07 心の傷
謝り続けて何とか許してもらい、僕はユーナを連れて家へ帰った。
「ここが隼人の家ですか…」
「うん、お茶を淹れるから適当に座ってて」
言いながらキッチンに行き、ポットに水を入れて沸かし始める。
ちなみに光は友達と出かけていて、七時まで帰って来ない。だから、それまでは僕とユーナの二人きりだ。
……別に深い意味は無いけど、意識すると気まずいな。
「隼人のご両親は留守なんですか?」
「…うん、海外赴任してるから。家にいるのは僕と妹だけだよ」
家に帰ってくるのは一度か二度ぐらいで、母さんは僕が中学を卒業するまでは家にいたけど、高校に入学した日に父さんの赴任先へ行った。
週に一度の電話と毎日のメールで、向こうは僕たちの状況は報告している。もし忘れてたら、向こうから電話してきて僕だけが怒られるからだ。
心配性だなと思いながら、その気遣いは嬉しい。たまに思い出す姉さんのことで、光が落ち込んだ時には僕じゃ何もできないから。
「妹さんは出かけてるんですか?」
「友達と出かけてるよ。すぐに帰ってくると思うけど」
あの話をした翌日だ。家には帰ってきづらいだろうから、今日の夕食は僕が作ろうと思っている。
話しが続かない上に、余計な事に思考が行ってしまう。こんな時は本を読めばいいんだけど、ユーナがいるので読むわけにもいかない。
「…隼人の部屋を見に行ってもいいですか? 行ってきます」
「ちょっと待て! 勝手に入られるのは困るよ」
返事を待たずに行こうとするユーナに、思わず驚いて止めた。
話しが続かないことが気まずかったんだろうけど、勝手に部屋に行かれるのは困る。
「隼人は私の胸を触りました」
「うっ……、えっと、さっきも説明したけど」
そのことを持ち出すのか。でも、あれは事故だと説明してユーナも納得したはず――
「触りました」
なのに、冷めた視線を僕に向けてくる。頬が少し赤いのは、あの時のことを自分でも思い出したからだろう。
あれは事故で後ろめたいことは無いんだけど、こんな顔をされたら罪悪感が生まれる。
「だから事故だったんだって!」
「でも、触りました。それは事実です」
何を言っても止まってくれそうにない。
「……わかったよ。でも、僕も一緒に行くことが条件だ」
ユーナが頷いたので、僕は彼女を案内して自分の部屋を連れて行った。
自分で言うのもなんだけど、この部屋は殺風景すぎる。本棚や勉強机、ベッドがあるだけで特徴が無い。
「……ここが隼人の部屋ですか?」
「うん、殺風景な部屋でごめん」
あまりの部屋の殺風景さに、思わず謝ってしまった。…それにしても、本当に殺風景だ。
本棚にあるのは、数十冊の本と写真立てが一つ。いつも整理整頓しているせいか、殺風景さが際立っている。
「いえ、隼人らしい部屋ですね」
「……それって、僕が無個性だっていうことか?」
だとしたら、さっさと家から出て行ってもらおう。次に招待する時までに、個性のある部屋に変えないといけない。
「そういうわけじゃありません。ただ、隼人らしい部屋で私は好きです」
「……ありがとう」
なんだか誤魔化された気がするけど、好きだと言われて悪い気はしなかった。
ユーナは本棚へ近づいていき、そこに並んでいる背表紙を眺めながら言う。
「どれも難しそうな本ばかりです…。隼人のおすすめはありますか?」
「うーん、ユーナの好みは?」
本といっても、いろんなジャンルの本がある。例えば随筆とかSFとか。
好みに合わないジャンルの本を読もうとしても、長くは続かないのが読書だ。
「隼人が勧めてくれた本なら、どんな本でも読みます」
「でも、僕と君の好みは違うだろ?」
特に異性という点で、好みや価値観が別物だ。
本棚にマンガは並んでいないし、女子が読みそうな本はあまりない。それどころか、普通の高校生が読みそうにない難しい本まである。
「大丈夫です。隼人がどんな本を読んでいるのか興味がありますから」
ここまで言われて、同じ質問をするのは逆に失礼な気がした。僕は本棚に近づいて行き、背表紙に視線を走らせる。
随筆とかは、あまりユーナの好みに合わないかもしれない。小説なら冒険、推理、スパイとかが無難かな。
そんなことを考えながら、背表紙のタイトルを見て、一冊一冊の内容を思い出しながら本を選ぶ。
「じゃあ、これかな」
そう言いながら僕が手に取った本は、映画にもなった小説だ。
とあるアメリカの冒険家が、偶然にも古代遺跡を発見して異世界へ行ってしまう話だ。
「異世界に行ってしまった冒険家は、元の世界に戻る方法を探すため冒険に出たんだ。その冒険の中で、冒険家は大切なことに気づく」
いつの間にか、僕は物語のあらすじを話し始めていた。やめなきゃいけないと思っても、一度話し始めたら止まらない。
「冒険家は、羅針盤を持った少女に言う。「未来は自分の手で切り開くものだ。君がやらないなら、俺が切り開いてやる」って」
この冒険家の言葉は、今の僕と重ねることができる。
姉さんが死んだ日から、毎晩泣いていた妹のために僕は強くなろうとした。
僕にとって本は自己を築き、強くなるための道具だ。本を読めば今までとは違う考えに出会い、それを吸収して自分の物にする。そうやって、僕は今の自分を作った。
