第二十六話 Booby-trap〈罠〉
シースルーは今、必死に“予言”と戦っていた。
彼が予知した未来。その〈未来〉は今や臨界点を迎え、沸点へと達し、目の前で〈現在〉へと姿を変えつつある。
“鳥の名を持つものがあなたを押し潰すだすろう”
ザンパノに向けたその予言を覆せるかどうかはおそらくこの瞬間にかかっていると言ってよかった。
黒猫フライの尻尾がくねりと動き、“問題なし”の合図を確認したシースルーは周辺を慎重に警戒する。
“異物”の存在が気に掛かってはいるが今のところそんな気配は感じられない。
いける──そう判断したシースルーはザンパノをちらりと見ると目で語りかけた。
『いいね、ザンパノ。打ち合わせた通りいくよ。大丈夫、奴はまだ気付いてない。この“罠”に──』
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「ヴァンを助けな!」と、勢い勇んで走り出した佐藤だったが気合いだけで打ち勝てるほど自然の猛威は甘くはなかった。
十歩進んでは押し返され二十歩進んでは足をとられる。
「あかん、こんなんじゃN区に着くまでには朝になってまうわ……」
(力だけで向かっていこうとするからだ。もっと頭を使え──)
ふと、ヴァンの言葉を佐藤は思い出したが、そんなアドバイスがこの状況下で役に立つのかどうかすらピンとこない。だが、しかし……。
──焦ったってしゃあないわ。もう一度落ち着いて整理してみるんや。
佐藤は頭の中で問題点を箇条書きにし、順序立てて考えてみることにした。
[問]
佐藤くんは仔猫です──
a : 佐藤君ができるだけ早くN区に辿り着くためにはどうすればよいでしょう?
b : 佐藤君ができるだけこの“風”をガードするためにはどうするのが一番よいでしょう?
c : 体力の落ちている佐藤君が<a>と<b>を同時に遂行するための最善の方法を答えなさい。
──この方程式には必ず答えがあるはずなんや。いや、待てよ……。
佐藤は何か引っ掛かるものを感じた。
──ボクはこの答えを既に一度見ている……?
どこで?
何を?
佐藤は目を線にして記憶の糸を手繰り寄せた。
「…………ああっ、そうや!」
小さな子猫は今来た道を急いで戻り始めた。
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〈 鮮 魚 馬 場 〉
そうペイントされた軽トラの荷台に佐藤がそっと潜り込んだのは馬場トミオがエンジンをかけたまさにその時だった。
「ボクは天才や!!」
佐藤はウホウホと興奮した。
「やっぱりな!(何でか知らんけど)さっき冷蔵庫の扉を開けてくれたんは魚屋の馬場や。N区から来たってことはN区に帰るってことやもんな! 少なくともこれで大幅に時間が短縮できるはずや」
じゃりじゃりと地面を踏み潰すタイヤの音を聞きながら佐藤は荷台にこびりついている干からびた魚の骨をコリコリとかじった。
「おまけにこれで少しは体力も回復できるわ」
だが──しばらく走ると佐藤は自分がとんでもない間違いを犯していることに気付いた。次第に多くなってくる人間、そしてネオン。
「うわ!!」
車はこともあろうかN区とは真逆に向かって走っているではないか。佐藤の目は飛び出んばかりに見開かれた。
「え、えらいこっちゃ。コラ、馬場! うわ! うっわ~! どこに行こうとしてんねん、このオッサン?!」
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いつまで待っても仕掛けて来ようとしない相手に対し、俺は先制攻撃をかけることにした。
勢いよくジャンプし、挨拶代わりに爪を出す。
