第十一話 はじけた赤い輪
グロール自らが指揮するコインブラ軍は、迫り来る反乱軍を迎え撃つためにカナン街道を北上した。
州都へと続くカナン街道の殆どは見晴らしの良い平野部で、東側はなだらかな丘陵地帯となっている。険しい山岳地帯となるのは、ロックベルの街を越えてからだ。
斥候からの報告では、反乱軍は隊列を組むこともなく好き好きに進軍を続けているらしい。略奪に味を占めたのか意気軒昂で殺気立っていると。グロールは降伏勧告を行うことを即座に断念した。
「やはり、戦場となるのは街道中程の、この辺りでしょうな。人数、装備は我らが優位、ここは慌てず、じっくりと攻めてはいかがでしょうか。ゆるやかに包囲し、敵の瓦解を待つのです。さすれば、大した損害もなく我らは勝利を得ることができるかと」
卓上に広がる地図を見やりながら、ウィルムが提案する。敵は装備も整っておらず、碌な訓練も受けていない者ばかり。包囲して徹底的に弓射で追い立てるだけで勝利は転がり込んでくるだろう。ウィルムとしてはグロールには更に失点を重ねてもらいたかったのだが、州都マドレスまで反乱軍に好き勝手やらせるつもりはない。どういった事情かは分からないがここは食い止めなければならない。反乱が起きた事実だけでも、グロールを失脚させるには十分だろう。
(確か、反乱軍を率いているのはリスティヒとかいう将だったか。功を焦ってマドレスまで己が手中にしようとしているのだろうが、流石にそこまでは見過ごせぬわ。アミル様に誼を通じているとはいえ、私はコインブラ人なのだ)
「それでは手ぬるすぎるッ! 当初の予定通り鶴翼陣形を敷き、一気呵成に虫けらを攻め潰すぞ! バハールに騙されたとはいえ、同胞を殺戮するような者は絶対に許さぬ!」
「しかしながら、無駄に強攻して兵を損耗する必要もありますまい」
「このような非常時のために兵を抱え調練を重ねているのだろう。今血を流さずにいつ流すというのか!」
グロールが顔を赤くして吠える。結局、コインブラ北部からの召集は芳しく進まず、南部を中心とした兵で構成された。その数は八千人。全兵力で完膚なきまでに叩き潰そうとしていたのに、思惑が外れて苛立っていた。
「……それでは、短期で決着をつける方針に変更はない、ということでよろしいですな?」
「そういうことだ。ウィルム、お前は中央で待機し、勝機と見たら一気に兵を進めよ。お前の攻撃を合図として全部隊を突撃させる。後退は許可せぬものと心得よ!」
「はっ、お任せくださいッ!」
ウィルムは敬礼し、天幕を退出する。外で待機していた息子のロイエ、娘のリグレットが近づいてくる。両名ともコインブラ軍人で、若くしてそれなりの地位についている。ウィルムは特にロイエに目をかけ、将来に期待していた。文武に優れ、兵からの信頼も篤い。将として必要な素質を全て備えている。後は経験を積めば、自らの後継者としては文句のつけようがないだろう。
一方、リグレットについては政略結婚の駒にでもできれば十分だと考えている。ロイエと違い武人としての才能が全く感じられない。幼少時から病弱で、顔はひどく青白い。常に眼鏡を掛け、剣もまともに握ることができない程の脆弱ぶり。グランブル家の名がなければ、軍に入ることはできなかっただろう。友の忘れ形見のシンシアが実の娘ならばと何度も思ってしまったほどだ。
なにより、リグレットの陰気な性質、視線、仕草が身内だというのに癇に障って仕方がない。陰湿な謀略家でもある自分の一面を、そのまま具現化したような存在だ。汚い部分を直視させられているようで、視界に入るだけで苛々とさせられる。
はっきり言って、娘でなければ確実に排除している。
「――父上、軍議はいかがなりましたか」
「ロイエか。やはり太守は短期決戦を挑まれる。方針に変更はない」
「私には理解できませんね。はっきり言って、包囲しているだけで勝てる戦いではないでしょうか。余計な損耗を招く必要はないと思いますが」
ロイエの言葉にウィルムも頷く。
「お前の言う通りだ。だが太守にも面子があるのだろう。賊相手に怖気づいていると、世間で悪評が立つのを心から恐れておられるのだ」
「むざむざと反乱を起されておいて、今更悪評も何もありますまい。これ以上何か失う物がありましたかな」
ロイエが薄く笑う。グロールを失脚させると言う方針についてはロイエには説明済みだ。
「ふん、全くもってお前の言う通りだ。だが、戦いとなれば油断をすれば命を落す。絶対に気を抜くな。こんなつまらぬ戦いで死ぬことは許さん」
「はっ、分かっております」
「……承知いたしました」
ロイエに続いて、リグレットも敬礼する。
「リグレット、お前には言っておらぬ」
「……それは、どういうことでしょうか?」
「知れたこと。お前の生死なぞ、私は全く興味がない。たまにはグランブル家に恥じぬ戦いぶりを見せてみろ。女とはいえ、貴様も武人の端くれであろうが。全く、シンシア百人長を少しは見習ったらどうだ」
ウィルムが鼻を鳴らすと、リグレットが顔を顰める。それがまた苛々を増長させる結果となる。本人は表情に出していないつもりなのだろうが、不満だというのがありありと分かる。ロイエが武人らしい陽の気質だとすれば、リグレットは陰の性質。これで本当に血の繋がった娘なのかと、ウィルムは本気で悩んだことすらある。
