第一話 晴れのち地獄
少女がいつからここにいたのかは分からない。
気がつけばこの古びた教会の中で暮らすのが当たり前になっていた。
教会の外には訓練を行なうための広場があり、それを囲うように巨大な壁がそびえたっていた。
外界との出入り口は重厚な造りの正門だけであり、そこには常に武装した衛兵が睨みを効かしている。
世界の情勢は“教育”の過程で叩き込まれたが、実際に見ることはできなかった。もしかしたら、見たことはあるのかもしれないが、少なくとも少女の記憶の中には外の景色は存在していなかった。
外の世界を感じることができるのは、空を見上げればそこにある大きな丸い物――燃えるように赤く輝く太陽を見上げた時だけだった。
だから少女は晴れの日が好きだった。空高く昇っている太陽を通じて、外の世界を感じられる気がしたから。いつもその温かい日差しで自分を見守っていてくれる気がしたから。何より、太陽は自分の髪の色と同じだ。
だから少女は雨の日が嫌いだった。降りしきる雨音で自分の存在を掻き消してしまいそうな気がしたから。自分を照らしてくれる大好きな日差しを、真っ黒な雨雲で遮ってしまうから。
そう、雨は嫌い。――特に、雨の日の夜は最悪だ。
「8番、13番前へ出ろ」
「はい」
「はい」
先生の言葉に従い、木製の剣を握って立ち上がる。
「始めろ」
無感情な合図と同時に、実戦形式の演習が始まる。
この教会にいる子供たちには名前がない。相手を呼ぶときには先生たちが決めた番号が用いられる。先生は一人前になったら“陛下”から名前が与えられると言っていた。自分で名前をつけても良いかと尋ねたら怒られたので、それ以来聞いてはいない。名前というのは、特別なものだということは分かった。
数合打ち合い軽く牽制しあった後、少女は振りかぶって渾身の一撃を繰りだす。赤髪の8番の少年の頭部を掠める。その隙を突いて、8番の少年が蹴りを放ち勢いのまま少女を押し倒す。剣が喉に突きつけられたところで待ての声が掛かった。
「8番、良くやった」
「ありがとうございます」
「それに比べて13番、お前は本当にどうしようもないな。物覚えは悪く、動きも鈍い。愚鈍とはお前のためにある言葉といえよう。でき損ないめ」
「ごめんなさい」
「お前が生きていられるのは、ひとえに陛下のご厚情なのだということを忘れるな。本来ならば、既に始末されていてもおかしくないのだ」
「はい、分かりました」
白服を着た男たちは先生と呼ばれており、教会にいる子供たちに“教育”や“訓練”を行っている。そのやり方は本当に容赦がなく、今までに数人が不幸な事故でいなくなってしまった。
少女は先生が大嫌いだった。先生は何人もいて、少女には誰が誰だか上手く認識できない。先生の中でも偉い人がいるようなのだがよく分からない。皆同じような顔だから仕方がない。覚える気は全くない。殴られたり蹴られたり、悪口を言われたりするから好きになれるわけもない。
一番うんざりするのは、先生たちのありがたいお言葉を聞くときだ。先生たちは“教育”と“訓練”が終わった後はいつも同じことを繰り返すのだ。
『偉大なるベフナム陛下に最大の敬意と心よりの感謝を捧げよ』
『祖国に絶対の忠誠を誓え』
『太陽の御旗に決して逆らうな』
『ホルシード帝国に逆らう者には死を。我々はそのための剣となり、盾となる』
一体何を感謝しなければいけないのだろうか。どうして忠誠を誓わなければならないのか。命を捧げるほどの恩義など、一度も受けた覚えがない。だから剣になどなりたくない。身代わりの盾になるなどもってのほかだ。少女にはそうする理由がさっぱり分からなかったので、先生に正直に尋ねてみた。
「建国の祖、ベルギス帝の血を受け継ぐベフナム陛下は、この世で最も尊きお方だ。陛下がおられるからこそ、我々は幸福と安寧を享受することができる。故に、我々は陛下に絶対の忠誠を誓い、その恩に全力で報いなければならないのだ」
少女は今の暮らしが幸せだとは全然思わなかったので、やっぱり意味が分からなかった。それが正直に表情に出てしまったので、先生は語気を荒げだした。
「いいか、13番。陛下、そして偉大な帝国に対し疑問を抱くことは絶対に許されない。お前はベフナム陛下を父と敬い、祖国であるホルシードを母と思えば良いのだ。決して忘れぬよう、その不自由な頭にしっかりと刻み込んでおけ!」
