03 願い
家に帰ると玄関に靴があった。妹の物だ。
リビングに行くと、妹はキッチンで料理をしているところだった。妹は僕に気がつくと、作業する手を止めて笑顔で言う。
「隼人君、お帰り。今日は遅かったね」
「うん、少し急用ができたんだ」
そう僕が言った瞬間、妹は僕の胸へ飛び込んできた。そして何かを確認するように、ぺたぺたと僕の体を服の上から触る。
「ケガは、してないみたいだね。……よかったぁ」
それを聞いた僕は苦笑する。どうやら、急用を猛の危険への挑戦に巻き込まれたと勘違いしたらしい。
「光は心配性だな。猛だって、僕を好き好んで巻き込んだりしないよ」
すると、妹――光は、僕から離れて腰に手を当てながら言う。
「だけど隼人君、今まで木崎君に巻き込まれて何度も大怪我してるじゃない! 去年なんか骨折したし……、友達は選んでよね!」
うちは両親が海外出張で家にいないぶん、光が僕のことを心配するのは当然だ。しかも、家事は妹に任せきりなので頭が上がらない。
そんな僕は、彼女の頭を撫でながら言う。
「わかってるよ。猛は人間的に欠陥があるだけで、悪いヤツじゃないんだ」
「ふぁ、……ずるい」
頭を撫でられた彼女は、気持ちよさそうに目を細めながら拗ねたように唇を尖らせた。
その様子が可愛くて、つい笑顔になってしまう。
「……ん? この焦げ臭い匂いは?」
光の頭を撫でていた僕は、漂ってくる異臭に気がついた。
すると、光は細めていた目をカッと開いてキッチンの方へ慌てて戻る。
「あーっ! 焦げてる……」
どうやら料理中だったのに、火を止めていなかったらしい。
フライパンを涙目で見る光の姿に、僕は思わず噴きだしてしまった。すると、キッと睨みつけられる。
「隼人君のせいだよ!」
「……何で、そうなるんだ?」
「隼人君が、私の頭を撫でるから! 今日は隼人君の好きなハンバーグなのに!!」
……なんだか色々と理不尽な気がするな。だけど、ここでこじらせると夕食にありつけなくなりそうだ。
「わかった。…ごめん、僕が悪かったよ」
「誠意がこもってない。やり直し」
ダメだしが出た。仕方が無い、僕は持っていた荷物を下ろすと光に頭を下げる。
「光、僕が悪かったよ。だから夕食抜きは勘弁してください」
許しが出るまで、僕は頭を下げたままの状態で待つ。
なんで妹相手に頭を下げないといけないのか、と思われるかもしれない。だけど、光に家事を全般的に任せているので、頭が上がらないのだ。
「……本当に反省してるみたいだし、夕食は食べさせてあげる」
寛大な心を持っている妹に、僕は感謝するしかない。
「ありがとう。……そういえば、今日はハンバーグなの?」
「うん、でも少し焦げちゃった…」
僕の質問に光がしょげこんでしまったので、慌ててフォローを入れる。
「少しぐらいなら、大丈夫だって。作ってもらってる身で文句は言わないよ」
しかし、光はフライパンをしっと見つめたまま落ち込んでいる。
…少し恥ずかしいけど、元気づけるためには切り札を出すしかなさそうだ。
「……それに、光の作る料理は美味しいから」
言いながら近づき、光の頭に手を置いて撫でた。
自分で言っているの聞いてて、すごく恥ずかしい。これ、誰かに聞かれたらブラコン呼ばわりされそうだ。
「だから、少し焦がしたぐらいで落ち込むなよ」
光は気持ちよさそうに目を細め、顔を赤らめてコクッと子供のように頷いた。
「じゃあ、着替えてくるから」
そう言って荷物を回収し、僕は自分の部屋へ向かった。
リビングを出ようとしたところで、後ろから声が光の聞こえてきた。
「…隼人君、ずるい。ばか」
ばかと言われるようなことはしてないはずなんだけどなぁ。それに、ずるいこともしていないはずだ。
数分後、着替え終えてリビングに行くと夕食の準備ができていた。
ハンバーグが少し焦げてるけど、それ以外は普段と同じだ。
「隼人君、早く座って。ハンバーグが冷めちゃうよ」
