第二十二話 Into dark side〈邪心〉
「おい」
黒猫のフライは誰かに呼び止められびくりと背を丸めた。
人間であれば目立ちたくない時は路地裏を歩くのであろうが困ったことに猫というものは何故かその路地裏を好む。よって猫が目立ちたくない場合には逆に表通りを行くのが正解なのだ。だが、それにも限界があった。
「おい、おまえだ。そこの黒猫」
フライは恐る恐る振り向く。はじめはそこに鏡でも置いてあるのかと思った。声の主は自分と同じ毛色の黒猫であった。黒猫は睨みをきかせる。
「同じクロ同士でこんなことは言いたかないが、貴様、S区の猫じゃないな?」
そう。フライは今、この縄張りのボス、ザンパノとの交渉に向かっているのだ。
黒猫は赤い舌を見せ、背中を少し立てた。シャーッと蛇のような警戒音が不気味に響く。
──まずい。
フライはいつでも逃げ出せるよう、後ろ足の筋肉に力を入れた。
が、次に響いてきたのは黒猫の笑い声だった。
「……な~んてな。ギノス様から話は聞いてる。おまえ、ヴァン=ブランの使いの者だろ?」
「?」
フライはなんとなく情況を理解し、肩の力が抜けた。なるほど、こいつはギノスがS区に忍ばせてあると言ってた“潜入捜査官”だな。
「だがそんななりじゃ遅かれ早かれ囲まれて袋にされちまうぜ。N区の匂いがプンプンしてら」
黒猫は『見ろ』と言わんばかりに塀沿いにある電柱を顎で指した。
「あそこはザンパノの手下やらS区の上層部がよく使っている“トイレ”だ。悪いことは言わん。少しばかり匂いを“なすりつけ”といた方がいいぞ」
フライは目を細め、引きつった笑みを見せた。
「じょ、冗談──」
黒猫は微笑み、そして首を横に振る。
「…………じゃないみたいだな」
フライは渾身の力でもってぐねぐねと電柱の下の地面に体を擦り付けた。
──くそ! なんで俺がこんな目に……くそっ! くそっ! 今にみてろよ、ヴァン!
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S区酔いどれ横丁。居酒屋『どら猫』の跡地──
ありがたい“カモフラージュ”のおかげでどうにかここまで辿り着くことができたフライだったがそれを真似してS区の匂いを体中に擦り付けた猫がもう一匹いた。
フライの後をこっそりつけてきた佐藤である。佐藤は探偵ごっこをする子供のようにワクワクと胸を踊らせフライの様子を遠目から覗いていた。
そんなことなどまるで知らないフライはその錆びれた建物を仰ぎ見る。ギノスたちの情報が正しければザンパノはここを塒にしている。場所は合っているはずだが『どら猫』という昔の看板はすでに取り外されていて、その代わりに真新しい看板がこう自己主張していた。
[BARBAR BABA]
──床屋に改装するのか……?
フライは首を傾げた。
さて、どこから入ったらいいものやらとフライは鼻をヒクつかせる。何処かにヤツらが出入りできる〈猫専用〉の出入口が必ずあるはずだ。
そう踏んで店まわりをぐるっと一周探ってみたところ案の定、丸々一枚ガラスの抜けた窓を見つけた。脇にある薄汚れた黄色いビールケースを踏み台にしてそこから侵入しようとしたその時、フライは地面についている巨大な足跡に気付いてギョッとなった。
──な……なんだこりゃ?!
自分の前足をその足跡にペタリと当てはめ、フライはぶるりと震えた。デカい。やはり噂は本当なのか?
怖じ気づく心を押さえ付けたのは脳裏に浮かんだヴァンの顔だった。
──くそったれ。このまま手ぶらで帰れるかよ!
その時、頭上で何か動いたような気配がしたのでフライは窓の方を見上げた。いつの間にか窓枠に小さなサビ猫がちょこんと座りこちらを見下ろしている。佐藤より少し大きいくらいだろうか、一見すると子猫と間違えてしまいそうなほどだった。サビ猫はまるで今目覚めたといわんばかりに眠たげな目で「誰だ? おまえ」とフライに言った。
おそらくはザンパノの手下であろうと推測してフライは「俺はN区から使いで来たものだ。ザンパノ殿に話がある。どうか繋いで頂けないだろうか?」と答える。
サビ猫はフライの顔をしげしげと眺め「入れ」と短く答えたかと思うと建物の内側へひょいと飛び降りた。フライはゴクリと喉を鳴らすと意を決し、しなやかな動きでその後に続いた。
その一部始終を見ていた佐藤はフライと同じようにビールケースの上に飛び乗ると、そのまま立ち上がる格好で前足を窓枠に引っ掻けこっそり中を覗き込んだ。
──いよいよザンパノが見れる!