「……ご命令とあらば、私が先陣を勤めさせていただきます」
「できぬことを口に出すのは止めておけ。剣も碌に握れない人間が前線に出たところで無駄死にするだけだ。お前は弓隊を率いて、援護する振りをしていれば良い。我がグランブル家の名に泥を塗る様な真似だけはするな。その時は身内といえども斬り捨てる」
「…………」
「何か言いたい事があるのか?」
「……いえ、分かりました」
リグレットは頷くが、口元が引き攣っている。恐らく“だったら最初から余計なことを言うな”といったようなことを考えているのだろう。
この娘は不平不満がすぐに顔に表れるのだ。酷いときはあからさまに舌打ちまでしてみせる。それらの仕草が、ウィルムを心底より不快にさせる。
横っ面を全力で殴打したくなる衝動を堪え、ウィルムは話題を変える。
「ところで、私が命じておいた件は、しっかりと手配したのだろうな」
「……お父様のご命令通りに。サーラ様を始め、誰かに疑われることもありませんでした」
「ふん、ならば良い」
「……あの医者は――」
「お前が知る必要は全くない。詮索も許さん。大人しく私の指示に従っておけ」
ウィルムはロイエを連れて、そのまま自らの隊へと足を向ける。リグレットは口惜しそうに立ち尽くしたままだ。これ以上話していると本当に殴りたくなるので、さっさと視界から外すことにした。
リグレットに手配させたのは、負傷したグロールの妻サーラに、ウィルムの息が掛かった医者を近づけさせるというもの。情報収集や、いざというときの強行手段にも用いることができる。
今後どうなるかは分からないが、布石を打っておくに越したことはない。
「ところで父上。賊は本当に何の考えもなしに攻め寄せてくるのでしょうか。人数で劣っているのは、連中も分かっているはずでは」
「それは当然だ」
「ならば、連中が取りうる策は一つです。念のために、予め付近を調査させておりました。これをご覧ください」
「…………見せてみろ」
ロイエの地図を取り上げ、自分ならばどうするか、考えを素早く巡らせていく。自分が敵将リスティヒならばどうするか。率いているのは、他国の民間人。当てにできるのはバハールから連れて来た兵と傭兵ぐらいのものか。その手勢で、劣勢をどう覆すか。調略をしようにも、反乱軍に寝返る軍人や領主はまずいないだろう。
「一か八かの奇襲しかないな。太守を討ち取れば指揮は大いに乱れ、上手くいけば潰走に追い込める。博打になるだろうが、成功する可能性は高い。悲しいことに、今の我が軍には非常に効果的だ」
ウィルムは皮肉を篭めて吐き捨てる。
「我らが持久戦法を取らないと、敵将リスティヒは判っていたのでしょう。そこまで太守の気性を見抜いているとしたら、必ず奇襲を仕掛けてきます。後は、我らがどう対応するかで決まります」
言葉を濁しつつ、ロイエが問いかけるような視線を向けてくる。
前面に現れるのは、民間人を主体とした反乱軍。人数的には主力だが、これは囮のようなもの。すぐに反乱軍は劣勢となる。グロールは全面攻勢の命令を下し、両翼、更に中央は突撃を開始する。敵将リスティヒはここまでは読んでいるだろう。
ウィルムは東部に広がる丘陵を見上げる。あの地点ならば街道を一望できることだろう。そこに少数の精兵を潜ませておいたとしたら。
「……この件は誰にも口外するな。よいな、ロイエよ」
「はっ、無論です」
「ふん」
ウィルムは地図を折り畳み、懐にしまう。一度の敗戦ならば立て直しは利くだろう。自分の隊が健在ならば、なんとでもなる。当初の予定とは異なるが、結果が同じになればどうでも良い。
リスティヒの思惑はグロールの首だけではなく、州都の陥落のようだが、それは絶対に認められない。グロール排除で留まらないようならば、ウィルムが兵を再編して壊滅させるまでだ。相手も無傷には終わらないのだから、十分に可能である。
(……命を取るまでは及ばぬと思っていたが、そうはいかぬらしい。太守、貴方は実についていない。だがそれも身から出た錆、報いは受けられるが良いでしょう。コインブラの未来は我等にお任せあれ)
――カナン街道平野部。雲ひとつない青天の下、反乱軍が先手を打つ形で戦いは始まった。
隊列もなく横に広がる反乱軍は、自然中央が突出する隊形となる。コインブラ軍は予定通り両翼が広がり迎え撃つ。当初は勢いに勝っていた反乱軍だが、大した抵抗のなかったロックベルとは異なる。蹂躙する戦いしか経験がないため、一気に押し破れなかった場合、次に打つ手は何もない。徐々にだが人数に勝るコインブラ軍が押し始めていく。
右翼後詰に配置されたシンシアは、遠眼鏡で戦況を確認する。序列的には新参に位置するシンシアは、最前線を希望したが許される事なく最後尾にて待機を命じられてしまった。初陣に近いこの戦いで何としても功を稼ごうと意気込んでいたのだが、それが叶うことはなさそうだった。
「うむむ。このままでは何の戦功もなく戦いが終わってしまうではないか。……どうしたものか」
シンシアは唸りながら馬上で腕組みをする。はっきり言って、既に戦いの行方は見えている。前面の敵は既に及び腰。後一撃すれば潰走に追い込めそうだ。そう、中央で控えているウィルム本隊。これが攻撃を開始すれば、両翼は突撃を開始する。当然シンシアもそれに従うが、この後詰という位置からでは到底間に合わない。