さくりとヤツの耳の根元を裂いた。
「?!」
これがあまりにも簡単にヒットしたもんだから驚いたのは俺の方だった。
着地するとすぐさま次の攻撃に移る。後方に回り込み脚の腱でも切ってやるかと振りかぶったがさすがにコイツは奴も嫌ってくる。
俺はヤツの体にしがみつくようにして再度爪を立てた。
『ミャウッ!』と悲鳴は上げたものの分厚い肉の壁に対しそれがキいているのかいないのか、どうにも手応えを感じない。
「痒いぞ、ヴァン=ブラン」
ブルルと体を震わすと俺は横にはねのけられた。
フン、こんな闘い方じゃあ佐藤のやつに笑われるな。
「おい大木、ずいぶんとツレないんだな。ちょっとはそっちから仕掛けてきてみたらどうだ?」
俺がそう罵声を浴びせると同時にヤツは大振りでブンブンと前脚を振り回してきた。
「いいね、そうこなくちゃな!」
思った通りだ。
割った竹のように巨大なヤツの爪。その一撃は怖いものの攻撃のスピードといえばまるで縄跳びの“お入んなさい”のレベルだ。俺はひょいひょいと交わしながら拝殿の方に誘い込み賽銭箱の上に飛び乗った。
「さあ、来てみろ。上れないってんならダイエットを手伝ってやる」と軽口を叩いたものの意外にヤツの動きは俊敏だった。
ふわりと浮き上がるとウェイトのわりには静かに着地する。だが、俺はヤツが風によろめいた一瞬を見逃さなかった。ジャンプしてバランスを崩したヤツの上にそのまま全体重をかけて覆い被さる。その重みでヤツの前脚を賽銭箱の隙間にねじ込んでやったのは最初から考えていた作戦だ。
「ニャッ!…………フギッ?!」
よし。
ヤツめ、右の前脚が完全にハマってしまって抜けないらしい。さて、こうなったら俺の一匹舞台だ。の、はずなのに──
何だっていうんだ。さっきから俺の腹の奥底に潜んでいるこの違和感は?
何かが、変だ。
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何が変なんですか? 母さん。
私の名は馬場トミオ。三十三歳……いや、もうすぐ三十四歳になる。独身貴族(超絶死語)だ。
私は今、S区の歌舞〇町へ向かって車を走らせている。行き先は──
ああ、母さん。すみません!
しかし、しかしですよ!
私はですね、日々、社会のルールを守り、真面目にコツコツ働いてるんです。
とは言え……とは言え、私だって人の子! そう、あなたの子! そして健全な一男子なのです!
た──
たまには、私だって女の人達にチヤホヤされたいっ!
そう、たとえそれがキャバ嬢であったとしても……!
たとえそれが束の間の夢だったとしても……。
変ですか? 間違ってますか? 母さん?
かあさぁーーーーーーーーーーん !!
フッ。
間違ってますよね。
そう、だって、私にはもう愛するあの人がいるじゃ、ありませんか。なのに、そんな場所に行こうとしてたのは彼女の愛に対する冒涜だ。裏切りだ!
そう、こんな時は常に財布に入れて持ち歩いている“あの人”の写真を眺めて心を落ち着かせるとしましょう♪
いえ、盗撮なんかじゃありませんよ!
「いい景色だなぁ~」と思ってカメラを向けたところにたまったま、ホントにこれがタマッタマ、彼女が偶然にも立っていただけです!
ああっ!!!!
ないっ!
昨日なけなしの三万円を入れていたはずの財布がないっ!
し、しまったぁ……!! 忘れてきたかぁ?!
く……くっそぉ~! ちっくしょおぉぉぉぉぉっ!!
オホン、
まあ、
今日のところは帰るとしましょうかね。
ち、違いますよ。
こ……これは、その“彼女の愛に私が目覚めたからであり、決して金を、財布を、忘れたからなんかじゃありません!
本当です!
