第十話 白と黒の境界線
数日後、ノエル隊は初の任務に当っていた。任務といっても偵察やら工作などといったものではない。誰にでもできる伝令役を仰せつかっただけのことだ。
敵の手に落ちてしまったロックベルの街。そこから州都マドレスまでの道はカナン街道と呼ばれ、近くには小規模な村が点在している。ノエル隊の役目は彼らに反乱軍が迫っていることを伝え、気をつけるよう注意を促すというものだ。危険を伝えるだけで留まり守るわけではない。多数の村に兵を配置するほどの余裕はないのだから。
グロールたちコインブラ首脳部は、反乱軍はロックベルを拠点として周囲に勢力圏を伸ばすだろうと見ていた。反乱が起こって以降どこかの拠点で留まったことはなく、不満分子を糾合しながら南下してきていた。それが足を止めたということは、反乱を長期化させるのが目的と推測したのだ。
しかもバハールが裏にいる可能性があると分かれば、その狙いも一目瞭然だ。事態を泥沼化させてコインブラの権威の失墜を図り、太守であるグロールの責を追及する。そうすることでアミルは自らの次期皇帝の地位を確固たるものとし、将来の政敵を葬ることができる。まさに一石二鳥という訳だ。
それが嫌と言うほど分かっているグロールは心底歯噛みしていたが、兵の招集が終了するまで、散発的な攻撃は控えることにした。決戦を挑み、短期間で打ち破れば多少なりとも汚名は返上できる。軽挙に逸り、下手に敗戦でもしたらそれこそ命取りになりかねなかった。
「次はどこだったかなーと」
「次への案内は俺にお任せを」
地図を広げた兵が、ノエルに声をかける。
「あはは、なんだか板についてきたね」
「段々慣れてきましたからね。ミルトの奴は慣れていないみたいですが」
「うるせぇや」
ミルトは不機嫌そうにはき捨てた。他の者のように笑っていられる気分ではなかった。
ノエルたちの任務は、名目は敵の勢力圏の拡大阻止に当るが、やっていることは至極簡単なことだった。
『敵が迫っているから危ないと判断したら逃げろ』、『コインブラ州は兵を出せないが、反乱軍に加わった場合は死罪である』、
この二つを命令通りに伝えて回るだけ。民からの反応が芳しい筈もなく、ノエル隊は罵声や怒声を散々聞かされることになった。時には泥を投げつけられたときもある。助けられないが精々気をつけろなどと言われたら、激怒するのも当たり前だ。
「それにしても、皆凄い怒ってたよね。さっきのお爺さんなんか口から泡吹いて倒れちゃったし」
「そりゃそうですよ。州には高い税を払ってるのに、全く守っちゃくれないんですから。こんな時のために州兵がいるんでしょう」
ミルトは溜息を吐く。州兵が動いてくれていれば、自分は今ここにはいない。ゾイム村の皆は無事だろうか。今は祈ることしかできない。
そんな思いを知る由もないノエルは、
「でも泥合戦は楽しかったね」
「楽しかったのは隊長だけですよ。支給されたばかりの鎧だったのに。あー、泥が染みてきやがった。本当に最悪だ」
ミルトが舌打ちしながら自分の姿を眺める。新品だった鎧――胸部を守る程度の物が泥で悲惨なことになっている。中に着込んでいる下着にも泥が染み込み非常に気持ちが悪かった。
止めさせようにも傷つけるわけにもいかないので、必死に制止の声を上げるぐらいしかできなかった。故にノエル隊の面々は全身泥だらけという結果となった。脳天気極まりない一人の女を除いて。
ノエルだけはいつも通りの姿である。汚れは殆どないと言っていい。村人から投げつけられる泥玉を華麗にかわして、隙をついては強烈な一撃をお見舞いしていくのだ。もちろん、槍や鉄槌などではなく泥玉で。