(抜け駆けしてでも少し隊を進めるか。多少の移動ぐらいならば咎められることもないはず)
命令違反は重罪だが、功を挙げれば許されるという不文律はどの州にも存在する。伝記に残るような偉人でも、命令違反を犯して大功を挙げた人物は多い。多少の危険を犯さなければ、若輩が功を挙げることは難しい。
「よし」
シンシアが唇を噛み締め、剣を握り締める。そして、覚悟を決めて命令を下そうとした瞬間、マントを掴まれて馬上から引き摺り下ろされる。
「――ぐえっ」
背中が地面に打ちつけられる。鎧を着ていたため怪我はないがその分衝撃は大きい。顔を顰めた後、怒りが沸々と湧き上がってくる。慌てて立ち上がり、無礼を働いた人間を一喝する。
「なにをするのかッ!」
「ね、今命令に違反しようとしてたでしょ。こんな場所じゃ手柄を立てられないって。まーた顔に出てたよ」
「ば、ば、ばばば、馬鹿なことを」
「動揺してるみたいだけど」
「……ゴホン、戯けたことを言うな! この私が命令に違反するなど有り得ぬ! それより、お前は自分が何をしたのか分かっているのか!」
シンシアを引き摺り下ろした張本人、のほほんとした顔のノエルの胸元を掴み上げる。階級、指揮官としての面子がある。個人的な場面でならともかく、今はそのままにはしておけない。罰を与えねばならなかった。
「シンシア隊長、殴るのはもう少しお待ち下さい。ね、どうせ命令違反で何かするなら、もっと大手柄を立てようよ。その方が楽しいし皆を驚かせられるよ」
ノエルは鞄から布陣図をとりだし、得意気に見せ付けてくる。これは非常に重要な情報で、シンシアすら持っていないものだ。十人長に過ぎないノエルがどこで入手したのかは分からない。話だけはとりあえず聞いてやろうと、力を緩めてノエルを解放する。
「そんなもの、一体どこで手に入れたんだ」
「へへ、さっき私が描いたんだよ。実物でやるのは初めてだったけど、結構上手くできたかな。指揮官の名前までは知らないし分からないから、そこらへんは適当だけどね」
布陣図には見知った名前のほかに、ポチ隊やらタマ隊など明らかに適当だと思われるものが記されている。どうにも信じ難いが、これはノエルが書いたものに間違いないらしい。
ノエルは片目を瞑って得意気に親指を立てると、再び説明を始める。その様子には緊張感の欠片もない。
「今の私たちがいるのはこの右翼後詰で、敵の本隊はここだね。それで、勝負を決めるためにウィルム将軍の本隊がこれから前に出る。だから、シンシア隊長は大攻勢に間に合うように前に出たかったんだよね。ここからじゃ敵の本隊に届かないから」
「……う、うむ、ま、まぁ、それに近いような、そうでもないような、うん、まぁ過ぎたことはいいではないか」
図星を突かれてシンシアは口ごもる。功を挙げたかったので前に出ようとしていたとは素直に言い難い。
「さーてここで問題です。どうして敵は何も考えずに、ここで戦うことにしたのかな。真正面から戦えば絶対に勝てないよね。人数も装備も違うんだから。サルでも分かるよ」
「勝てないと分かっていても、やらねばならぬ時はある。彼らからすればそれが今なのだろう」
劣勢でも退けない場面はある。たとえ反乱軍が十万の大軍だったとしても、シンシアは最後までコインブラのために戦う。敵も同じなのかもしれない。
「シンシアらしい立派な意見だね。でも、皆そんな人ばっかりじゃないよ。世の中には、相手の弱みを突こうと考えてる人が多いから」
何事にも裏がある。ノエルはそう言って、ある地点を指差す。先日、ノエルたちが反乱軍に出会ったという丘陵のある地点だ。
「……その場所がなんだと言うのだ」
「うん、この前フレッサーたち――敵の斥候と会ったんだけど。なんでここにいたのかなぁって、ゆっくり考えてみたんだけど。村の襲撃が目当てじゃないなら、多分下調べだったのかなって。来るべき本番のためのね」
「来るべき本番とは、何のことだ? ああ、実に回りくどい!! いいからさっさと結論を言え!」
もったいぶったノエルに我慢できず、答えを言うように催促する。
「太守やウィルム将軍が気付いているかは知らないけど、全軍が突撃したと同時に、この辺りからうちの本陣に敵が雪崩れ込むんじゃないかなぁ。そうなったら多分止められないね」
「――な、なんだと?」
「私ならそうするかな。斬りこんで太守を殺せば皆動揺するだろうし。寡兵で勝ちを狙うなら、大将を真っ先に狙うのは当然だよね」
ノエルは腰に付けていた短刀を、布陣図の本陣へと突き刺した。短刀はグロールのいる本陣に深々と突き立っている。
「し、しかし、それは考えすぎではないのか? 敵に別働隊を編成するほどの余裕があるとは思えないが」
敵とはいえ、所詮は賊の寄せ集めに過ぎない。策があるとはとても思えない。念のために斥候を出してみてもよいが、戻ってくるまでには大攻勢は始まってしまう。
「そっか。うん、そうかもね。じゃあ私の考えすぎだったってことで」
あっさりと納得して布陣図をしまおうとするノエル。思わず拍子抜けしたシンシアは、話を広げろと文句を付ける。
「……おい、自分から言い出したくせに簡単に引き下がるな。……そうだな、もしその凶行を防ぐとしたら、どうすれば良いと思う?」
