い姓だ。よし、後程叙勲式を執り行う故、詳しいことはシンシアに聞いておくが良い。今後の働きに期待している」
「はっ、ありがとうございます!」
ノエルは立ち上がり颯爽と敬礼した後、シンシアの隣へと戻っていく。きびきびと歩くその姿は、やはり別人のようでシンシアは首を傾げる他ない。もしかしたらこちらが本性で、いつもはからかわれているのではないかという疑念も浮かんでいた。それならば敵の策を読みきったのも頷ける。今度、もっと確かめてみようとシンシアは決意する。
「――以上で論功行賞を終了する! 捕らえたリスティヒは、今回の陰謀について洗いざらい喋った故、バハールとの交渉次第では即座に処刑する。先に言っておくが、これから数カ月以内に、我らの運命は大きく変わることになるだろう」
「太守、それは一体どういうことでしょうか」
顔を強張らせながら、文官の一人が問い質す。答えは分かっているが、確認せざるを得なかったのだ。
「知れたこと。バハールが己の非を認めればそれで良し。それが成らぬ場合は、アミルめに裁きの鉄槌を下さねばなるまいッ!」
いくらリスティヒという確固たる証拠があるとはいえ、バハールが知らぬ存ぜぬで押し通せばそれ以上はどうにもならない。皇帝や各州の太守に対しての喧伝はアミルの名声を多少落す効果はあるだろうがそれだけだ。だが、グロールはその程度で収めるつもりは毛頭ない。名声や誇りだけではなく自分や妻子の命まで狙われたのだ。その代償を支払わせてやらねばならぬと既に決意を固めている。
――そう、バハールとの戦だ。ただの小競り合いなどではなく、次期皇帝の地位を争う苛烈なものとなるはずだ。勝者は皇帝の地位を掴み、敗者は破滅する。
父のベフナムはおそらく大勢が決するまで介入してくることはない。ベフナムは間違いなく反乱の裏にバハールがいたということを知っている。黙認したのも、政敵排除のための策だと分かっていたからだろう。しかし今回の反乱失敗でアミルへの信頼は多少損なわれたはず。ベフナムがアミルを可愛がっていたのは事実だが、それは優秀と見込んでいるからだ。だがグロールもコインブラ統治に失敗するまでは寵愛を受けていたのだ。
つまり、グロールがアミルより優れていると示せば、次期皇帝の地位を奪うことができる。息子の一人が死のうと、ホルシード帝国さえ安泰ならばベフナムは満足なのだ。今までの経験から、グロールはそれを嫌というほど分からされていた。
「た、太守! 滅多なことは申されますな! バハール公とて我らと同じ帝国の臣、同胞なのですぞ! それに刃を向けるなど――」
「同じ帝国の臣、同胞だと? あやつの策謀で何人の民が犠牲になったと思っているのだ! あの愚か者に思い知らせてやらねば気が済まぬ! 良いかッ、あらゆる事態を想定して鍛錬に励むのだ! 我がコインブラが弱兵だというのは既に昔の話なのだからな!」
「しょ、承知しました!」
「今日はこれにて解散とする!」
グロールは立ち上がり怒声を飛ばすと、家臣たちはそれぞれに異なる表情を浮かべて敬礼を行った。
興奮で顔を紅潮させる者、顔を真っ青にする者、口元を歪めて何かを企む者、緊張で失神しそうなシンシア。
そしてノエルは――。話の長さに耐えられず、大きな欠伸をしたために涙目だった。幸いシンシア以外には見られなかったので、騎士の話が立ち消える事態だけは避けられた。代わりに拳骨が飛んできたが。ノエルは痛みを堪えながら、目を覚ましてくれてありがとうと、誤魔化しの笑みを浮かべた。
「この馬鹿者がッ! あのような場で欠伸をする奴がどこにいる!」
「緊張を解きほぐすために止むを得ず。考え抜いた結果、断腸の思いで欠伸をしました。シンシア様、どうか私をお許し下さい」