夕刻も迫り屋内は暗い。が、それは夜行性の猫にとってはどうでもよいことである。さほど広くはないが、建物の中は居酒屋の跡地らしく埃を被ったカウンターやテーブルがあった。
最初フライはそのカウンターの上に放置された巨大なゴミ袋が動いたのかと思った。ゴミ袋から腕が生え、そして足が生える。蘭々と光る眼が開き、のそりと起き上がった時にようやくフライは自分が誰に会いに来たのかを思い出した。
──こいつが……ザンパノ。
「黒猫、名前はなんだ? おまえの名を言え……」
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『あれがザンパノ……? うわ、でっか! なんやねんアレ。うっわ、めっちゃデカっ!』
佐藤は鼻の穴を広げんばかりに興奮していた。
そして不本意ながらこうも思った。
──アイツとヴァンが闘うところを見てみたいもんや。
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「お、俺の名はフライ……」
「フライ……? フライ= “飛ぶ” =鳥… 。鳥、鳥! 鳥っ!!!!」
「落ち着きなよ、ザンパノ。どちらかといえばフライは“蠅”だ。“鳥の名前”じゃないよ」
興奮するザンパノをシースルーが少年のような声でなだめる。
──なんてこった……。
フライは言葉が出なかった。
あまりの驚きで心臓が破裂しそうだったが必死に足の震えを隠した。とにかく今は成すべきことを成さねばならない。フライは体勢を整え直して告げた。
「俺はN区のヴァン=ブランの使いでやって来た」
「ヴァン=ブラン?」
シースルーのヒゲがピクリと反応する。
「我々は主を失い野良になった三十匹の猫だ。N区とS区の堺にある公園一帯を開放してもらうべく交渉に参上した。ザンパノ殿の寛大な心使いを求める次第である」
「そりゃまた随分と都合のいい要求だな。それで我々に見返りはあるのか?」
「ない」
フライはきっぱりと言い切った。ここは何度もヴァンに念押しされた場面だ。
「ただし、条件として公園以外の貴殿の縄張りにはいっさいの干渉はもちろん、手を出さないと約束する」
「断る。……と言ったらどうする?」
「その時は我が将であるヴァン=ブランがS区全域のボスの座をかけて貴殿に闘いを申し込む」
「…………」
ザンパノはゆっくりと立ち上がる。外光に照らし出されたザンパノの顔を改めて見たフライは何故やつが極端に外出を嫌うのかがわかったような気がした。
──醜い。
片目は完全に潰れ、毛は膿のようなもので所々固まってしまっている。そこには“外見”というものに今までさんざん苦しめられてきたのだろう、ザンパノの生きざまが刻印されていた。
「勝てるつもりか? この俺に」
「ヴァンは手強いぜ?」
「ザンパノ、そいつだよ」
「?」
シースルーがゆっくりと顔をもたげる。
「聞いたことがあるんだ。“ヴァンブラン”というのは確か鳥どもの小話に出てくる主人公の名前だよ。流れ的にみてもどうやら彼こそが“鳥の名を持つもの”らしいね」
『さっきから何故こいつらはこれほど“名前”にこだわるのだろう』とフライが思っている間も、シースルーの頭の中ではコツコツとパズルのピースが埋められていく。
「おそらく未来のシナリオはこうだ。ザンパノ、君はこいつらの要求を断る。そしてその“ヴァン=ブラン”と対決することになり、敗れる。それが予言の答えなんだと思うよ」
ザンパノは低く唸った。
「ならばおまえはこいつらの要求を飲めというのか?」
「別にいいんじゃないのぉ? あんな公園の一つや二つくれてやったって。そこはさほど重要なポイントじゃないよ」
シースルーは可笑しそうにくっくと笑う。
「ほ、本当か?!」
未来だとか予言だとか何を言ってるのかよくわからないがフライにとってこんな風に簡単に話がまとまってくれるならばそれに越したことはない。
「そのかわり──」
またきた。『だったら』『それなら』『そのかわり』は絶体に御法度である。
「そのヴァン=ブランってヤツの命と引き換えってことでどうだろう?」
フライは十秒ほど瞬きをするのを忘れていた。
「? ? ? ──」
こいつらがヴァンに何か恨みでもあるというのであればともかく、フライにはこの交換条件の意図がさっぱりわからなかった。フライが戸惑っているその間、シースルーはザンパノにそっと囁いていた。