「えっとね、隊を転進して、丘陵下の茂みに移動するの。敵の横っ腹を突く形になれば、奇襲の勢いを殺すことができる。後は応援を待ってれば本陣は無事だね」
「…………」
「決めるのはシンシア隊長に任せるね。まぁ、私はどっちでもいいや」
言いたいことは言ったとばかりに、ノエルは欠伸をしながら両腕を天に伸ばした。日光を全身で浴びてとても気持ちが良さそうだ。
(よくよく考えれば、ノエルの言うことも一理ある。だが考えすぎならば、ただの命令違反で終わってしまう)
東部の丘陵を睨みつける。敵の気配は全く感じられない。だが、全軍が突撃した瞬間に姿を現すかのようにも思える。敵の将がバハール人ということは、騎兵の可能性が高い。襲撃された後に引き返しても、間に合うとはとても思えない。
上官の千人長に報告しても良いが、一蹴されるのは間違いない。既に突撃準備に備えて意気を上げているのだから。
「どうする、どうする。ああ、私はどうすれば良いのだ!」
「ね、心の声が外に出てるよ。やっぱりシンシアは面白いね」
「うるさい!」
「今日は良い天気だし。どっちを選んでも多分死ぬことはないよ。うん、多分なんとかなる」
根拠のない意見を述べると、ノエルは色気のある敬礼をしてみせた。
カナン街道東部の丘陵。身を隠していたリスティヒの別働隊が馬に跨り息を潜めていた。
予定通り、敵と正面からぶつかりあった本隊は散々たる有様だ。だがそれも計画通り。グロールは必ず餌に喰らいつくと思っていた。そして伏兵に気付いたウィルムが敢えて気付かない振りをすることもだ。
高らかに角笛が鳴り響き、激しく太鼓や鐘が打ち鳴らされる。コインブラ中央に控えていたウィルムの本隊が前面に出始めたのだ。それに従うように両翼が意気揚々と突撃を開始する。勢いを増したコインブラ軍を止めることなど雑兵にできるわけもない。赤輪軍の屍は増えていき一挙に劣勢となった。もう間もなく総崩れとなるだろう。
リスティヒは頷く。今こそが好機だと。
「よし、我が策は成ったぞ! 見ろ、コインブラの主力は見事に釣り出され、肝心要の本陣は手薄極まりない! 愚かなグロールを討ち取る、最大の好機が訪れたぞ!」
リスティヒが告げると、騎兵たちは気勢を上げる。赤輪の軍旗が掲げられる。今はただの象徴に過ぎないが、リスティヒがコインブラを落せば新しい州旗となるかもしれない。グロールさえ殺せば任務は終了。後はアミルに引き継げば次の太守の地位も得られるだろう。悪政に苦しむ民の代弁者、無能なグロールを誅した英雄にリスティヒはなる。
ゲブが無精髭を撫でながら歯を剥きだす。
「ここまで読み通りになるとは思いませんでしたぜ。どうやらリスティヒ隊長には運があるようで」
「ハハハッ、天運は間違いなく我等にあるぞ。ゲブ、お前も全力を尽くせ。バハール仕込の馬術を思い知らせてやるのだ!」
「お任せください。おい、フレッサーにクラフト、お前らも気張れよ。グロールの首を挙げりゃ、一番手柄だ。騎士や貴族も夢じゃねぇぞ!」
「はい、分かりましたッ!」
「ぼ、僕が貴族に? ぜ、絶対に敵の首を沢山あげて見せます!」
「良い返事だぜお前ら。人間てのは、野望を持たなきゃつまらねぇからな!」
馬の扱いに苦労しながら返事をするフレッサーとクラフト。彼らはゲブの隊に組み込まれ、この別働隊へと参加していた。
彼らは自分たちが正しい選択をして良かったと心から安堵していた。下手をしたら今押し潰されているのは自分たちだったかもしれないのだから。そして、訪れた最大の好機に胸躍らせていた。グロールの首を取れば貴族も夢じゃない。そうすれば人生が変わる。
フレッサーたちは野心を漲らせ、息を呑んで号令を待つ。
「ゲブ隊が先陣を切ると同時に、我等も突入する! 目指すは敵本陣、コインブラ太守グロールの首だ! 他の雑兵には目をくれるな!」
『応ッ!!』
「赤輪軍突撃、我らに勝利をッ!!」
――コインブラ軍本陣。戦況を遠眼鏡で眺めながら、グロールが満足そうに頷く。
怖いぐらいに上手くいった。両翼は包囲殲滅せんと圧力を高め、更に中央からはウィルム隊が前進を始めている。高らかに打ち鳴らされる鼓笛の音が、耳に心地よい。
「反乱軍もこれで終わりだ。私の面子も、ギリギリのところで保てたというところか」
「はっ、事態を収めた後はバハールの件を厳しく追及致しましょう。状況証拠だけでも、バハール公に対する牽制となります」
「無論のこと。アミルのおべっか遣いめが。美辞麗句で父に上手く取り入り、早くも皇帝面しおって! このまま見過ごしてはおけぬ!」
グロールが剣の鞘を地面へと打ちつける。
「リスティヒを捕らえれば、主導権は我らの物となる。何としてでも生かして捕らえなければな」
「はい、前線の将の方々もそれは良く分かっておられるかと――」
グロールの横に立っていた文官の言葉が突如として途絶える。不審に思ったグロールが横を見やると、喉に矢が突き刺さった文官が立ったまま絶命していた。力なく崩れ落ちると、身体をひくひくと痙攣させている。
「――な、何事だ!?」
「太守、東方面より敵襲です! この本陣目掛け、敵騎兵隊が突撃して参りました!!」
「ば、馬鹿な。そ、そんなことがあってたまるか!」
「しかし、間違いありません!」