一時間もすると村人たちは疲れ果てて解散してしまい、ノエルは残った子供たちと楽しそうに遊んでいた。シンシアが聞いたらまた激怒することだろう。指揮官たるものが何をやっているんだと。
「ところで、なんであんなに避けられるんです? ほとんど当ってなかったみたいですが」
「よく見てたからね。そうすれば簡単なんだよ」
「見てから避けたって、普通は間に合わないですよ」
「そうかな。私はできるけど。皆も練習すればできるんじゃない?」
ノエルは不思議そうな顔をした。別に難しくもなんともなかったから。
泥玉をよけるくらいは何でもない。誰がどこから狙っているのかが手に取るように分かる。そのほとんどは見なくても避けることができる。だが、時折鋭い泥玉が飛んでくるので、そのときは良く見なければならない。
「……その考え方だと、矢でも何でも避けられることになるんじゃないですか?」
「そうかもね。ね、もしかして私って凄い?」
「へいへい、凄いですよ。流石はノエル十人長だ」
ミルトがやってられないと手を振った後、身体の泥を叩きながら歩いていく。ノエルも後に続く。
ノエルは戦っているとき、感覚が異常に鋭くなるときがある。そういうときは、何かがある。だから、よく見る。見てから避ける、或いは対処する。そうすることで今まで生き残ってきた。できて当たり前なので、言葉で伝えることはとても難しい。
だから、よく見れば大丈夫というほかないのだ。
それから三日が経っても、ノエル隊は同じ任務を続けていた。地図を見ながら村々を一つ一つ見回っていく。聞くのも飽きてきた罵声を聞き流しながら、ノエル一行はだらだらと任務をこなしていった。そして、ようやく命令されていた範囲の、最後の村へと歩を向ける。
カナン街道を東に進み、小高い丘の向こうにある村が目的地だ。見晴らしが良く、丘の上までくれば街道を一望することができる。以前はこの街道は人の往来が絶えることはなかったが、今では時折地元民の荷馬車が通るぐらいである。反乱が起こっているということもあり、商人たちの姿を見かけることは本当に稀である。
逆側を見渡せば林が広がっている。そこを抜けると麦畑があり、更に向こうに小さな集落があるのが確認できた。
目的地まであともう少しと分かり、ミルトは地図をしまって先を急ごうと声を掛けようとした。
「――危ないッ!」
ノエルは隣で汗を拭っていたミルトを思いっきり弾き飛ばす。いきなりのことでミルトは受身を取ることができず、顔から地面に倒れこむ。幸い柔らかめの地面だったので、鼻を打つだけで済んだ。
「痛えッ!! いきなり何を!」
「いいから武器を構えて。敵がくるよ」
「敵!? どこからッ!?」
ノエルが槍を取り出すと、木の上から口笛を吹きながら誰かが着地する。
赤い布を腕に巻きつけた男、ミルトと同村の若者――フレッサーだった。
「へっ、俺の矢に反応するとは大したもんだ。ここは素直にノエルを褒めた方がいいんだろうな」
「フ、フレッサー!?」
「ようミルト。それに他の奴も一緒か。間抜けな州兵たちかと思ってつい射抜いちまったぜ。つうか、コインブラの鎧なんか着やがってどういうつもりだ。俺たち赤輪軍を裏切ったのか?」
「い、いや。こ、これには訳が」
「ねぇ、フレッサー。貴方、ミルトを殺すつもりだったの?」
弁解しようとするミルトを遮り、ノエルは問いかける。
ミルトも地面に突き立った矢に気付く。ミルトがいた場所を間違いなく通過していたであろう鋭利な矢。ノエルが庇っていなければ確実に命はない。フレッサーは本気で殺すつもりだったのだと今更ながらに思い知る。