これも良く分からなかったが、怒られるのは嫌だったので頷いておいた。ついでに、陛下のことをお父さんと呼んでもいいのかと尋ねてみた。父ということは家族である。家族ならば、お父さんと呼ぶのが当たり前だ。
すると、先生は顔を真っ赤にして怒り出し「不敬なことを言うな」と叫び少女を殴りつけた。このでき損ないめと怒鳴り散らしながら、何度も何度も蹲る少女を蹴り付けた。
この日から少女は“陛下”のことが大嫌いになった。こんな目に遭うのも全て“陛下”のせいなのだ。父と敬えなどという言葉など理解できるはずもない。
よくよく考えると太陽の御旗に逆らうなという言葉も理解できなかった。あの旗は全然太陽に似ていない。本物よりも小さいし、余計な飾りが一杯ついている。あれは全くの偽物、太陽なんかではない。私よりも、お前たちの旗の方ができ損ないだと少女は強く思った。
8番の少年にそう話したら「また怒られるから、それは先生に言わない方が良いよ」と忠告されてしまった。
8番とは赤い髪同士なのに考え方が違うらしい。8番に、本当にあれが太陽に見えるのかと尋ねると、
「うん、僕には立派な太陽に見えるけど。ほら、あの線が日差しを表しているんだよ。よく特徴を捉えてるよね」
と言っていた。人それぞれなのだなと少女は思った。
教会でのつまらない日々は続く。同じくらいの年頃の子供たちと、“教育”と“訓練”が毎日毎日毎日続いた。晴れの日も雨の日も雪の日も、朝も昼も夜も延々と。
読み書きは勿論、難しい言葉も覚えるまで徹底的に叩き込まれた。敬礼や目上の人間への態度、言葉遣いもだ。先生が上官となり、失敗すれば指導という名目で体罰が与えられた。
それらが一通り終わると、陛下や帝国に逆らう愚か者を滅ぼすための兵学や、本格的な戦闘術も教育に加えられた。これが一体何の役に立つのか少女が尋ねると、殴られた後でこう言われた。
「お前が一人前になったとき、陛下のお役に立てるようにだ。今まで育てて頂いたご恩を返すためにも、お前たちは精一杯励まなければならぬ。……まぁ、おまえが“試験”を生き延びられるとは到底思えんがな」
“別に育ててもらいたくないので、今すぐ外に出してくれ”と言おうと思ったが少女は我慢した。また反省部屋に入れられるのは嫌だったから。真っ暗の部屋の中で『陛下のために尽くします』と狂ったように一日中唱えていなければならない。とても疲れるし声が枯れてしまうので、少女は死ぬほど苦手だった。
こんな暮らしを繰り返しているうちに、少女は“陛下”のことが死ぬほど嫌いになった。敬うどころか殺してやりたいと思うようになった。
そんな糞みたいな日々の中での唯一の楽しみは食事だけだった。他の子供たちも同じようで、この時ばかりは穏やかな笑みを漏らしている。少女も笑いながら、他の子供たちと楽しく一緒に食べた。
だが、ある日から食事がつまらなくなった。先生から、黒い液体を飲むように告げられたからだ。身体をとても丈夫にする薬とのことだが、濁りきったその液体は泥水にしか思えない。他の子供たちは大人しく飲み始めるが、少女にはとても耐えられない。見掛けも嫌だし、何よりも臭い。錆びた鉄のような味がする。
少女が嫌だと首を横に振ると、先生に顔を殴られ、強引に口を開けられて流し込まれてしまった。
息が苦しくなると同時に、猛烈な吐き気に襲われる。胸の奥が焼けるように熱くなり、喉を逆流して生温かい物が溢れ出てきた。
「拒絶の反応が早すぎるな。指示通りに限界まで薄めたのか?」
「ええ、間違いありません。他の子供同様、慣らし用のものです」
「……ある程度の個人差は予想していたが、それにしても異常すぎる」
「なに、こいつが特別なのでしょう。なにせ、驚くほどのでき損ないですから。……助かりそうもありませんし、とっとと始末しますか?」
「いや、とりあえず手当てはしてやれ。試験までは耐えられないだろうが、次に行う“暁計画”の参考にはなる。材料は無駄なく使わなければな。それが出来損ないであろうともな」
「承知しました。隔離し、引き続き観察を行ないます」
少女は三日の間生死の淵を彷徨ったが、奇跡的に助かった。その日以来、あの黒い液体を飲んでも大量の血を吐くことはなくなった。