「者共、守りを固めよッ! 太守に賊を近づけてはならぬ!」
近衛兵たちが即座に隊列を整え、グロールの周りを固める。砂塵を上げて駆け下りてくるのは赤輪の旗を掲げた騎兵隊。手には弓を持ち、休む間もなく矢を放っている。五百程度はいるだろうか。
「ふ、防げ、何としても防ぐのだ!!」
グロールが命令するが、既に本陣東部の守兵は蹴散らされている。ほぼ全てを攻勢に向けてしまったため、一時的に防備が手薄となっていた。反乱軍の狙い澄ました凶槍が、コインブラ軍の急所に突き刺さってしまった。油断して盾を降ろしてしまったのはグロールにほかならない。
歩兵の防陣が軽々と突破され、更に第二陣に突き刺さる。この次はいよいよ本陣、グロールの周りを固める近衛兵だ。
震える手で剣を抜き放つと、近くに控えている文官のペリウスに声を荒げて命令する。
「ウ、ウィルムを、直ちにウィルムを呼び戻せ!! 至急本陣に戻れと狼煙を上げ、角笛で合図を送れ!!」
「太守、それでは間に合いません! 既にウィルム様の隊は最前線で接敵しております! この上は本陣から退くが賢明かと!」
「ふ、ふざけるなッ! 反乱軍相手に本陣から逃げるなど、それこそ物笑いだ! この本陣には、我が誇りの証たる将旗が掲げられているのだぞ!」
本陣にはグロールが指揮している証である旗、天秤と二振りの剣が記されたものが掲げられている。それを敵に蹂躙されるなどあってはならぬこと。それが反乱軍相手ならば尚更だ。
「太守、命あっての物種です! たかが賊相手に命を失ってはなりませぬ! さぁ、早く退きましょう!」
強引に連れ出そうとするペリウスを振り払う。逃げられるわけがない。自分は誇り高きコインブラの太守にして、皇帝ベフナムの息子なのだから。その栄誉を汚すことは絶対に許されない。
「黙れ黙れ黙れッ! 私は絶対に逃げぬッ!」
「太守!」
阻止せんと腕を掴んできたペリウスを振り払い、怒声を上げる。
「なんとしてもここで押しとめるぞ! 全員奮起せよ、コインブラ軍の力を奴等に思い知らせるのだ!」
グロールが剣を振り下ろして鼓舞した瞬間、最後の凶報がもたらされた。
「伝令! 東方面から敵騎兵の第二波が殺到しておりますッ! 挟撃を受け守備隊は壊滅、最後の防陣を突破されましたッ!!」
グロールが目を見開いてその方向に目をやる。敵の新手が混戦状態だった守備隊を一蹴して、一気に本陣へと襲い掛からんとしていた。
呆然とするグロールに変わり、ペリウスが命令を与える。
「なんとしても太守をお守りするのだ! 時間を稼げば前線から援軍が駆けつける!」
「太守、我らの背後にお下がりを! 我らこの命尽きるまでお守り致す所存!」
近衛兵が最後の盾となるために前面に出て行く。敵騎兵の勢いは凄まじく、とてもではないが耐えられそうにない。目前まで迫っていた勝利が彼方へと遠ざかり、その替わりに死が迫っている。
(……こんなところで私が、ヴァルデッカ家の血を引く私が死ぬというのか? 賊の手に掛かり、無様に死ぬのが私の運命だと)
グロールは崩れ落ちそうになる身体を堪えるだけで精一杯だった。
東部丘陵から一気に駆け下ってきた騎兵隊の第二波。先行した第一波はリスティヒが率い、傭兵でも腕利きが集められた第二波はゲブが斬り込み隊長を務めている。勢いを着けた彼らの行く手を遮る者はなく、総攻めを掛けた右翼後方を難なく抜けて一気に本陣を目指して突入した。二段構えの奇襲にコインブラ本陣の守兵は完全に翻弄されてしまった。
「死ねっ、雑魚共がッ!」
僅かに残っていた守兵を馬上から槍で突き刺し、ゲブはそのまま駆け抜ける。第一波となった者たちと合流し、一挙に将旗の上がっている場所へと向かっていく。後方にはリスティヒが控えている。ここまでは怖いくらいに順調だ。
随伴するフレッサーが弓を放ち、クラフトは大剣を振るって敵兵を蹴散らしていく。
「やるじゃねぇか」
やはり拾い物だったとゲブは頷く。鍛えれば中々使い物になりそうだと思っていたのだ。人の能力を見抜く才能がゲブにはある。だから誰についていけば良いか、誰を相手にしてはいけないかが分かる。故に、ゲブはこれまで生き延びて勝ち続けてきた。それはこれからもだ。
もう死んでしまったがネッドも中々の使い手だった。それを殺した奴とは絶対に当りたくはない。強い奴と正面から戦わないことも生き残るための秘訣だ。そういうときは頭を使って不意打ちするか、懐柔すれば良い。戦いに綺麗も汚いもないのだから。
(ノエルも面白そうな奴だったが。さてさて、まだ生きてるかどうか)
本陣を守ろうとする勇敢な兵が槍を構えて立ち塞がる。装備が他と違い豪奢なことから、近衛兵であろう。
ということは、その一番後ろで青褪めた顔をしている男が太守のグロールだ。その首はまさに値千金と言える。
勢いのままに殆どの兵を攻勢に出してしまい、肝心な己の守備を忘れてしまったようだ。総大将はたとえ無能であろうとも価値がある。討ち取られれば兵の士気は嫌でも下がるからだ。それが太守ならば尚更のこと。易々と戦場にでてきて良い存在ではない。それが分からないということは、やはり無能ということだ。ゲブはほくそ笑んだ。
(無能だろうがなんだろうが、あの太守の首には莫大な価値がある。俺からすりゃ黄金の塊みたいなもんだ!)