「そりゃ敵は殺すに決まってるだろ。しかも裏切り者なら尚更だ」
平然とした顔で言い放つフレッサー。手には狩人時代の弓が握られ、新しい矢が番えられている。その背後から武装した男たちが三十人程度現れる。皆腕に赤い布を巻いている。その中で一際大きい男は、やはり顔見知りのクラフトだった。
「確かに、敵は殺さないといけないよね」
ノエルが腰に手を当てると、兵たちが無言で剣を抜き放つ。
「――おい、待てお前ら! お前も待てフレッサー! 俺たちは別に裏切ったわけじゃない。いいか、落ち着いて聞けよ。この反乱はバハールの連中の仕業だったんだ!」
「へぇ、そうかよ」
「だから赤輪軍の指導者は民のことなんか考えちゃいない。反乱を起こしたのは、全部自分たちのためなんだからな!」
「そうかいそうかい。で、声をでかくして主張するのは良いけどよ。それがどうかしたってのか?」
嫌な笑いを浮かべながら首を捻るフレッサー。クラフトも同じ表情だ。以前のおどおどとした人間と同一人物とはとても思えない。大剣を肩に乗せて剣呑な視線を向けてくる。
「ど、どうかって、だからこの反乱には何の意味もないってことだ! お前達もさっさと抜け出さないと、捕まったら死刑だぞ!」
「へへっ、分かってねぇなあミルト。お前は全然分かってねぇよ。お前らもこっちにくりゃ良かったのになぁ。そうすりゃ、楽しさが分かったと思うぜ」
フレッサーの言葉に、何度も頷くクラフト。
「楽しさ?」
「ああ、奪う楽しさだよ。誰かの大事なものを強引に奪う。弱い連中を蹂躙して、自分の力を思う存分に見せ付けるんだ。それが本当に楽しくてよ。心の底から生きているってことを実感できるんだ」
「……お前、一体何を」
「なぁミルト。ロックベルで俺は何人の人間をぶっ殺したと思う? ――三十人だぜ。俺より頭も良くて、金も持ってそうな連中を弓で射抜き、剣を突き刺してぶッ殺してやったんだぜ?」
「……フ、フレッサー?」
「知ってるか? 首を剣で刎ねると、血がすげぇ勢いで噴出すんだ。その後でそいつの女や財産を戴くのさ。へへ、一度やったら絶対に止められねぇ」
餓えた狼のような顔つきでノエルを睨むフレッサー。口からは涎が零れ、漲る欲望を滾らせている。
「馬鹿なことを言ってないで、とっとと反乱軍を抜けろ! 今、マドレスにコインブラ全土から州兵が集ってるんだ、もう勝ち目はないぞ!」
「だったらそれまで存分に暴れるまでさ。俺は、あのクソ惨めな生活に今更戻れねぇ。必死こいて狩ってきた獲物を間抜けな連中に取られてよ。そんで端金で一喜一憂する生活なんてありえねぇぜ。まさに、死んだ方がマシって奴だよな」
「そういうことだから、ごめんね、ミルトに皆。でもさ、僕もそう思うんだ。あそこは本当につまらない。あんなゴミみたいな暮らしに戻るなんて、僕もまっぴらご免だよ」
ニヤニヤと笑いながらクラフトが続く。かつての朴訥とした雰囲気は完全に掻き消えている。
こちらの話が全く通じない。豹変した二人の姿にミルトは絶句するしかない。
「ところでよ、別働隊を指揮してたネッド隊長はお前らが殺したのか? ゲブさんが嘆いてたぜ」
「うん、そうだよ。私が殺した」
ノエルが正直に頷く。
「女のお前にやられるなんて、ネッド元隊長も意外と情けねぇな。隠れて不意打ちでもやったのか?」
「ううん、ちゃんと戦ったよ。正面からね」
「――まぁ別にどうでも良いんだけどな。ゲブさんがやけに気にしてたからよ」
「…………」