だがその代償に視力の大半を失ってしまった。少女には“でき損ない”に加えて、“失敗作第一号”の称号が与えられてしまった。
限界まで近づかないと人の顔が分からなくなってしまったが、大体は声で判断できるのでそんなに問題はなかった。それに8番の少年が色々と助けてくれたので、それほど不便のない生活を送ることができた。
一番辛かったのは、大好きな太陽をその目で上手く見られなくなったことだ。温かい日差しは感じるが、あの燃えるような輝きがぼんやりとしか映らない。
その代わりに、雨音だけは今までよりもくっきりと聞き取れるようになってしまった。少女はがっかりした。
最高につまらない教会での暮らしは更に何年も続いた。最初からいた子供たちは段々少なくなっていき、その代わりに新しい子供たちが次々に入ってきた。最初は百人以上いた仲間たちは半分に減り、その分だけ補充されてきた。いつの間にか番号は200まで増えていた。
新しく入ってきた子供たちは、番号ではなく自分の名前を既に持っていたが、この教会でそれを名乗ることは禁止されていた。逆らった子供は少女の大嫌いな反省部屋へと入れられてしまった。
暫くの間は、寝る時に泣き声が止むことはなかった。それを聞いていて、少女も少し悲しくなった。
塞ぎこんでいた新入りの子供たちも、慣れてくると徐々に打ち解け始めた。夜の泣き声は止み、笑い声が漏れるようになってきた。少女も嬉しくなってきた。
彼らは外の世界のことを沢山知っていた。その話はどれも興味深く、少女は頭に刻み込むように全力で話に聞き入った。
中でも123番の少年は物知りで、話も面白いため一番の人気者だった。先生たちの目が届かない時に、外の世界はどんなに素晴らしいのかを楽しそうに語ってくれるのだ。少女はそれに聞き入ることで、外の世界を沢山感じることができた。123番の顔は上手く認識することができなかったが、お日様みたいに笑う元気な少年だったことは覚えている。
123番は、それから半年後に身体が腐り落ちて死んだ。痛い痛いと最後まで嘆き苦しみながら。楽しい話を聞くことは二度とできなくなってしまった。少女はがっかりした。
同じ部屋になった150番の少女は一番の友達だった。いつも泣きそうな顔で声を悲しそうに震わせていたが、ある時だけはその声がとても明るくなった。寝る前、外の世界から隠し持ってきたという絵本を読んでくれる時だ。
彼女が持ってきた絵本は、ノエルという名前のヘンテコな猫が、村を飛び出して世界を旅して回るという物語。少女は絵本に書かれている文章が認識できなかったので、毎晩150番が声に出して読んでくれた。150番の布団に潜り込み、二人が疲れて夢の世界に旅立つまで。
150番の絵本は本当に面白いのだが、一つ気になることがあった。持って来たのは1冊だけなのに、いつも話の展開が違うのだ。出会う人間や動物はその日によって変わるし、訪れる場所も違う。ときには怖い赤鬼をやっつけるような話もあった。触らせてもらった感じでは、それほど厚い絵本ではないはずなのに。
どの物語でも共通するのは一つだけ。どんなお話でも、最後は必ず“幸せになりました”で締めくくられた。だから少女はいつも安心して話に聞き入ることができた。
だって、悲しい話はつまらないから。
一番惹き付けられたのは、ノエルの友達のカラスが太陽に向かって飛び立つ話だ。もうすぐ到着というところで、カラスは炎に包まれて焼け死んでしまった。焼け死んだカラスは空に輝く星のひとつになったという物語。少女は心から羨ましいと思った。身体がなくなっても、あの暖かい太陽の側にずっといられるのだから。きっと、カラスは幸せだったに違いない。そう言うと、150番は不思議そうに唸っていた。普通はそういう風に考えないそうだ。
ある晩、どうしても気になった少女が『絵本は一冊しかないのに、どうして毎回違う展開になるのか』と尋ねると、
「……これは不思議な絵本だから。読むたびに違うお話を、この本が勝手に作ってくれるの。ね、凄いでしょう」
150番はそう言って笑っていた。少女は凄いお宝だねと褒めたのだが、150番の声はなんだか悲しそうに思えた。それがどうしてだったのかは、顔が上手く見えなかったので良く分からない。
