第十九話 Dog fight〈人間たちの言葉〉
「マズい……」
佐藤はその巨大な目玉と向かい合いクラクラと意識がトリップしてしまいそうな感覚に陥っていた。
大粒の雨がゴミ集積所のポリ袋に当たってビタビタと不安な音をたて始めている。
──なんぼなんでも犬はマズいわ。
空が光ってから音がガラガラと鳴るまでのタイムラグが先程より短い。雷が段々とこちらに近付いてきているという証拠だ。
佐藤の耳にイシャータが後ろで“フーッ”と牽制する声が聞こえた。
「佐藤、ギリー、いい? ゆっくり下がって。ゆっくりよ」
その言葉が聞こえたのかそうでないのか二匹の子猫はピクリとも動かない。
「佐藤! 何やってんの、早く」
「ちゃ、ちゃうねん。ギリーが……」
ギリーは目を見開いたまま完全に固まってしまっていた。腰が抜けているのかガクガクと小刻みに震えている。
「ギ、ギリー? 大丈夫やで。ボクが絶対に、絶対に守ってやるさかい」
そんな映画さながらの台詞を伝えている佐藤ではあったが、不本意ながらイシャータは舌打ちした。
──どうする? たとえ自分が“おとり”になったとしてもこのままじゃギリーが逃げることができない。
犬が牙を見せ三匹を威嚇する。敵意を剥き出しにして吠えたててくるその声にイシャータはなかば諦めの気持ちで目を瞑った。
(ヴァン…………!)
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巨大な体が今にも三匹に飛びかからんとしたその時、再び空一面に広がる暗雲を雷光が三度照らし出した。
そして次にその雷の音がゴロゴロと鳴るまでのほんのわずかな時間の中、イシャータの目の前でふわりと空気が揺れたかと思うや否や犬が悲痛な叫び声が上がった。
その研ぎ澄まされた爪で犬の鼻の頭をひと掻きした銀色のヴァン=ブランはまるでドンデンを返したかのごとく突如イシャータたちの目の前に現れ、悠然と犬の前に立ちはだかっていた。
佐藤とギリーを庇うようにぐいっと一歩前に出る。
「ヴァン!」
ヴァンは視線を犬に向けたままニッと笑った。
「佐藤、あそこが見えるか。ブロック塀の上でフライが待ってる。そこまでギリーとイシャータを守れるな?」
「で、でも、ギリーが」
「ん?」
ギリーはヴァンが現れたことにすら気付いてないほどカチカチになったままである。
「ギリー、許せ」
ヴァンは後ろ脚でギリーの尻尾を思いきり踏みつけた。
「ふぎゃあぁぁぁ!!」
ギリーの体がビクリと跳ね上がり、その声に驚いたのか犬が一歩後退した。
「ヴァ、ヴァ、ヴァ、ヴァ~ン!」
しがみついてこようとするギリーをヴァンはその長い尻尾で制した。
どしゃ降りの中、ヒゲをつたってリズムよく滴り落ちていく雨の雫と、怒りにも似たその真剣な表情。その横顔を見つめイシャータはヴァンに初めて会った時のことを少なからず思い出していた。
「いいな、佐藤。俺が合図したら思いっきり走れ。イシャータもだ」
「あ、合図って何やねん?」
「さあな。チョイナチョイナとでも言うか?」
「そりゃ合図やのうて合いの手やんけ」
──無理や! いくらヴァンでも犬を相手に喧嘩なんて正気の沙汰やない!
ヴァンは佐藤に囁いた。
「よし、じゃあ俺が尻尾をピンと立てたら走れ。いいな、佐藤。それが合図だ」
「う、う、う、うん。わかった!」
そう言うとヴァンは足元に落ちている“物体”をそっと手探りで確かめる。そして蛇のように尻尾をくねらせた。
再び攻撃体勢を整えた犬に向かってヴァンの威嚇の声が響く。低音と高音を使い分け、その類まれな腹式を見せつけるかのごとくヴァンは“声”で相手をめった刺しにする。一瞬たりとも目を背けない。
佐藤のヒゲがピリピリと震えた。
──す、スゴい……。
相手が怯んだその隙を見計らい、のたうち回る蛇のようなヴァンの尻尾が瞬時に鉄の棒と化し天を向いた。
──合図や!