「他はさておき“鳥の名を持つもの”、これはこの予言の最重要キーワードだ。この脅威だけはどうしても取り除いておかなければならない。それに、ほら、ザンパノ」
そう言ってシースルーはザンパノにフライの額を促した。
「見て、あの黒猫の額にある白いスティグマ。あれこそが“第三の目”だ。彼こそが“第三の目を持つ猫”だよ。彼は“鳥の名を持つもの”を倒す方法を知っている」
シースルーはフライに向き直り単刀直入に問い詰める。
「ねえ、黒猫、どんな経緯でここに来たか知らないけど、君さ、そのヴァン=ブランって奴に対して邪な感情を抱いてるんじゃない? 恨み辛み? 過去の因縁? もしくは嫉妬とか……。僕もいろいろ考えたんだけどさ、そうでなければ辻褄が合わないんだ」
フライは胸の内を見透かされたような気がしてドキリとした。そしてシースルーはフライのそういう微妙な表情を決して見逃すことはない。
「だって君はヴァン=ブランを裏切る運命にあるからね。君は彼の弱点、もしくは彼を倒す方法を知ってるね? それと引き換えならあの公園くらいくれてやってもいいって僕らは言ってるんだよ。ねえ、ザンパノ?」
予想だにしていない展開にフライは混乱した。
──裏切る? 俺が? ヴァンを?
シースルーは目を閉じた。
「黒猫。君ね、一国一城の主になれるよ。そう遠くない未来、自分自身の縄張りを持てるんだ。嘘じゃない。僕にはその姿が見えるんだ。何を言ってるんだって思うかもしれないけど、僕はね、未来が見えるんだ」
「俺が……一国一城の主?」
「協力してくれるよね。君もヴァン=ブランが邪魔なんだろ? お互いの利害関係は一致しているし、悪い話じゃないと思うんだけどなぁ」
「待て! 勝手に話を進めるな」
「君は戻って“交渉は決裂した”と伝えればいい。そうすればそのヴァン=ブランはザンパノと対決することになるだろ? そこで僕たちは手を組み彼の命を奪う。そうだな…………『公園は勇敢なヴァン=ブランの死を讃え、寛大なる心のザンパノが譲渡する』という筋書きにすればいいんじゃないかな」
シースルーは説法を説く僧のようにとくとくと語り、フライに考える隙を与えようとしない。
「ふざけるな。もし裏切りがバレたら俺は破滅するんだぞ!」
シースルーはにっと笑う。言葉の節々にフライの心が傾きかけているのがありありと見て取れるからだ。
もう一息だ。
「大丈夫、バレやしない。なぜならヴァン=ブランは死ぬから。“死んだ猫は口無し”だから」
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──ウラギリ? ……ヴァンがシヌ?
どうにも話が呑み込めない。佐藤はこの場に漂う不穏な空気を確かに感じていた。なにか良からぬことが起きようとしているのではないか……という。
一語も聞き流すまいと佐藤はピンとその小さな耳を立てた。
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まるで血が逆流しているようだった。フライは身体中の毛穴から変な汗が流れ出るのを感じた。
──なんだこれは? 俺はただ交渉に来ただけだろ? なのに何故、俺はこんな話をこいつとしてるんだ?
「さあ、取引に入ろうよ。君はそのヴァン=ブランを倒す方法を知ってるね? いや、知ってるはずだ」
「…………」
フライは頷いた。頷くというよりは目をきつく瞑って、ただ首を縦にゆらゆらと動かしているようにも見える。
「確かに……この方法ならヴァンを九割がた倒せる。だが、倒すだけじゃ駄目だ。確実に息の音を──」
シースルーは目を蘭々と輝かせた。
「……止めてもらう。これが条件だ」
ガシャガシャ! ガシャン! ドタッ!──
窓の外からビールケースの崩れる音が響いた。
「誰だっ!」
(にゃ、にゃお~ん♪)
「なんだ、猫か……」
「バカッ、俺たちも猫だっ!」
シースルーはハッとなり、窓の外へ走り出した。
「曲者だ! なんとしても捕まえろ!」
ザンパノの怒号の前にフライも走り出していた。
──まずい…………誰だか知らんが今の会話を漏らされるわけにはいかない。何としても!
賽は投げられたのである。




