第六話 The Shelter〈猫屋敷〉
揺れる。
お尻が揺れる。
イシャータは今、草むらの中から一匹のトカゲに狙いをつけていた。おっと、これではいけない。狩猟猫のキャンノは言っていた。
(猫は獲物を目の前にするとみんな気が焦ってお尻を揺らすの。これじゃ相手に気付かれるもとだし、ダッシュが遅れるわ──)
なるほど、言われてみないと案外気付かないものだな。イシャータは深呼吸し、もう一度狙いを定める。
──今だ!
タイミングを見計らい標的に飛びかかるとイシャータは右脚で見事トカゲの尻尾を押さえることに成功した。──が、左の爪を出すのを忘れていたためワン・ツーが遅れた。その隙にトカゲは尻尾を自ら切り捨てて逃げていく。
テーテレレーテレレーレレーレレー♪
──GAME OVER──だ。
イシャータは右脚の下でクネクネと踊る尻尾を見つめ、溜め息をついた。
──こんなんじゃあ佐藤は喜ばないな。
“佐藤”とは先日イシャータが拾ってきた子猫のことだ。なんのことはない。“佐藤”という表札の下に捨てられていたから佐藤と呼んでいるだけのことだ。
──私はつくづくバカだな。自分の面倒すらみれないっていうのに。
喪失を背負い、空腹の坂を越えると今度はそこに孤独が広がっていた。漠然とではあるが、孤独とは──長い長い鎖に繋がれながらも大草原を走り回る権利を持っていること──そういうイメージが昔からイシャータにはあった。はたしてこの鎖はいったいどこまで伸びているのだろうと疑問に思った時、その先にたまたま自分と同じように捨てられた子猫がいた、というだけの話だ。
──あの子を助けたかったというより、どちらかといえば私が誰かに必要とされたかっただけではないだろうか?
そんなことを考えながら、イシャータはまたあの『観察』を行った屋根に一匹上った。
今日も街は動いている。キャンノは狩りをし、ミューラーはおべっかを使う。ただ一匹、ペイザンヌとかいう焼きたてのソーセージのような毛並みをしたあの猫……。今日は空き缶をなにやら真剣に見つめている。時折こちらをチラチラ見ているようにも思えるが、あの猫だけはいったい何を考えているのかイシャータにはさっぱり見当がつかなかった。一度接触してみる必要があるのかもしれない。だが、それによって何か得になるのかといえばそうでもないような気もする。
──まさか私に気があるというわけでもあるまい。
イシャータは苦笑した。そういえば飼い猫だった頃、イシャータは何度もノラに言い寄られたことがあった。ノラの分際で飼い猫を口説こうとするなんてどれだけ厚かましいのか。当事のイシャータにとっては屈辱でしかない記憶だ。──ただ、一匹を除いては。
月の光に反射して銀色に輝く毛並。シルバーマッカレルタビーと呼ばれる種に分類されるあの野良猫。天涯孤独で生まれた時から“鳥”に育てられ、“鳥の名前を持つ”などと大法螺を吹いていたあの猫。
──彼の名は……。
イシャータはほんの一時だが、甘美でほろ苦い思い出に浸っていた。だが、何を思い出したのか急に顔色を曇らせたかと思うとおもむろに頭を振り、キッと正面を見据えた。
──いや、やっぱりノラなんか信用できるもんか!
一方、ペイザンヌといえば缶を突っついているうちにその切り口で肉球を切ってしまったらしい。いったい何をやってるんだか。やはりコンタクトの必要はなさそうだ……。
視線をずらすとギノスが例の“穴堀り作業”をしている。その姿を見て、イシャータは先日交わしたロキとのやりとりを思い出して憂鬱になった。ロキはギノスの手下であり“泥棒猫”である。
(あなただってどうしてもエサに困ることあるでしょ? その時には必ず食糧を提供するから──)
あんな情報を得るためにまったくの口からでまかせを言ってしまった自分自身をイシャータは呪った。
それと同時に、イシャータは何かを今、感じていた。
何かが閃きそうなのにあと一歩が出てこない。それはアイデアの種火のようなモヤモヤした“何か”であるのだが、はたしてそれがいったい何なのか自分でもよくわかってない。出かかっているくしゃみが出てこない時の心境にも似ている。
思えばギノスがああして食べきれない食糧を地面に隠しているのは何度も見たことがある。しかし不思議なことにそれを掘り返しているギノスの姿をイシャータは一度も見たことがないのだ。
これは何故なんだろう?
