第十七話 99 gone away〈99 (後編)〉
(わかったわ、ヴァン=ブラン。あなたがもし100日間、休まずに私の庭の前で、私の聴いたことのない歌を100曲歌ってくれたらその時は考えてやってもいいわ──)
イシャータとそんな約束をしたちょうど半分の50日を過ぎたあたりでヴァンはひどい熱にうなされた。昨晩、雨ざらしの中で歌い続けたからに違いない。
もうすぐ夜中になろうとしているのに立ち上がるのさえ必死な状態だった。そんな状態にも関わらずヴァンの中からまた新しい歌は生まれてくる。
──これはいい。これはサイコーだ! この歌をあいつに聞かせないでどうする。
朦朧とする意識の中、ヴァンはやっとの思いで立ち上がったがヨタヨタと歩くので精一杯だった。
▼▲▼▲▼▲
──ほらね、思った通りだわ。続くわけないのよ。
イシャータは勝ち誇っていた。しかし……
なんだろう、この気持ちは?
モヤモヤした感覚で眠れない。
──何よ……ちょっと遅すぎやしない? マジでやめちゃうわけ?
イシャータは思い切ってベランダに出てみることにした。ヴァン=ブランがフラフラと庭に入ってきたのは丁度その時だったのでイシャータはドキリとしてしまった。二匹が顔と顔、そして目と目を合わせたのは約40日ぶりとなる。ヴァンはニヤリと笑みを浮かべると『レディース & ジェントルマーン!」とおどけて見せた。息づかいが荒い。体調が悪いのは誰が見ても明らかだった。
その夜の曲は今までの中でも最高の出来だったといえるがそれを歌うヴァンの声といえばガラガラでそれはそれは酷いものだった。
──何よこれ? 聞いてらんないわ……。
そんな気持ちとは裏腹に、それはイシャータが初めてフルコーラスをベランダの上で聴いた夜となった。『あの映画ではこのエピソードの結末はどうなっていただろう?』そんなことを考えながら。
▼▲▼▲▼▲
65日目の朝、ヴァン=ブランに異変が起きた。
曲がうまく完成しないのだ。
こんなことはヴァンにとっても初めてだった。歌が閃かないわけではない。ただ、納得がいかないのだ。得体の知れない焦りの中、なんとかその夜は歌い終えることが出来たものの初めてヴァンは“歌う”ということに恐怖を覚えていた。
その日からヴァンにとって地獄の日々が始まった。
75日目。
まるで“乾いた雑巾”を絞るような日々が続いている。本来、“無”から何かを作り出すということは突き詰めて言えば自分自身と向き合う作業に他ならない。
俺は本当にイシャータのことが好きなのか? ただクローズのことを忘れようとしてるだけじゃないのか?──そんなことに始まり、
こんなことをしてイシャータが本当に振り向いてくれるのか?──と続き、
そもそも俺はいったい何をやってるんだ? 毎日毎日メスの気を引くためにこんなことをやってる日々に何か得るものなどあるのか?──と、さらに重みを増す。
そういった様々な疑問が行列をなし、ヴァンの答えを待ちわびている。まるで底のない奈落に向かってどんどん落下していく気分だった。最後には、いつしか──
『俺とは何者なのだ?──』
『何のため生きている?──』
そういった数多の流星群をかわしながらつるつると滑る氷の上を走り始めなければならなくなる日がくるだろう。それは、そう、さほど遠くない未来に。
85日目。
ヴァンは憔悴していた。
どうしても心の奥底から歌が生まれてこないのだ。幸か不幸か耳を澄ませばメロディは溢れてくる。くるのではあるが……。
『俺は一度だって努力をしたことがあるだろうか?──』
『俺の歌なんて完成された絵に半紙を乗せて“なぞっている”だけじゃないか──』
また、昨日とは違うそんな問いかけが胸をざわつかせる。
ヴァンは自分の歌がいかに薄っぺらで上部だけだったのかを思い知った。
これでみんなが喜んでくれるだと?
ちゃんちゃら可笑しい。
ヴァンは自分の名前の由来ともなる“鳥のヴァンブラン”の物語をいつしか思い返す。『なるほど、声を盗まれるとはこういうことなのかもしれないな』と、全てがその物語どおりに進行している皮肉にただ苦笑するしかなかった。
95日目。
ヴァンはとうとう行き場のない叫び声をあげた。
『ダメだ……俺の歌はクソだ! クソ以下だ!』
これは実質的にヴァンの敗北宣言だったといえる。いったい自分が何に負けたのか、それすらわからないままに。
99日目。
ヴァンはオリジナルの曲を99日、ついに歌い通した。約束の日まであと一日である。イシャータは真剣に思いを巡らせた。
『ヴァンはやり遂げた。明日の夜……今度は私が答えを出さなければならない』
その日、ヴァンはひょいと塀の上に飛び乗ると、いつもよりも長くイシャータの顔を見つめていた。もちろんそれがしばしの別れになるであろうことなどその時のイシャータには気付くはずもない。
ヴァンは振り返ると闇の中へ勢いよくジャンプした。
それ以来、N区でヴァン=ブランの姿を見かけた者はいない。ただイシャータの目に銀色の残像が残っているだけだった。イシャータはのちにそれが映画のエピソードの結末と同じだということを思い出した。
主人公の少年は老人に尋ねていた。
『どうして彼は去ったの? たったあと一日じゃないか?』
老人は答える。
『さあな、それがわかったらわしにも教えてくれ』
そしてそれはイシャータと同じ気持ちだった。