部下に命じて火を放たせ、更に混乱を煽る。一気に本陣を突破するために槍を振り回し、たむろする敵兵を刈り取っていく。近衛だろうが関係ない。敵は及び腰で、こちらはまさに怒涛の勢いなのだから。
「殺せ殺せッ!! 手当たり次第にぶっ殺せ! グロールの首まで後少しだ!! 討ち取りゃ褒美は望みのままだぞ!」
無造作に近寄ってきた敵兵目掛けて槍を繰り出す。硬い衝撃が手に伝わる。たかが雑兵ごときにゲブの一撃が受け止められた。
「この野郎がッ!」
思わず血が上り、槍を引き寄せ、両手で馬上から突き降ろす。また受け止められてしまった。バハールで叩き上げたこのゲブの強槍が。
「――二度も受けやがるかッ!! てめぇ、ただの雑魚じゃねぇな!」
ゲブは思わず雑兵の顔を睨む。コインブラ兵が一般的に身につけている鎧に兜。近衛兵のものとは違う。だがこの雑兵は近衛兵よりも間違いなく強い。兜からは赤い髪が覗く。楽しそうにニヤリと笑っている見覚えのある顔。
「お前、ノエルかッ!?」
「うん」
「相変わらず良い度胸――」
そう叫ぼうとしたとき、腹部に激痛が走る。呆然としてそれを眺めると、二つの先端が臓器を抉っている。赤い液体が零れ落ちていく。
油断した覚えは全くなかったが、甘かった。ノエルの一撃はそれほど鋭かった。ネッドの死というヒントがあったにも関わらず、警戒を怠ってしまった。それが運のツキということ。内臓を抉られる感触を嫌と言うほど味わいながら、ゲブは血を吐き出した。
――熱い。焼けるような熱さが腹部に広がっていく。否、ようではなく実際に焼けているのだ。腹部は灼熱の赤色を帯び、脂肪の焦げる臭いが鼻に突き刺さる。視界が赤く染まり、口からはヒューヒューと耳障りな音が勝手に漏れていく。
最初に感じた激痛はいつの間にか薄れ、肉、骨、臓腑、脳、いたるところが燃えているとはっきりと認識できる。できてしまう。
「も、燃えてる? ハハッ、どうなってんだ。なんで、俺の身体が、燃えて――」
「不思議だよね。なんでかは私にもよく分からないんだ。火が出る槍なんて、普通じゃないし。奇跡の品って話だけど、眉唾だよね」
「ハハハハッ、燃え、燃えてる、お、俺の、身体が、身体が、ガあッ」
「ね、この槍が一体何なのか。私がそっちに行くまで、よければ考えておいてくれる? もちろん私も考えておくから。ね?」
そのノエルの問いかけに答えが返ってくることはなかった。ゲブの目は高熱で融け落ち、口からは赤黒い液体がとめどなく流れている。
勝ったノエルは生き残り、負けたゲブは息絶えた。勝ち続けるというのはやはり難しいらしい。だが、生き残り続けるというのはいけるかもしれない。そんな気がする。そうすれば、きっと幸せも手に入るだろう。
大事なことを教えてくれたゲブは死んでしまったが仕方がない。ゲブは敵だったから。だからネッドも殺した。クラフトとフレッサーも殺す。彼らはもう味方じゃないから。
「よいしょっと」
ノエルは槍を更に突き出し、馬からゲブの亡骸を持ち上げる。旗印のようにそれを高らかに掲げると、亡骸は激しく炎上し、黒煙と共に死臭が周囲に広まっていく。
周囲の時間が止まったかのように一瞬の静寂が訪れる。敵、味方共に絶句したまま、炎の少女に目を向けることしかできない。
「シンシア隊ノエル十人長、敵騎兵隊長ゲブを討ち取った!!」
「――え?」
「次が来るぞッ! ここを絶対に抜かれるな!! 隊列を整えて槍を構えろ!! 馬を狙って突き崩せッ!! 全員、グロール様をお守りしろ!!」
ノエルは言葉遣いを変えて激しく叱咤するとともに、ゲブが乗っていた馬に飛び乗る。腰に提げていたラッパを掴むと、高らかに突撃ラッパを奏で、敵兵に突撃していく。それに続いて、ノエル隊の兵士も意気揚々と続いて行く。ラッパの音が鳴り止んだ後は、敵兵の悲鳴と絶叫が木霊する。
ミルトも槍を掲げて慌ててその後に続き、唖然としていた守兵も、勢いに呑まれてノエルの命に従い始めた。
「本当にとんでもない奴だ!」
シンシアは馬を走らせ、目前の反乱軍に突入する。全てがノエルの推測通りとなった。
結局、シンシアは待機命令を無視して、敵の奇襲に備えて移動を行なった。更にノエル隊を先行させ、本陣横で待ち構えて敵の出鼻を挫くという役割を与えた。シンシア隊は敵の横っ腹を叩くという段取りだ。奇襲に奇襲で応戦する、ノエルの言葉通りに実行した。敵の第一波を防ぐことはできなかったが、何とかグロールの命は守ることができた。更に先手の隊長を討ち取られた敵は混乱状態に陥っている。
ノエルの得意気な顔がふと脳裏を過ぎる。本人の普段の発言のせいで俄かには信じ難いが、完全に敵の打つ手を読んでいたということだ。シンシアだけならば敵が本陣奇襲を目論んでいるなど思い至るわけがない。
(ノエルめ、あいつは本当に何者なんだ! 馬鹿なことを言ったかと思うと、恐ろしいほど先を見通していたり。全くもってわけがわからん!)