この矛盾の答えを求め、イシャータはしばし考え込んだ。もちろん自分が『観察』をしていない深夜のうちにこっそり掘り起こして食べているのかもしれないが、それにしては何かがしっくりこない。
なぜならこれはギノスだけでなく他の野良猫たちにも当てはまる奇妙な共通点だったからだ。
ぼんやりそんなことを考えているうちにイシャータの視線は“猫屋敷”に辿り着いて、止まった。飼い猫だった時から噂だけは聞いて知っている。なんでも一人暮らしのお婆さんが住んでいて、迷い猫や負傷した猫の面倒をみてくれるという《猫の駆け込み寺》のようなところだと聞く。うまくいけば佐藤の分だけでも食糧を分けてもらえるかもしれない。
イシャータはそう考え、ひょいと屋根を降りた。ひとまずギノス一派のことや、あのへんちくりんな猫、ペイザンヌのことは後回しだ。
“猫屋敷”は今にも崩れ落ちそうなあばら家だった。
入口にも関わらず〈出口〉と書かれた表札を見てイシャータは首を傾げたが、こっそり中に入ってみると外観とは裏腹に意外と広い庭があった。
イシャータをまず迎え入れたのは数えきれないほどの目、目、目だった。
これにはイシャータもたじろいだ。さすがに猫屋敷というだけあって老若男女の猫がひしめきあっている。
「う、あの、私は──」
挨拶しようとしているイシャータから皆の興味を奪ったのは、この屋敷の主である出口のお婆さんが運んできた大量のエサだった。
あまりに猫の数が多いのでお婆さんは数ヶ所に分けてエサ場をつくっているようで、巨大な皿に柄杓を使って丁寧に料理を取り分けていた。
それはまるで猫たちのためにわざわざ調理されたかのごとく美味しそうな湯気をたてている。
イシャータはゴクリと唾を飲み込んだ。
出口の婆さんはそこでようやく見なれないシャム猫の存在に気付いたらしくイシャータをジロリと睨んだ。とても歓迎されているとは思えないその表情を見て、イシャータはミューラーの演技指導のほどを少し試してみることにした。
トコトコと可愛らしく近寄るとお婆さんの目を見つめる。
きゅーんと鼻を鳴らし、モジモジする。
んで、ついでにうるうるしたりする。
ここでイシャータは少しお婆さんの様子を伺った。さほど変化はない。むしろ機嫌を損ねたかのようにもみえる。
イシャータはめげずにお婆さんの足にすりすりして台詞を言った。
『私はお婆さんが大好きで~す。私、とってもお腹がペコペコなの……くすん』
「…………」
長い沈黙の後、お婆さんはえっこらせとしゃがみ込んだ。そしてイシャータの顔を確かめるようにジッと見つめると、ニッと皺くちゃな顔で笑った。
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柄杓を片手に追いかけてくる出口の婆さんの攻撃を交わしながらイシャータは門扉を飛び出していった。
「話が違う!」
イシャータはミューラーの顔を思い浮かべて毒づいた。
──ここでも受け入れてもらえないのか。あんなに猫がいるのにどうして私だけダメなんだろ?
とぼとぼとねぐらに帰りついたイシャータを待ち受けていたのはさらなる追い討ちだった。“佐藤”が昨日食べたものをすべて戻してぐったり横たわっていたのだ。
「佐藤!」
病気ではないようだが目に見えて体力が落ちているのがわかる。みゅうみゅうとか細く鳴いている声だけがかろうじてその小さな生命の存在を感じさせた。
やはり生の魚や骨では仔猫には重すぎたのだろうか。
──柔らかいフレークや粉ミルクが必要なんだ……。ああ、どうすればいいんだろ?
焦りと混乱のまま走り出し、気が付くとイシャータはある一軒の家の前にた立ちはだかっていた。
“侵入しやすいバカな人間の家”
それは泥棒猫ロキの情報だった。
──あぁ、神様、許してください、私じゃないんです、佐藤のためなんです……。
イシャータは“使う予定がなかった貯金”を今、早くも下ろそうとしていた。