すっかり元通りになった光は、いつものように明るい声で僕を手招きする。
それにしても、学校でも同じことをやってるのかな? だとすると、少し無防備なところがあるから心配だ。
念のために言っておくけど、僕はシスコンじゃない。家を空けている両親の代わりに、光の心配をしているだけだ。
僕はイスに座って手を合わせる。
「ハンバーグが美味しそうだ。いただきます」
「いただきます」
僕は真っ先に大好物のハンバーグを食べる。
少し焦げているけど、そんなことが気にならないぐらい美味しい。
「隼人君、どう?」
光は不安そうに聞いてくる。焦がしてしまったことを、まだ気にしていたらしい。
気にしなくてもいいのに、と思いながら僕は正直な感想を言う。
「美味しいよ。さすが、光」
すると、光は顔を赤らめて照れ隠しに
「隼人君のばか!」
と僕のことを罵った。うん、照れてる顔と照れ隠しが可愛い。
思わず頬を緩ませ、僕はハンバーグをもう一口食べる。
「うん、美味しい。光さん、お店を出せるんじゃないか?」
「ばか! ばかばか! そんな意地悪言う隼人君には、二度とハンバーグ作ってあげないんだから!」
正直な感想を言っただけなのに、それは少しひどいんじゃないかな? まあ、少しから
かったのも事実だけど。
「悪かったよ。でも、美味しいのは本当だよ」
謝ってみると、光は顔を真っ赤にした。口を酸欠の金魚みたいにパクパクとして――
「隼人君のばか!」
謝ったのに、何で怒鳴られないといけないんだろう? 最近、妹のことがわからなくなってきた。
これ以上、何か言って怒らせると飯抜きにされるかもしれない。なので、僕は黙って夕食を食べ始めた。
「そういえば、さ。私の友達から聞いたんだけど」
ようやく落ち着いたのか、光は食べながら僕に話をする。
「隼人君、今日の放課後に銀髪の女の子に会ってた? デパートで」
「んぐっ…!」
喉にハンバーグが詰まった。慌てて水を飲み、ハンバーグを流し込んだ。
「……会ってたんだ?」
光が睨みつけながら聞いてきたので、迫力に負けた僕は正直に頷いてしまう。
怒ってる。さっきの照れ隠しとは違い、本気で怖い。
「な、何怒ってるんだ?」
「別に怒ってない」
ムスッとした表情で、光はハンバーグを食べる。
どう見ても怒ってるようにしか見えない。
「昨日、転校生が来たって話しただろ? その転校生が、銀髪の女の子なんだ」
「…なんで隼人君が、その転校生と一緒にいたの? 学校じゃなくて、デパートに」
「呼び出されたんだよ」
「な、ん、で、隼人君が呼び出されたの?」
問いつめられ、どう言い訳しようかと考える。あのゲームに関しては話せないし、話したとしても信じてもらえない。
「隼人君、答えられないの?」
もし視線に殺傷能力があったとすれば、僕は死んでいたかもしれない。それぐらい、光の視線は鋭く冷ややかだ。
…うん、下手な言い訳は通用しなさそうだ。
「あまり言いたくないんだけど、言うしかなさそうだな」
できるだけ平常心で、僕は勿体ぶったような言い方をした。
これから言うことは嘘であって、嘘でない事実だ。
「転校生に告白されたんだ」
嘘を言った瞬間、光が持っていた箸を落とした。床に落ちた箸はカラン、と乾いた音を立てた。
箸を落とした本人は、驚いた表情のまま固まっている。その意外な反応に、困惑して僕も動けなくなった。
いつもの光なら、「隼人君、そんな悪い冗談言わないでよ」とか言って拗ねた顔をするはずだ。
「隼人君、それ本当なの?」
立ち直った光の質問に、僕は後れて頷いた。
「そうなんだ…。……それで、どうしたの?」
「えっ?」
「だーかーら、断ったの?」
なぜか断ったことを前提に、質問してきた光の表情は真剣だった。
いつもと違う妹の様子に、戸惑いながら僕は答える。
「とりあえず、保留にしてる。まだ会って、そんなに時間が経ってないから」
僕の答えを聞いた光は、大きなため息をついた。
なんだか呆れられている気がするのは、僕の気のせいだろうか?