彼女に絵本を読んでもらう度に、少女は一つの夢を抱くようになった。猫のノエルのように、自分も幸せになりたいと。
150番にどうしたら幸せになれるか尋ねると、
「私にも良く分からない。だから、もし生きてここから出られたら、一緒に探そうよ」
と痩せきった身体で抱きしめてくれた。少女が強く頷くと、「約束の約束だよ」と150番は辛そうに薄く笑った。
そして、150番はその次の日に死んだ。朝起きて声を掛けた時には、彼女の身体は冷たくなっていた。何度揺すっても、その目が開くことは二度となかった。
駆けつけた先生の話では、ここ最近食べ物を全く受け付けなかったらしい。
「お前たちのせいだ。あんなに黒くて変なものを飲ませるから」
「……実験に失敗はつきものだ。この犠牲は必ず役に立てて見せる」
「……お前が死ねば良かったのに」
「…………」
殺意を篭めて少女は睨み付ける。いつものように殴られるかと思ったが、先生は何も言わずそのままどこかへ行ってしまった。
夜、少女がトイレに行こうとしたら明かりの漏れる部屋から声が聞こえてきた。
『陛下から、計画についての詳細を報告するように催促がありました。監査官である私が報告書を出したにも関わらずです』
『私が改めて提出するから、お前は何も心配する必要はない』
『監査官たる私の報告書を、横槍を入れて握りつぶした理由をお聞かせ頂けますかな。これは明らかに越権行為です』
『教える必要はない。計画は順調、報告すべきはそれだけだ』
『順調とは笑わせてくれますな。ここ数ヶ月で実験体の死者数は増える一方、だが成果は一向に上がっていない。陛下が望まれている目的の達成は現状では困難、いや不可能に近い。責任者を更迭し、計画の建て直しを提案する。……私の報告書に、何か間違いがあったでしょうか』
『見解の相違だな、監査官。私の黎明計画は至って順調だ。陛下のご期待を裏切ることもない。この成果を活かし、本命たる次の暁計画で完成を迎えるのだから』
『残念ですが、それは無理でしょうな。実験結果の一部に改竄を発見しましてな。貴方の部下が証言してくれましたよ』
『……申し訳ありません。ですが私たちは、もう貴方についていけません。貴方の暴走の巻き添えを食うのはご免です』
『将来ある子供達の生命を浪費し、あまつさえ陛下を欺こうとする始末。貴方には全ての責任を取ってもらいます』
『いまさら逃げ出すというのか、偽善者どもめ。貴様たちも同罪だぞ。こちら側で何人の幼き命を奪ってきたのだ。ここで足を止めることこそ、彼らの犠牲を無駄にする行為だとなぜ分からん。何があろうと、誰が何を言おうとも計画は遂行する』
『とにかく、貴方の身柄は一旦拘束させていただく。抵抗はしないで頂きたい、手荒な手段は――』
『……私の黎明計画を、偉大なこの計画を今更中止になどさせてたまるものかッ!』
そんな怒鳴り声の応酬が先生たちの部屋から聞こえてきたが、特に興味がなかったので気にしなかった。叩きつけるような激しい音、何かが割れる音、そして幾つもの悲鳴があがった後、騒ぎはようやく掻き消えた。
少女は150番のことを忘れないようにと、絵本を形見にすることにした。大事な宝物として、いつまでも持っておくつもりだ。この絵本がある限り、150番のことは絶対に忘れない。雨が降っても掻き消されることはない。
とはいえ、しばらくの間少女は何かをする気力が全く湧いてこなかった。今までで一番がっかりしたし、とても悲しかった。もう寝る時に絵本を読んでくれる人はいないのだ。一緒に笑いあうこともできない。
でも、150番との約束は守らなくてはいけない。約束は守らないと駄目だと150番も言っていた。物語でも約束を守らなかった猫のノエルは大変なことになっていた。だから、絶対に約束は守る。
少女は外の世界に出て幸せを探す前に、まずは手近なところから実行することにした。
『どうしたら幸せになれるか』と、先生や衛兵、子供たちに暇を見つけては聞いて回った。
子供たちは良く分からないと首を捻った。
先生は「陛下のために尽くすことが最も幸福なことだ」、「黎明計画が成功したとき、至福の喜びが訪れるだろう」などと偉そうに語ってくれた。衛兵も似たようなものだった。