真面目ぶった顔で深刻そうな声を絞り出すノエル。初対面ならば確実に騙されるであろう演技ぶりだ。
「嘘をつくのと、心の篭っていない謝罪はやめろ!」
「ごめんなさい」
ノエルは素早く謝った。拳骨がとんできそうだったからだ。
「……しかし、確かに武は優れたものがあるとはいえ、お前が騎士でしかも百人長とは。本当に――」
「世も末だよね」
鋭い拳骨がノエルの頭に飛んできた。頭を抑えてうずくまるノエル。
「いいか、騎士ノエルよ。お前は百人長として兵を率いることになるんだ。威厳というものを身につけ、規律を重んじるということを胸に刻み込め!」
「すごく良く分かった!」
立ち上がったノエルは大げさに頷くと、先程もらったばかりの階級証と勲章を胸元にくっつける。キラキラと輝いて格好良い。得意気に胸を張って見せると、こめかみに青筋を浮かべたシンシアと目が合った。
「……よほど気に入ったようだが、私は上級百人長なのだ。つまり、私のいうことは、まだまだ守らなければならないということだ!」
「うん、心の底から分かった!」
全然分かっていないではないかとシンシアが溜息を吐いている。ノエルは優しく背中を叩いた後、鼻歌交じりに歩き出した。
「ところで、先程すんなりと姓を決めたようだが。ヴォスハイトという姓に、何か思い入れでもあるのか?」
「ううん、別に。でも他に思いつかなかったからこれで良いかなって。ね、エードリッヒ卿」
「……背中がむず痒くなるからシンシアで良い。卿づけするのもやめろ」
「そっか。うん、そうだね。シンシアはシンシアの方がいいもんね」
ノエルは子供のように邪気のない笑みを浮かべた。
シンシアと共に城の外へと出る。太陽の光を浴びて新品の勲章がキラリと輝く。満足気に頷くと、ノエルは早足で駆け始める。
先程のシンシアの問いだが、本当は少しだけ考えて決めた名前だ。話しても笑われるか呆れられそうだったので思わず誤魔化してしまったが。そう、ヴォスハイトという姓をつけることで、自分の名前に“意味”を持たせたかった。良い名前のノエルと、悪い名前のヴォスハイト。――眩しい陽射しの裏には、必ず影が生じる。太陽が作り出す光と影、両方を合わせた名前にしてみたくなったのだ。
ノエルという名前は、絵本に出てきたヘンテコな猫からとったもの。ノエルがとっても気に入っている名前だ。普段呼ばれるのはこちらが良い。
そして“ヴォスハイト”というのは、ノエルの二又の槍に刻まれていた文字だ。血のような赤色で柄に記されたそれは、洗い流そうとしても全く落ちない。どういう意味なのかは分からないが、あまり良いものではないとノエルは思っている。あの槍は宝物の一つではあるが、間違いなく奇跡の品などでない。むしろ、呪われた武器と考えたほうがしっくりくる。
ノエル以外の者が触ると火傷をするし、たまに力を吸い取られているような気さえ覚える。それに、雨の日の夜などは槍から何かが聞こえてくる気がする。どことなく懐かしい声に思わず引き込まれそうになるので、そういう時のノエルはとっとと寝てしまう。それらさえ我慢すれば火は出るし、錆びないし、格好良いし、手に馴染むのでとても良い。どうせ一生付き合うことになるのだから、この意味の分からない不吉な文字を姓にするのも良いかなと考えただけのことだった。
「自分だけの名前か。皆も欲しかっただろうな」
本音を言えば、番号以外なら別になんでも良かった。姓が何であろうと、今の自分にはノエルという名前があるのだから。
そして、ノエルは皆の分まで頑張らなくてはいけない。頑張って頑張って、最後まで頑張りぬかなければならない。ずっと前から、そう決めている。
ノエル・ヴォスハイト百人長
結構偉いです。自分だけの直参兵をもてるようになります。
自分の俸給で面倒を見なければならないので、雇いすぎに気をつけましょう。