「ところでノエル。もう一度だけ聞いてやるが、俺について来る気はないか? こっちにつけば色々と楽しい思いをさせてやれるぜ?」
「前と同じ答えになるけど。やめておくね。フレッサーと一緒に行っても楽しくなさそうだから。それに、今の私は仲間が一杯いるし」
ノエルが無表情で、だが完全に拒絶する。フレッサーは思わず鼻白むが、直ぐに気を取り直す。
「へっ、そうかよ。まぁいいさ、次に会ったら強引に連れて行きゃいい話だ。今日のところは今までの誼もあるから見逃してやる。次は容赦しねぇから覚悟しておけ」
フレッサーが弓を背中に背負うと、クラフトが笑いかけてくる。
「じゃあね、皆。もしこっちにつきたいなら、ロックベルまでくるといいよ。僕はいつでも歓迎するからさ」
「間違えて撃ち殺しちまうかもしれねぇけどな」
どうでもよさそうに手を上げると、武装した男たちの下へ戻っていくフレッサー。クラフトが後に続いてのんびりと歩いていく。
その背中に向かって、ノエルが声を掛けた。
「ねぇ。もうフレッサーとクラフトは味方じゃないんだよね? こっち側に戻ってくるつもりは絶対にない?」
ノエルの問い掛けに、フレッサーは一瞬だけ足を止める。平坦な口調ではあったが、どこか心に訴えかけてくるものがあった。ミルトにはそう感じた。恐らく、フレッサーとクラフトもそうだろう。
フレッサーは髪の毛を苛ついたように掻き乱す。そして振り返ると、
「……そうだ、俺たちはもう仲間じゃねぇ。元々ただ同じ村にいたってだけだ。次からは完全な敵同士。俺が奪う側で、お前は奪われる側。――勝者と敗者、分かりやすいだろ?」
「そっか。じゃあもういいや。また今度ね」
ノエルはそう言うと、興味を失ったように歩き始める。もうフレッサーたちを見ることもなく、目的地の村へとさっさと歩き始めた。
「いいんですか?」
「いいよ。さっきまでは味方だと思ってたから。次に会ったら敵だから、遠慮なくやれるね」
兵の問いかけに、ノエルはどうでもよさそうに返事をした。
ノエル隊の面々もフレッサーたち反乱軍を警戒しながらその後に続いて行く。幸いなことに追撃はなかった。フレッサーが見逃してくれたのか、それとも別の意図があったのかは分からない。
ミルトは安堵していた。殺し合いになったとしても、フレッサーを殺せる気がまるでしない。幼い頃からの顔馴染みを相手に剣を揮えるとは思えなかった。――フレッサーとクラフトはその壁を容易く乗り越えてしまったようだが。
「な、なぁ。あいつら一体どうしたんだ。村にいたときとは丸っきり別人だぞ!」
「きっと変わったんだよ。奪う楽しさを知ったって言ってたから。こうなった以上、仕方がないね」
「し、仕方がないって、そんな簡単に言うな! 同じ村の人間なんだぞ!」
「じゃあ納得がいくまで説得してくればいいよ。確実に殺されるからお勧めしないけど。ミルトは私の仲間だから、殺されちゃったら悲しいしね」
ノエルが冷たく言い放つ。その目からは人間性といったものを伺うことはできない。思わず目を逸らしたミルトは、言葉を繋ぐ。
「つ、次にあいつらに会ったら、どうする気なんだ?」
答えが分かっている質問を、ミルトは口に出してしまった。
「もう会うことはないと思うけれど、万が一会っちゃったなら――」
ノエルは手にしている槍を軽く手で撫でる。
「もちろん殺すよ。敵は絶対に殺さなきゃ。私は奪われる側になりたくないし。もう味方じゃないって言ってたから助ける必要もないし」
「……流石は軍人さんだな。俺はそんな簡単に割り切れねぇよ。無理だ」
「ミルトはそれでいいと思うよ。生きかたなんて、人それぞれだしね。好きにしたら」