本当に使えない奴らだと少女は思ったが、適当に頷いておいた。反省部屋に入っている暇などない。忙しいのだ。
子供たちはとても興味深そうに話を聞いてくれた。残念なことに幸せになる方法は誰も知らなかった。だが、少女は同じ夢を抱く仲間を見つけることができた。
「僕も外に出たら、一緒に幸せになる方法を探したいな。ねぇ、もし良ければだけど、僕もついていってもいいかな?」
8番の少年がそう言うと、皆が口を揃えて俺も、私も、じゃあ僕もと少女の下に集ってきた。少女は笑いながら、いいよと快く受け入れた。仲間は幾らいても困らない。多いほうが良いに決まっている。
子供たちの数は50人まで減っていたが、最後の最後で全員が本当の仲間になることができた。本当に良かったと少女は心から思った。
終わりの日がやってきた。
この試験が終われば、今まで生き残った子供たちには陛下から名前が与えられる。
8番の少年が、絶対に生き残ろうと手を握り締めてきた。少女も勿論と頷き返した。全員の顔を見渡すと、皆同じように頷いていた。
「諸君、今までよく耐え抜いてくれた。黎明計画の最終段階が、今日いよいよ実行される。この試験を生き残れば、諸君は人間を超越した存在として生まれ変わる。それはまさに“太陽の化身”と呼んでも過言ではない」
疲れきった声で先生が子供たちに語る。そういえば、いつからかこの疲れた声の先生しかいなくなってしまった。最初に何人いたのかは分からないが、今ではこの先生だけだ。
先生の顔はやつれて頬がこけ、白髪頭はぼさぼさだ。目元は窪み、身体の肉は削げ落ちて、まるで骨が動いているようだった。いつもは汚れ一つない白衣は、所々に鮮やかな赤い染みが付着している。
「黎明計画は決して失敗ではない。今日まで犠牲になった同胞の命を無駄にしないためにも、諸君らには必ず生き残ってもらいたい。私の、私の計画は、間違っていなかったという証のためにもだ。そう、計画は失敗などでは断じてありえぬッ!」
先生は激昂しながらグラスに黒い液体を注いでいく。今までとは比較にならないほどの黒。本当に真っ黒だ。目が悪くなってる少女にもくっきりと分かるほどの闇。
「最後は私も諸君に付き合おう。同志の魂を捧げて再現した“太陽の血”、この身をもって味わうことができるは至上の悦びだ」
先生が口元を歪め、澱んだグラスを掲げる。子供たちも同じようにグラスを掲げる。
「黎明計画成功を祝して、ホルシード帝国の更なる栄達を祈って。――乾杯ッ!」
先生が真っ先に飲み干し、覚悟を決めたように目を瞑る。
子供たちもそれに続いて口に含んでいく。
少女は遅れて乾杯と呟いた後、グラスを嫌々飲み干した。これが最後だと自分に言い聞かせて。ようやく自由になれるのだから、我慢しなければ。
「…………あ」
それが間違いだったと、直ぐに気付かされた。お腹が焼けている。いや、お腹だけではない。全身が燃えている。先生が悲鳴を上げて倒れ伏せた。他の子供たちも、一人を除いて全員くずおれている。
少女はあまりの苦しさで叫ぼうとしたが、声が全く出てこない。口からは赤いものが飛び散り、目や鼻からも何かが流れている。キーンと高い音が聞こえ、目の前が赤く燃え盛る。お日様の日差しとは違い、全然嬉しくない。
何が起きているのかは分からなかったが、一つだけ少女には分かった。これで、自分は終わりなんだということを。迫り来る“死”をはっきりと感じながら、少女の意識は闇に落ちていった。
闇に落ちる前に、赤黒い何か――稲光のようなものが迸ったが、少女の意識は既になかった。
頬に冷たい物が当り、少女は目を覚ました。辺りは真っ暗で、ここがどこなのか分からない。耳障りな羽音のようなものと、ポタポタという水滴の音は聞こえてくる。
身体を動かそうとするが、何か柔らかい物や硬い物が邪魔をして身動きができない。仕方がないので、強引にそれらを掻い潜り、明るい方に向かって這い出ていく。何かが手にこびりつき、ぐちゃりと嫌な音がする。身体にまとわりつく泥と何かが気持ちが悪かった。
巣から這い出た蟻のように、何とか外へと抜け出ることができた。息を激しく荒げながら、その場に力尽きたように寝転ぶ。
雨で地面はぬかるみ、尖った砂利が身体に食い込んで痛い。冷たい雨が身体を打ち、体温を奪っていく。