敵の騎兵隊は、進むか応戦するかを迷い愚かにも足を止めてしまっていた。先頭を走っていたゲブという先手隊長が討ち取られてしまったせいだろう。ノエルが挙げた討ち取りの大声はここにまで轟いていた。敵将の討ち取りというのは、嫌でも味方の士気を上げ敵の士気を下げる効果がある。
そして、奇襲を行なうに当り禁忌とされているのは足を止めてしまうことだ。騎兵の武器は突進力と機動力。これを奪われる事態は絶対に防がねばならない。故に、出鼻を挫かれたと判断したら直ぐに撤退を決断しなければならない。それは誰でも分かっているが、いざ実戦に臨むと難しくなる。そもそも少数で奇襲を行なうということは、それだけ追い込まれているという証左。後もう少しで勝利を掴めるというところで、撤退の判断を行なえる者などそうはいない。
「糞っ、話が違う! 本陣はガラ空きじゃなかったのかよ!」
「賊め、貴様らの考えなどお見通しだ! 潔く剣を捨てろ、もうお前たちに勝ち目はない!」
「うるせぇこのアマッ!! てめぇだけでもぶっ殺してやる!」
馬を駆っていた騎兵がシンシアに斬り掛かってくる。冷静にそれを見定めると、腕を斬り飛ばし、そのまま胴体に突き入れる。
本陣方向からラッパが聞こえてくる。現状は意図せずに挟み撃ちの形となっている。本陣の守兵をノエルが先導し、シンシア隊が側面を突く。敵将のリスティヒがこちらにいる可能性は高い。捕らえれば反乱は終息するだろう。
「敵の首は討ち捨てろ! 所詮は賊の首、大した価値などない! 我らが狙うのは敵将リスティヒのみ! できるかぎり生かして捕らえよ!!」
シンシアは混乱する敵兵を徹底的に壊滅させるため、剣を掲げて命令を下した。
「ハアッ、ハアッ、糞ッ、糞ッ!」
敵の思いがけない横槍によりリスティヒの別働隊は恐慌状態に陥っていた。奇襲の勢いは完全に削がれ、挟撃される態勢に持ち込まれてしまった。無能なグロールが伏兵を潜ませていたとは考えにくい。ウィルムあたりは気付いたかもしれないが、兵を率いて前進したのは確認済みだ。ということは、誰か頭の働く者が余計な真似をしたということだ。リスティヒは親指の爪を噛み千切る。
「リスティヒ様、ここは一旦退きましょう! 最早突破できるとは到底思えません!」
「退いてどうするというのか! ロックベルに退いたところで、最早時間稼ぎにもならぬ!」
「バ、バハールに、故郷のバハールに帰りましょう!」
「馬鹿馬鹿しい! 我らを迎え入れてくれるわけがなかろう! 今の我らは赤輪軍なのだぞ!」
長期化させよというアミルの命令に背き、州都進軍を決めたリスティヒ。みすみす敗北して許されるはずもない。バハールに戻れば待っているのは死だ。故に、今は攻め続けるしかない。
足を止めて槍を振るうリスティヒ。先陣を駆けたゲブの死により騎兵の勢いは殺され、前面と側面からの挟撃を受けていた。
直下のバハール人はともかく、傭兵たちは既に及び腰だ。雑兵とは違い腕は確かだが、雇い主への忠誠心など欠片もない。命危うしと分かれば直ぐにでも逃げ出してしまうだろう。潰走せぬためにもまだ勝ちの目はあると思わせなければならない。
「全員もう一度奮い立て! グロールの首まで後僅か、後僅かなのだ! この程度の守り、一気に突き崩せ!!」
「うーん、それはもう無理じゃないかな」
眩い陽射しと共に、本陣側から一騎がゆっくりと近づいてきた。全身を赤く染めたコインブラの兵士。既に射程の範囲内だ。
「コインブラの弱兵が、何をぬかすかッ!」
槍をしごいて、バハールで閃光のごとしと謳われた突きを放つ。――その槍をかわされた挙句、掴まれる。慌てて振りほどこうとするが、びくともしない。
「――ッ、馬鹿なッ!?」
「大将だけあって、結構速いね」
「――は、放せっ!」
「貴方を殺すと手柄が半分以下になっちゃうから。だから、今は生かしておくね」
「ただの兵卒如きが、このリスティヒを侮るかッ!」
リスティヒは槍を手放し、腰から剣を抜き放とうとする。
だが剣を抜くことはできなかった。右肩に重い衝撃が走り、あまりの激痛に落馬してしまう。
周囲のバハール人の兵士が庇おうと剣を差し向けるが、胸を貫かれ絶命した。
「一応確認するけど、赤輪軍首領リスティヒで合ってるよね。間違えてたら大変だし。自分で名乗ったから、間違いないだろうけど」