「……臆病者でも構わないってことかよ」
「優しいっていう呼び方もあるみたいだよ。ミルトみたいな考えの人ばかりなら、この世の中は幸せで一杯だろうね」
ノエルが口元を歪めて皮肉めいたものを浮かべる。能天気なこの女が、こんな表情をすることができたのかと、ミルトは目を丸くする。
「ノ、ノエル?」
「ま、結局は人それぞれだから、好きなように生きればいいんじゃないかな」
「……好きなように生きるったって、あっさり死んじまったら意味がないだろ」
「そりゃそうだよね」
「……あの馬鹿共、それを分かってるのかな」
「さぁ、どうだろうね。私には分からないや。ま、敵のことなんかどうでもいいよ」
薄く笑うと、ノエルは肩を竦めて見せた。
村へと向かうノエルたちを見やる、フレッサーと赤輪軍の兵士たち。彼らの後姿を眺めながら、クラフトが首を傾げる。
「ねぇ、良かったのフレッサー。すんなり見逃しちゃって。第一、あの村を潰しに来たんじゃなかったっけ」
「この周辺であんまり暴れるなってゲブさんの命令もあったからな。それに、あんなシケた村に大したものなんてありゃしねぇさ。見逃したところで惜しくもねぇ」
フレッサーがつまらなそうに唾を吐く。
弓の腕を買われたフレッサー、そして大柄な体と腕力を見込まれたクラフトはゲブから目を掛けられるようになっていた。
熟練の兵士であるゲブはリスティヒの腹心らしく、色々なことに顔が利く。この戦いが終わった後は、部下になれとも言われている。
(あの人がどこまで本気なのかは知らないが、俺は行けるところまで行くだけさ。その方が生きているって実感できる)
ゲブの本心やら、リスティヒの目的だとか、赤輪軍の大義だとか、そんなものはどうでも良かった。ただ好きなように暴れ、生きていたかった。今までの人生で溜め込んだ鬱屈した何かをひたすら発散したかった。
(それに、獲物はやっぱり人間が一番だ。獣とは全然違う)
動物相手とは違い、人間を狙う時は心臓が激しく脈打つ。あの独特の緊張感は人間でしか味わえない。いつの間にか殺すことへの忌避感は全くなくなり、充実感だけが得られるようになった。ゲブからは大人の階段を上がった証拠だと褒められた。ちなみに、クラフトも同様だった。振るう得物が鍬から大剣に変わっただけのことだ。
願わくば戦乱がもっと拡大し、長引けば良い。フレッサーは心底そう思う。ゾイム村の母親のことなどもうどうでも良かった。生きていようが死んでいようが知ったことではない。大事なのは自分がどうしたいかだ。
「そういえばさ。さっきのノエル、ちょっとだけ寂しそうだったね」
「……そうか? いつも通りだった気がするが」
フレッサーは思い起こすが、特に感じることはなかった。唯一分かるのは、この女は自分に全く興味がないのだということだけ。それがフレッサーには耐え難い。苛立たしい。そして、隣にいるのがミルトというのがまた気に食わない。だから狙ってやったのだ。本気で殺すつもりで。
「なんとなくだけど、なんか寂しそうに見えたんだよね。うーん、僕の気のせいかな」
「ついて来いって親切に言ってやったのに、断ったのはアイツじゃねぇか。それが寂しいとか意味が分かんねぇよ」
「それもそうだよね。やっぱり気のせいだったみたいだ」
「俺が気になったのは、ミルト以外の村の連中だな。何かおかしくなかったか?」
フレッサーはノエル、ミルトと話をしていたが、他の村の若者はずっと剣を握ってこちらを凝視していた。忠実に命令を待つ熟練の兵士のように。あれは一体なんだっただろうか。