とりあえず雨から逃れようと立ち上がり、周囲を見渡したとき、自分が一体どこにいたのかが分かってしまった。
少女が這い出てきた巣は、ただの穴ではなかった。正しくは、墓穴というのが相応しいだろうか。墓穴は一つだけではなく、周辺に何個か掘られている。
最初は理解できなかったが、穴の中には死体で埋め尽くされていた。よく見ると、見覚えのある顔が幾つかある。
教会からいなくなった子供たちはここに放り込まれていったのだろうか。古い死体は白骨化しているが、新しい死体はまだ原形を留めていた。死体に群がるように蛆虫が湧いている。先ほどの羽音は、成長した蝿が原因だった。
土が被っていないのは何故かは分からない。獣が掘り起こしたのか。それらしい獣たちの屍骸が穴の周辺に横たわっている。死体を一口貪ったところで、獣は何故か死んでしまったらしい。その口からは吐瀉物の残骸が溢れていた。
「…………」
怖くなった少女が後ずさりすると、別の墓穴に足を取られてしまった。ぐにゃりとした嫌な感触がして、思わず飛びのく。
少女が踏んでしまったのは女の子の死体だった。顔は半分崩れているが、どこか見覚えがある。死んでしまった150番だった。
150番の顔だけははっきりと分かる。一番の友達だから。何とか穴から引き上げようとしたが、腕の肉が剥がれてしまい、上手く行かなかった。掌に、どろりとした肉片や皮がくっついてしまった。とても怖くて気持ち悪かったが、はたき落とす気にはなれなかった。
「これじゃ、一緒にいけないね」
少女がそう呟いて手を離すと、死体は力なく崩れ落ちた。目から温かいものが溢れてくる。
幸せになれなかったらこうなるんだ。それが分かってしまった少女は悲しくなり、その場に跪いて思いっきり泣いた。泣いて泣いて泣き喚いた。雨は更に激しくなり、泣き声は完全に掻き消されてしまう。
声が枯れるまで泣いた後、少女はあることに気が付いた。以前のように、周りが見えるようになっていることに。雨で濡れた顔を拭いながら、少女は立ち上がる。
「私は、生き残った。私だけが、生き残ったんだ」
泣きながら少女は笑う。怖くて悲しい気持ちを上回る、別の感情が湧き上がってきたから。――それは歓喜だ。
自分は生き残った。これで幸せになる方法を探すことができる。皆との約束を守ることができる。それができるのは自分だけ。
「…………」
懐に大事に入れておいた絵本を取り出す。雨と土でぼろぼろになってしまった。
150番の死体を見る。ここに置いて行くより、持って行った方が喜んでくれる気がした。
「……名前。名前は、どうしよう」
生き残ったら名前をくれると先生は約束していた。その先生は多分死んだのだろう。別にそれはどうでも良い。全然悲しくない。
だが、生き残ったのに墓穴に捨てたことは許せない。約束を破る人間は屑である。だから、あいつらの言葉など絶対に守らない。陛下のためになど誰が働くかと、少女は枯れた声で腹の底から叫んだ。
しばらく叫んだ後、少女は墓穴の横で寝転んだ。名前をどうしようかと泥に塗れて考える。
「ノエル?」
少女は150番の絵本を開く。滲んでしまっているが、帽子を被った猫の姿がかろうじて残っている。
「ノエル。……そうだ、ノエルにしよう。私の名前は、今日からノエル」
少女は自分の名前をノエルにすることに決めた。帽子を被ったヘンテコな猫のノエルは、色々な場所を旅して、最後はいつも幸せになった。ノエルのように、自分も幸せになってみせる。そう強く思った。
今の自分は13番じゃない。ノエルなんだ。そう頷くと、両手で泥を一杯に掬い上げる。墓穴にその泥を被せ、少しずつ埋めていく。野ざらしのままは可哀相な気がしたから。ただそれだけだ。彼らは確かに仲間だったのだから。
全部の穴を埋め終わった時、雨は止んでいた。変わりにノエルの大好きなまんまる太陽が空高く上っている。
疲れきったノエルは、太陽の日差しを浴びながら、その場で寝ることにした。
「やっぱり、晴れた日が一番好き。だって、身体と心が温かくなるから。きっと、皆も喜んでるはず」
ノエルは静かに笑いながら、ゆっくりと目を瞑った。
幸せになる方法を探そう。そして必ず幸せになってみせる。そうすれば皆も喜んでくれる。だから、頑張ろう。何度も何度も心の中で繰り返しながら、ノエルは光の中でまどろんでいった。