周囲の様子を気にすることなく、コインブラの女兵士は馬から降りた。手を出そうにも、何かをすればリスティヒの命がない。馬上で槍を構えて包囲することしか今の騎兵たちにはできない。
「お、お前は何者だ」
「私の名前はノエル。貴方の姿はゾイム村で一度だけ見たことがあるんだけど」
「ゾ、ゾイム村だと。あの村は我らの支配下にあるはず。それがなぜ、コインブラ軍に――」
「その方が楽しそうだったから。それに私は使い捨ての駒じゃないし。貴方、私たちを駒としか見ていなかったでしょう? そういう風に見られるの、すごく嫌いなんだ」
ノエルはそう言うと、腰から鉄槌を取り出して強く握り締める。
ノエルは笑っていたが、内心は腸が煮えくり返っていた。あの砦でシンシアと出会わなければ、コインブラ軍に行かなければ。この戦いの囮部隊として前線に出されて捨石にされていたのだ。こいつらにとって、コインブラの人間の命なぞ石ころと同価値である。
事実、囮部隊とされた反乱軍本隊は悲惨の一言だ。反乱軍の兵は、剣を捨て悲鳴を上げながら潰走を始めている。後ろからは多数の矢を射掛けられ、屍はそのまま打ち捨てられていく。本当に恐ろしい光景だ。
――もしあそこに自分がいたとしたら。
ノエルは首を横に振って強引に嫌な想像を追い払う。まるであの墓穴みたいでとても怖かったから。
「ま、待て。話を聞け! 本当に悪いのは誰か考えるのだ! 悪政の原因は、お前らの苦痛は一体誰のせいなのかを! ここで私を見逃してくれれば――」
「うるさい」
ノエルは鉄槌をリスティヒの右膝に振り下ろし、完全に粉砕する。悲鳴を上げる間に、更に左膝を粉砕して一切の行動を不能にする。リスティヒは激痛のあまり泡を吹いて意識を失ってしまった。リスティヒの兜を乱暴に蹴り飛ばした後、髪を掴み上げ、ずるずると引き摺っていく。
周りの兵は得物を構えたまま身動きしようとしない。――いや、できなかった。ノエルの右手には血が滴る槍が握られている。ゆらゆらと上下するその二又の凶槍が、まるで獲物を探しているかのように鈍い光を放っている。リスティヒを助け出そうと足を踏み出した瞬間、己の喉下に突き刺さる予感がして一切の身動きができなかった。
「お、鬼だ」
「ひ、人の皮を被った悪鬼だ」
「自分達を棚に上げて、ひどいこと言うね」
ノエルは苦笑しながら、周囲を油断なく見渡す。すると、
「ノエル、無事か! 遅くなってすまない!」
敵勢を蹴散らしたシンシアたちがようやく本陣に押し寄せてきた。その場に立ち尽くしていた傭兵たちが金縛りから解かれたように一目散に逃げ始める。武器を捨てて降伏する者もいる。増援を待つまでもなく、既に勝敗は決していた。
昏倒しているリスティヒと、それを引き摺るノエルを馬上から目を見開いて確認する。
「ちゃんと生かしたまま捕まえたよ」
「……その男がリスティヒなのか? お前が一人で倒したのか?」
「うん、顔を覚えていたからね。一応確認したから間違いないと思うな」
「そ、そうか。良くやった」
顔を引き攣らせながらもシンシアは褒め称える。周囲には少なくはない敵兵の屍が転がっている。中には黒焦げとなった焼死体まである。ノエルが率いていたミルトたちは少し離れたところで、絶句したまま固まっていた。彼らにこのような真似ができるわけもない。つまり、ノエル一人で先手隊長のゲブを討ち取り、騎兵隊の勢いを削いだ挙句蹂躙し、反乱軍首領のリスティヒを捕らえたということになる。驚くべき大戦果といえよう。
「シンシア隊長、早く勝ち名乗りをあげようよ。そうすればこの戦いは直ぐに終わるよ」
「し、しかし――」
捕らえたのはノエルなので、シンシアとしては手柄を奪うようで躊躇いがある。
「ミルト、太鼓と鐘を鳴らして。私がラッパを吹くから。そうしたら、シンシア隊長が格好良く名乗りを上げてくれるよ」
その言葉の後、ノエルはラッパを高らかに吹き鳴らす。勝利の旋律だ。続いてミルトが戸惑いながらも太鼓を打ち鳴らす。本陣だけでなく、戦場の兵士たち全てがこちらに目を向けたのを感じる。
「本当にいいのか?」
「もちろん。私はさっきやったから、もういいよ」
シンシアは頷くと、大きく息を吸い込み、カナン街道すべてに響くように声を張り上げた。
「コインブラ軍シンシア隊、反乱軍首領リスティヒを生け捕った!! この戦いは我らの勝利だ!!」
一拍遅れて、コインブラ兵から歓声が上がる。勝利の女神がどちらに微笑んだかは誰の目にも明らかだった。