「フレッサーに圧されて緊張してたんじゃないの。僕らは剣なんて持ったことなかったからね」
「へっ、まぁどうでもいいさ。次に会ったら他の連中はぶっ殺して、ノエルは俺のモノにするからよ。クラフト、お前は手を出すなよな」
ノエルは半殺しにして捕らえる。他の連中は皆殺しだ。同村の誼だとか、そんなものは先程見逃してやったのだからそれでチャラだ。勝手に赤輪軍を抜けて、自分たちだけコインブラ軍につく連中に容赦など必要ない。特に、ミルトの馬鹿は八つ裂きにして、その姿を妹のキャルに見せてやるつもりだ。どんな反応をするか実に楽しみである。
「えーずるいよフレッサー。じゃあ、僕はどうしたらいいのさ?」
「知らねぇよ。とにかく、俺より先にノエルに手出したらぶっ殺すぞ」
「なんだか、顔が怖いよフレッサー」
「お前は加減を知らねぇからな」
けっと吐き捨てると、フレッサーが手で合図する。そろそろ引き上げなければならない時刻だ。
今回の目的はこの地点の偵察にあった。フレッサーだけはゲブから真意を知らされている。この街道を見渡せる丘は重要な拠点となる。コインブラ軍には何の意味も持たない場所であっても、赤輪軍にとっては違う。
(州都を上手いこと落せりゃ収穫祭だ。貴族の糞共に分からせてやる。生まれた場所が違うだけで、結局は同じ人間だってことをよ。……そうだろ、ノエル。どんなに澄まし顔してやがっても、一枚剥がせばお前だって同じさ)
ノエルの恐怖に歪んだ顔を想像しようとする。ロックベルの女たちと同じ、苦痛と絶望に染まった表情だ。
だが、何度試してみても上手くいかなかった。何度痛めつけても、最後には歯を剥き出しにして笑いだすのだ。思わずフレッサーの背筋に寒気が走る。
「――ッ」
背後を振り向くと、刺す様な太陽の陽射しと、遠くからこちらを眺めているノエルの姿が目に入ってしまった。
はっきりとは見えないが、獲物を見定めるような目でこちらを見ているような気がする。弓は持っていないのに、次の瞬間には射殺されそうな予感を覚えてしまう。
(あの目、どこかで見たような気がする。いつ、どこでだったか)
「…………ああ、あの時か」
ノエルが村に住み始めた頃の話だ。ノエルが狩りを行なうとき、いつもあの目をしていた。届くか、届かないか、殺せるか、殺せないか。それだけを考えているのが分かる負の視線。しかもそれを自分にまで向けてくる。それが心底嫌で、暫くの間ノエルの狩りに同行するのを止めたのだ。いつ、その矢が自分に放たれるかという恐怖があったから。死を間近に感じたのはあれが始めてだった。
だが、時間と共に打ち解け、特別な感情を抱くと同時にそれは薄れ、最後にはなくなった。いつからか分からないが、ノエルは自分を味方だと認識してくれていたようだ。
そして、納得がいった。ノエルの最後の問いに自分は否と答えた。紛うことのない敵になってしまったのだと。次に会ったとき、ノエルは確実に殺しに来る。ミルトたちとは違い、狩るべき標的が人間だろうと躊躇や容赦をするような性格ではない。子供のような明るさの裏に無邪気な残酷さが潜んでいるのだ。フレッサーはその二面性に惹かれたのだから、間違いない。
フレッサーの感情の昂ぶりが急速に落ち込んでいく。何かとんでもない間違いを犯してしまったような気がしてならない。
「フレッサー、どうかしたの」
「い、いやなんでもねぇ」
クラフトの言葉に適当に応えて、フレッサーは早歩きでその場を離れ始める。
(俺は間違ってない。自分らしく生きることの何が悪い。あの時の俺はガキだっただけさ。今の俺は前とは違うんだ、女相手にビビるわけがねぇ!)