チェッ……。
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馬場トミオの軽トラがUターンを始めたのを感じ、荷台の佐藤は『ショーシャンクの空に』のポスターばりに大袈裟に天を仰いでみせた。
「た、助かった! なんや馬場のヤツ。きっと道を間違えただけなんや。ヒヤヒヤさせよって、まったく……」
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右腕がすっぽり賽銭箱にハマッてしまい、ヤツは空いた方の左腕を大雑把に振り回した。そうやって右往左往しているうちに鈴緒に触れてしまったらしく本坪鈴が大業な音を立てて揺れた。
がらんがらん!!──
「どうした。神にでも祈ってるつもりか?」
じたばたともがくヤツの額にミギナナメ一本と、ヒダリナナメ一本、俺は傷を入れてやった。
『ゾロ』の“ Z ”よろしくヴァンの“ V ”を刻印してやったつもりだったが、なるほど、猫の額とはよく言ったものだ。狭くて書きづらいったらありゃしない。
憤慨したヤツの夜目はギラギラと燃え、何とか右腕を賽銭箱から引っこ抜こうとしている。が、そうはいくものか。今度は力まかせに頭突きを喰らわせる。
鼻から垂れ落ちようとする血をペロリと舐め上げるヤツの顔を見て、またも俺の中に先程の違和感が蘇ってきた。
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馬場トミオの軽トラがN区のギンザ通りにある自宅に辿り着いたのは午後10時15分だった。
ここからなら氷川神社はそう遠くない。
──勝負が長引いていればまだ間に合うはずや。
佐藤は荷台から飛び降りると猛ダッシュで走り始めた。
「ここまで来たんや、もう風によろめいている暇なんかあらへん!」
佐藤は風の動きに合わせ、向かい風にぐっと体を縮めては走り、追い風に乗ってはスピードを上げた。
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相手にダメージを与えれば与えるほど俺の中の警報は音を鳴らす。
『おかしい……こんなものなのか? S区のボス猫の力とはこんなものなのか?』
そんな余計なことを考えていたせいか、俺はヤツの右腕が賽銭箱から抜けた一瞬を見落としてしまっていた。
しまった!──そう思った時にはもうヤツの熊手のような爪が眼前に迫っていた。
俺は救いの蜘蛛の糸のごとく垂れ下がった鈴緒に間一髪で飛び付いたものの、後ろ足をザックリやられてしまった。
類人猿のようにぶら下がったまま、振り子の勢いでヤツをなぎ落としそのまま着地する。
傷を負った足に雷のような衝撃が走る。
「!!」
だが、モタモタしてるわけにはいかない。賽銭箱から引っこ抜く時、そうとう生皮を剥いだらしいヤツの前足に俺は思いきり牙を立てた。
「!!」
揉み合いながら俺は仰向けになったヤツの柔らかい腹部に爪を突き刺す。
ヤツは呻き声を上げながらその間、何度も何度も俺の背中をその“熊手”でガツガツと刺した。
その攻撃に歯を喰い縛りながらも俺はいつの間にか笑っている自分に気付く。
沸々と血が騒ぎ、魂が震える。
今の俺は体中が刃だ。
今の俺は狩りを楽しむ虎だ。いや、ライオンだ。
俺は爪を立てたままヤツの顔を力まかせに抑え付け、さらには後ろ足の爪を出して腹をざくざくと切り付け、さらに蹴りつける。
これが止めと牙でヤツの首を仕留めた時、俺の喉はゴロゴロと歓喜の音を奏でた。
──勝った!
荒れ狂う風の中、俺は雄叫びを上げた。
「勝ったぞ! ザンパノを仕留めたぞ。俺だ。俺が、S区の新しいボスだ。S区はこれより我々のものだ!」
やがてぐったりと力の抜けた俺の耳に入ってきたのは佐藤の声だった。
「ヴァン!」
──なんだ、あいつめ。どこへ行ってやかった?
俺は血にまみれた前脚を上げて笑った。
だが佐藤は慌てふためいた表情で必死に何かを伝えようとしている。
「……うねん! …………パノ …………ない!」
「?」
「ヴァン、後ろや!」
俺は振り返った。
だが、そこにはぐったりした“ザンパノ”の巨体が横たわっているだけである。
ゾクリと悪寒がはしった。
首が重い。
“何か”が俺の首根っこにぶら下がっている。
目の前に寝転がっている“ザンパノ”は息も切れ切れに“眠たげな眼差し”でこう言った。
「ヴァン=ブラン……。“鳥の名を持つもの” 。残念だけど僕は、一言だって“自分がザンパノだ”なんて名乗った覚えはないよ」
その時、俺はさっき佐藤が何を言わんとしたかをはっきりと理解した。佐藤はこう言いたかったのだ。
『違うねん! そいつはザンパノやない!』と。
今、俺の喉笛に深く噛みついてぶら下がっている、こいつ。
『片目』の『チビ』。つまり──
俺が今まで闘っていたバカでかいヤツ。そいつはヤツの手下のシースルーであり、逆に今までシースルーだとばかり思い込んでいたチビこそが……。
──ザンパノ?! こいつがザンパノ?!
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黒猫のフライは笑うでも恐れるでもなくただ無表情にその風景を見つめていた。ぼそりと呟いた言葉が“風”に舞う。
「ヴァン。オレの勝ちだ──」




