第二話 Isharta of the stray cat〈野良猫のイシャータ〉
──捨てられた?
そのことをイシャータはすでに頭の中ではわかっていた。だが心と体がうまく反応しない。
『そんなことあるもんか。きっと旅行にでも出掛けてるだけだ。それにしたってご飯も置いていかないなんて、そそっかしいな御主人様は。ひょっとして驚かそうとしてんのかな?』
(私たちがおまえを置いていくわけないじゃないか。ビックリしたかい? イシャータ──)
(なぁんだ。まったく子供っぽいな御主人様は 、あは、あははは──)
そんな仮説を五十も六十も考えてみたが猫の想像力にも限界がある。これ以上明るいイメージなど逆立ちしても出てこなかった。家族の声がしなくなってからまる三日間、イシャータは玄関先に座り続けた。
時おり通りかかる人間たちが食べ物を渡そうと手招きすることもあったがイシャータは頑なにそれを拒んだ。そんなことは『飼い猫』としてのプライドが許さなかった。だが──
待てど暮らせど“御主人様”が帰ってくる気配は微塵もなかった。空を見上げるとお日様までが自分をあざ笑っているように思えてくる。イシャータはその視線から顔を背けるようにうつむいた。自分の足は嫌いだった。足が見えるってことは自分が今、下を向いているということだもの。そんなことを考えながら──
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その日の夕方、とうとうイシャータはその重い腰を上げる決意をした。立ち上がったその瞬間から彼女は野良になるのだ。だが、そんな切迫した状況にも関わらず容赦なく腹は減る。そのことがイシャータの屈辱に拍車をかけた。
『こんなに悲しいのにお腹がすくなんて、なんてカッコ悪いんだろう──』
生まれてこのかた空腹感など味わったことのないイシャータはその珍味をただ苦々しく噛みしめることしかできなかった。
あてなどあるはずもない。
イシャータの足は自然と〈ギンザ通り〉と呼ばれる商店街へと向かった。『野良猫』たちのテリトリー。彼女の“かつて”の散歩道へ。
──とにかくあそこに行けばなんとかなるだろう。ノラの連中はいつもあそこで何かを食べてるし。
だが、その日に限って町はやけに清潔感に溢れているように見えた。歩けど歩けど食い物どころかゴミひとつ落ちてない気がする。そもそも腹が減ってから食料を探すこと自体が間違いなのだ。体力のあるうちに確保しておくべきだったと後悔してもすでに遅かった。
突然、新聞配達の原付バイクが後ろから走ってきた。慌てて飛び退きなんとか避けることができたがイシャータはそのまま道脇にへたへたとしゃがみこんでしまった。
それが功を成したというわけではないが、低い姿勢にあるイシャータの目が自動販売機の下に落ちている“あるもの”に気付いた。
──あれは、お金だ!
それも千円札だ。御主人様たちがこれを使っているのをよく見たことがある。食い物と交換できる魔法のチケットだ!
イシャータは細い爪でそれを掻き出すと口にくわえ意気揚々と魚屋へ向かった。
──とにかくお腹さえ満たされれば、きっといい考えも浮かぶはずだわ。
小さな希望と束の間の安心であるがそれだけでも今のイシャータの心を軽くさせるには十分な材料だった。まるで体までもが宙に浮いているようだった。
……が、それは気のせいではなかった。
気が付くとイシャータは四人組の小学生の一人に首根っこを持ち上げられていたのだ。
「見ろよ、やっぱり金だぜ」
「千円じゃん、うぇーい、ラッキー!」
子供たちは残酷にも彼女の最後の希望を今にも奪わんとしていた。イシャータは千円札をくわえた顎と牙にぐっと力を込めて抵抗する。
──このお金を奪われるわけにはいかない!
「こいつ、離さねえぞ。くそっ!」
小学生とはいえ彼女にとっては巨人だ。必死に耐えてみせるがそもそも体力が著しく低下している。イシャータは地面に頭を押さえつけられ無理やり口を開かせられるととうとう金を奪われてしまった。挙げ句には横腹に蹴りまでお見舞いされ道端に転がった。
「何か食おうぜ!」と、小学生たちは無情にも走り去っていく。
みじめだった。
イシャータは絶望的な気持ちでしばらく立ち上がることさえできなかった。