未来は自分で切り開くもの。確かに、この言葉の通りだ。何もしなければ押しつぶされ、誰も知らないうちに消えてしまう。
だから自分で切り開かないなら、無理にでも切り開いてやらないといけない。
「隼人、どうしたんですか?」
いけない、いつの間にか思考に入っていたらしい。
「いや、何でもないよ。…とりあえず、この本面白いから読んでみてくれ」
僕が誤魔化すように言いながら本を差し出すと、大事な物を扱うように両手で受け取り、嬉しそうに口元を緩めた。
「はい、ありがとうございます。楽しんで読みますね」
「……じゃあ、下に戻ろうか」
これ以上、この部屋にいると再び思考に入ってしまうかもしれない。そしたら、ユーナに余計な心配をかけてしまう。
「ただいまー」
僕が部屋を出ると同時に、ドアが開く音と声が聞こえてきた。聞かされていた帰宅時間より早く帰って来たらしい。
急いで下へ降り、帰ってきた妹を出迎えた。予想通り、両手いっぱいに紙袋を持って満足そうな顔だ。
「おかえり。言っていた時間より早かったな?」
「うん、友達が急に用事ができちゃって」
紙袋を受け取り、リビングのソファへ持っていく。と、ユーナが上から降りてきたところだった。
「……隼人君、そういえば玄関に女の人の靴があったんだけど」
光の声から、急に感情が抜け落ちた。もし声に温度があるとしたら、絶対零度だと思うぐらいに冷たいと思う。
振り返ってみると、光は機嫌が良さそうに笑っていた。でも、なぜか怖いと思うのは気のせいだろうか。
「その女の人、誰?」
笑顔で子供のように無邪気に聞かれたのに、なぜか迫力がある。背中に冷や汗をかきながら、僕はユーナを家につれてきた経緯を説明することになった。
「ふぅん、隼人君のクラスメイトなんだ?」
「はい、先日転校してきたばかりですけど」
光が警戒するように質問し、ユーナはそつなく答えを返す。…光が帰ってきてから、急に居心地が悪くなったな。
「そういえば、隼人君に告白してきた女の子って銀髪だったんだよね?」
矛先が僕の方に向いた。間違ってはいないし、別に否定する理由も無いので頷いた。すると、光は明らかに不機嫌そうな顔になる。
「告白は断ったんだよね?」
「まあ保留にしてるけど、ほぼ断ったかな」
「なのに、何でその女の人が家に来てるの?」
光の質問責めが始まった。なんか昨日も、こんなこと無かったか?
「ダメだったか?」
「うん、家族でもない女の人を家に連れてくるなんて非常識だよ?」
「…そう言われてもな。お前だって友達を家に連れてくるだろ?」
確かに前もって説明してなかったのは悪かったと思うけど、非常識と言われるほどのことはしていないはずだ。
「……隼人君のばか。もう知らない」
なぜか拗ねてしまい、ソファの上にあった紙袋を持って二階へ行ってしまった。
「妹さん、隼人のことが大好きなんですね?」
さっきの光と同じぐらい冷たい声が、ユーナから発せられた。いったい何なんだ?
「っと、そろそろ夕食の準備しないとな」
視線から逃げるように言いながらブレザーを脱いでソファに置き、エプロンをつけて冷蔵庫を開けた。
ニンジンとじゃがいも、タマネギと豚肉を取り出す。この材料を見るだけなら、カレーを思い浮かべるだろうけど、これから作るのはカレーじゃなくて肉じゃがだ。
「何か手伝うことはありますか?」
「いや、いいよ。それより、そろそろ帰った方がいいんじゃないか? 親御さんが心配するだろ」
百歩譲って少し遅くなるのはいいとして、夕食の準備を手伝わせて帰りが遅くなるのは申し訳ない。
「いえ、父は今日も帰ってこないと思います」
「じゃあ、母親が待ってるんじゃないか?」
ニンジンの皮を包丁で剥きながら質問すると、ユーナは首を横に振った。
「……母は三年前に亡くなりました」
「…えっ? いてっ!」
聞き返した瞬間、注意が逸れて包丁で指先を切ってしまった。
絆創膏、絆創膏を貼らないと。よし、絆創膏を貼った。えっと、さっき母親が待っているかどうかを聞いたんだ。それで、ユーナの返事は……
「ごめん、無神経だった」
言葉の意味を飲み込んだ僕は謝った。知らなかったとはいえ、僕の何気ない質問は彼女の傷に触れてしまったはずだ。
もしかしたら、傷を大きく穿ってしまったかもしれない。
「いえ、大丈夫です。隼人に悪気が無いのはわかっていますから」
悪気があるないの問題じゃない。
姉さんを亡くした僕や光は、まだ引きずっている。立ち直ったように振る舞いながらも、その話題に触れた瞬間に傷が疼く。
たとえ過去の傷だとしても、それが塞がるまでに長い時間を必要とする。それが、大切な誰かを亡くした時の傷であるなら尚更だ。
同じ傷を持っている僕は、それを治す方法については知らない。だから、上辺だけの言葉を言うしかない。ただの慰めにしかならないとわかっていてもだ。
「無理するなよ。つらい時、泣きたい時、苦しい時は我慢しなくていい。僕が話を聞いてやるから」
僕が放った信念の無い上辺だけの言葉は、薄っぺらくて何の力も無い。胸の内に広がる自己嫌悪を誤魔化すために、ニンジンの皮剥きを再開した。