フレッサーは唾を吐き、地面を蹴飛ばす。強引に嫌な想像を掻き消そうと試みる。その努力も空しく、フレッサーの脳裏からノエルの視線が消えることはなかった。背後から突き刺さる強い日差しが、やけに不快に感じられた。
ノエル隊が州都に帰還するのと同じ頃。反乱軍がロックベルを発ち、大規模な兵力で州都を目指して侵攻中という報告がもたらされた。赤輪軍を称する反乱軍、総勢5千だ。
持久戦という読みを外されたグロールだったが、直ちに迎撃するように命じる。一部の慎重派は州都に篭り、敵に消耗を強いるべしと進言したが、グロールは怒声とともに一蹴した。たかだか反乱軍相手に、篭城するなど誰が見ても惰弱極まりない。しかも城下町は大した防備もないため、甚大な被害を受けることは確実だ。故にグロールは出兵し、野戦での殲滅を目論んだのだ。
グロールの判断、方針は間違ってはいない。だが、たかが賊の寄せ集めという“侮り”、早期殲滅せねば己の立場がないという“焦り”、兵力と装備で圧倒していると言う“驕り”。この三つの愚がグロールの判断力を曇らせ鈍らせることになる。それが致命的なものになるかどうかは、まだ分からない。
「これ程までの大規模な軍事行動に参加するのは、私も初めてだ。思わず胸が高鳴るというもの」
「それってただの風邪じゃないかな。ね、熱はない?」
「……眼鏡を掛けていないのに口が悪いな。それとも、それがお前の地か?」
「違うよ。前に友達から聞いたんだけど、人間はとても複雑な生き物なんだって。だから、一面だけじゃ測れないんだよ」
「ふむ?」
「世の中には人を沢山殺す善人もいれば、人を沢山救う悪人もいる。人間も太陽と同じで、色々な姿があるんだってさ。多角的に見ないと本物の形が見えてこないんだ」
哲学者のようなことを言うノエル。深い気もするが、やはり違う気がする。シンシアは首を横に振った。
「悪いが全く意味が分からん」
「眼鏡を掛けてても掛けてなくても、私は私ってことだよ。ね、なんだか良いことを言った感じがしない?」
「お前の話を真面目に聞いた私が馬鹿だったな。ほら、お前は大人しくそのラッパを吹いていろ。できるだけ静かにな」
シンシアがラッパをノエルの口に強引に突っ込む。ノエルは抵抗することなくそれを受け入れ、ぷおーと無意味に吹き鳴らした。
「……これだけの兵力、陣容ならば確実に我らが勝利する。反乱を一刻も早く収め、コインブラに平穏を取り戻さなければ」
『ぷおー』
「うるさい」
隊列を組んだ部隊が、指揮官の命令と共に反転して城を出発していく。コインブラ軍旗、天秤の紋章を誇らしげに掲げながら。シンシア隊の出番はまだまだ後だ。
城を出たらそのまま城下町を抜け、街道に出て反乱軍を迎撃する予定だ。
兵力で上回っていることを活かし、グロールは鶴翼の陣を敷くと明言していた。左翼と右翼で敵を包囲し、そのまま殲滅する。敵は軍規やら兵法とは無縁の人間ばかり。しかも数で劣勢なのだから、対処などできる筈がない。
シンシアは勝利を確信し、強く頷いた。
「凄い、もう勝ったって自信満々の顔してるよ。ほら、頬が緩んでる。まさに、今私は物凄い油断してますって感じ」
つんつんとノエルが頬を突くと、シンシアは手を振り払って慌てて否定する。
「そ、そんなことはない。今は気を引き締めているところだ! 油断すると足を掬われるからな!」
「ふーん。と、見せかけて実は緊張しているんでしょ。ほら、身体もなんだか震えてるみたい」
「ば、馬鹿なことを、言うにゃ!」
舌を勢いよく噛んでしまうシンシア。顔を顰めて必死に痛みを堪えているようだ。ノエルは本当に大丈夫かなと苦笑する。
後方を見回すと、表情を強張らせたミルトたちが口を真一文字にして立ち尽くしている。シンシア隊の古参兵たちも同様だ。彼らもある意味では初陣のようなものなのだから仕方がない。