「ギリー、イシャータ! こっちや!」
三匹が脱兎のごとくかけ出したその瞬間、ヴァンはその足元に転がる“スイッチ”を思いきり踏んだ。
バッ!──
棄てられていたジャンプ傘が勢いよく開いた。
突然、目の前に巨大なものが現れ犬はたじろいだ。水しぶきが顔に浴びせかかる──が、それも一瞬。その正体が傘だと分かるとヴァンのほうに襲いかかってきた。
「ギリー、佐藤! こっちだ!」
フライが塀の上で前足をバタつかせている。
イシャータとギリーははずみをつけてジャンプしたが佐藤はヴァンの方を振り返った。
透明な傘のため、常に相手の襲ってくる方角がわかる。ヴァンは傘の内側に入り込むと器用に柄の部分を操作して犬の攻撃をことごとくガードしていた。犬が右に回れば傘を右に、左に回れば左に。くるりくるりと回りながら身を守る姿はまるで芸者のように優雅ですらあった。
「犬と……闘っとる………………」
ヴァンはどしゃ降りの中、自分の体の五倍はあるであろう犬を相手に五分で闘っていた。その必死の形相の中にはまるで闘っていること自体を楽しんでいる表情さえ見てとれる。
佐藤はポカンと口を開いていた。
「スゴい……やっぱりヴァンはすごい……」
うれしさと悔しさが入り雑じった複雑な気持ちで佐藤は歯を喰いしばった。胸に熱いものが込み上げてくる。
ヴァンはここぞという場面で開いたままの傘の先端を犬の額に思いきり突きつけた。『うきゃおん!』と、悲鳴が聞こえた時、ヴァンは既にこちらに向かって走り出していた。
「佐藤、跳べ!」
ヴァンの攻防に見とれていた佐藤はハッと我に返り、慌ててのブロック塀の上に跳び上がった。ヴァンもすぐにその後に続く。
塀の上に到達するとヴァンはびしょ濡れの体を二三度震わせ、荒い呼吸を整えた。全員の無事を確かめると最後に大きく息を吐き、片方の前足を上げ佐藤にハイタッチを求める。
「やったな」
夢か現かまだわからぬ様な表情のまま佐藤もそれに応え、二匹の足と足がパシンと音を立てた。そして五匹は塀の向こう側へと同時に飛び降りた。
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その夜ギリーは屋敷の屋根の上で今日起こったことを思い返していた。その下ではヴァンが自分の傷を舐めているのが見える。その傍らでは佐藤がヴァンに何か話しかけているみたいだがここからでは聞こえない。
きっとオス同士の話なんだな。
ギリーはそんなことを想像した。
ヴァンは私のことを守ってくれた。尻尾を踏まれたのは許せないけど──
ギリーはニヤニヤしながら目を閉じる。
──ヴァンだけじゃない。サトーもイシャータさんも私のことを必死になって守ろうとしてくれた……。仲間がいるってことはこんなにも素敵なことなんだな。そして私は今、きっと幸せなんだ。どんなにつらいことがあっても苦しいことがあってもきっときっと私は今、幸せなんだな……。
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「どうした? 今夜はずいぶんおとなしいんだな」
ヴァンは腕の傷を舐めながら佐藤の方を見た。
「ボクはヴァンのことズルい言うた……」
「?」
「ヴァンはズルくなんかあらへん……ぜんぜんズルくなんかあらへんのに──」
佐藤は涙が溢れてどうしようもなかった。止まらなかった。自分が情けなかった。
「ズルいのはボクや。ボクは……ボクは最低の猫や……」
ヴァンは佐藤の頭の上にポンと脚を置いた。
「ヴァン、ボクな、強くなるねん。ぜったい、ぜったい、強くなんねん」
佐藤は肩を小刻みに震わせていた。ひっくひっくという呻き声がヴァンの耳にも届く。
「泣くな。強いオスは泣かんぞ」
「泣いてなんかへん……」
「いいな、佐藤。強さを履き違えるんじゃないぞ。確かに強くなければ生きていけん。だが、優しさがなければ生きていく価値がない」
佐藤はしゃくりながら尋ねた。
「それ、ヴァンの言葉なん?」
「いや、受け売りさ。これは俺の言葉でも鳥たちの言葉でもない。これは……」
ヴァンは少し照れ臭そうに笑ったが次の瞬間きっぱりとこう言い切った。
「これは人間たちの言葉だ」
「if I wasn´t hard,I wouldn´t be alive.if I couldn´t ever be gentle, I wouldn´t deserve to be alive… 」〈タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない〉
レイモンド・チャンドラー著『プレイバック』より引用させて頂きました。