ノエルは思わず空を見上げる。太陽の姿が雲で隠れてしまっている。あまり良くない感じだった。ノエルは少しがっかりした。
「ま、生きていれば何とかなるよ。そうすれば私は何度でも戦うし。最後には私が勝つってこと」
ノエルは呟く。要は白黒遊戯と一緒だ。戦いで何度か負かされたとしても、それはただめくられただけ。最後に引っくり返せば良いのだ。ゲブから教えてもらった幸せになる方法、“勝ち続ける”とはそういうことだと捉えている。経過はともかく最後に笑っていれば良いのだ。つまり、ノエルにとっての敗北とは、夢半ばで戦死する、進退窮まり降伏するの二つだけだ。敵に降伏するなどありえないので、死ななければ良いだけだ。
「だからね、もっと胸を張って余裕をもったらどうでしょうか。シンシア百人長」
「む、無論だ。だが、兵の命を預かる身としては、いたずらに余裕をもつことなどできぬ!」
「そっか。じゃあ仕方ないね。諦めよう」
もっとからかおうかと思ったが、ノエルは止めておいた。あまりやりすぎると拳骨を貰いそうだったから。
何だか眠くなったので、口を大きく開けて息を吐き出す。
「戦いの前だというのにその大欠伸。馬鹿者なのか、大物なのか判断に迷うところだな」
「もし大物だったらどうなるの?」
「そうだな、いずれは立派な将軍になって、私を率いて戦うというのはどうだ。百勝将軍を名乗りたいのだろう?」
シンシアが意地悪く笑うと、ノエルは素直に頷く。
「じゃあ私はその更に上、大将軍になろうかな。普通の将軍より強そうだし偉そうだよね」
「――だ、大将軍ノエル。……悪い冗談としか思えないから二度と言うんじゃないぞ。なにやら眩暈がするからな」
「最初に言ったのはシンシア。……あー、シンシア様じゃない」
呼び捨てにしようとしたため、視線で咎められる。慌てて様付けしたので拳骨は貰わずに済んだ。
「それで宜しい。私はともかく、他の士官が気にするからな。下手をすると鉄拳制裁を受けかねん」
そんなことを話しているうちに、シンシア隊の出発の時間となった。
馬を連れてきた兵から手綱を渡されると、それに飛び乗るシンシア。百人長からは騎乗が許されるようになる。手には長槍が握られ、全身は重厚な鋼鉄鎧で覆われている。兜の眉庇を下ろしてしまえば、女だということすら分からなくなる。
「シンシア隊出発するぞ! 全員、私に続け!」
『応ッ!』
シンシアが先頭に立ち、ゆっくりと馬を進めていく。それに合わせてノエルたちは出発ラッパと太鼓を打ち鳴らす。練習の成果はあったようで、今回は特に苦情が寄せられることはない。
槍を掲げた兵士たちがシンシアに続いて歩き出す。歩調を合わせ、隊列を乱さぬように。
ノエルは二又の槍を掲げ、ミルトたちを率いて歩き始める。装備は軍服の上に、鉄の胸当てと兜を身につけただけ。支給された鎧は薄い割りに、動きが阻害されるので気に入らなかったのだ。いざというときに邪魔になっては何の意味もない。
シンシアはあまり良い顔をしなかったが、前線に立つわけではないのだからと特に文句をいうこともなかった。
(私にとっても、これが初陣みたいなものかな。あそこで勉強したことが役に立つのかどうか、しっかり確かめないと)
ノエルは大事な友達の顔の後で、先生たちの顔を思い出してしまった。綺麗な思い出が黒く濁っていく。
この場にいたら頭から串刺しにしてやったのにと、ノエルは心から残念に思った。あいつらは、間違いなく敵だったから。
「それじゃ、頑張ろうね。これが初陣だよ」
「応ッ!」
ノエルが笑いかけると、村の若者達は腕を上げて意気を上げた。ミルトはついていけないとばかりに首を振るばかりだった。