「お兄ちゃんって、本当に鈍感だよね……」
気のせいじゃなかった。ため息までついて、完全に呆れられている。
しかも、僕のことを「お兄ちゃん」と呼んだ。これは、光が不機嫌になっている証拠だ。
「……そういえば、光の方はどうなんだ?」
「……へ? 何が?」
間の抜けたような返事が返ってくる。
少し理不尽な気がしたので、ささやかな復讐をすることにした。
「学校で告白されたりとか、してるのか?」
「し、してないよ! わたし、そんなにモテるタイプじゃないし!」
この答えが嘘だということを僕は知っていた。
実を言うと、中学を卒業する前に告白されている場面を見かけたことがある。さりげなく猛に頼んで、後で相手の男子に聞いてもらった。
ここ最近、何度か郵便受けにラブレターが入っていたんだ。さすがに破り捨てるのは相手の男子に悪いので、郵便受けに戻しておいた。
「光、嘘をつくのは良くないよ。僕は知ってるんだ」
真剣な口調を装って言うと、光は僕から視線をそらした。それを見た僕は復讐の成功を知り、普段の口調に戻って言う。
「別に責めてるわけじゃないよ。ただ、光の可愛さがわかる男子がいるんだな」
「………」
「変な男に引っかからないように気をつけろよ」
「……ばか」
からかうような口調で言うと、光は水の入ったコップに手を伸ばした。
そして、その中身を勢いよく僕にかける。
「わっ! 何するんだよ!」
「隼人君のばか! 鈍感!」
怒鳴りながらコップを投げ、それが僕の顔に当たる。割れなかったのは良かったけど、
コップの当たった場所が地味に痛い。
光は立ち上がり、逃げ出すかのようにリビングから出て行った。
「いったい、何だったんだ…?」
僕は呆然と呟いて、何が悪かったのかを考えた。しかし、考えても光が怒った理由がわからない。
本人に聞きに行ってもいいのだが、今回は逆効果になりそうな気がする。しかし、放って置けないので僕は立ち上がった。
玄関のドアが開く音はしていないから、自分の部屋に行ったんだろう。
僕はリビングを出て階段を上り、自分の部屋の向かい側にある光の部屋の前に立った。
「光、どうしたんだ?」
ドアをノックしながら声をかけると、ドアに何かがぶつかって鈍い音がした。
僕は思わずドアから離れるが、再びドアをノックしながら声をかける。
「光、どうしたんだ? まだ食べてる途中だろ」
「……ほっといて。隼人君なんか嫌い」
声を聞く限り、ずいぶんとへそを曲げているようだ。
光が、ここまで機嫌を損ねるのは珍しい。
(…少し、からかいすぎたかな?)
復讐だったとはいえ、やりすぎた感が無かったとは言えない。
罪悪感を感じた僕は、ここは大人しく引き下がろうかと思ったが、すぐに考え直して深呼吸をした。
できるだけ落ち着いた声で、ドアの向こうにいる光に話しかける。
「放って置けるわけないだろ」
少し怒ったような口調になってしまった。
「さっきのは僕が悪かったよ。だから出て来て一緒に食べよう」
「……一人で食べれば?」
そっけない声が返ってきた。謝るだけじゃ、許してもらえないらしい。
僕はため息をつき、部屋から出て来るように説得を続けた。
「一人で食べても美味しくないし、光のことも放って置けない」
「……シスコン」
心外なことを言われたけど、無視して説得を続ける。
「今度の日曜、光の行きたいところに付き合うから」
僕にとって、これは切り札だ。これを使ってダメならあきらめるしかない。
「……!?」
ドアの向こうから息を飲み込む音が聞こえてきた。
日曜日は僕にとって大切な日だ。できるなら予定は入れたくない。
でも、ここまで機嫌を損ねている光を放って置けない。
どちらかを選べと言われれば、僕は前者よりも後者を選ぶ。そうでなければ、あのゲームに参加している意味が無い。
「……日曜日は、大切な日なんでしょ?」
ドアの近くまで来たのか、さっきよりも光の声がはっきり聞こえる。
動揺している光に、僕は追い討ちをかけるように説得した。
「一回ぐらい行かなくても大丈夫だよ。それに、光さえ良ければ一緒に行かないか?」
返事は無かった。あったのは短い静寂だけだ。
僕は最後の一押しに頼んでみる。
「光、一回ぐらい顔を見せてやってくれないかな?」
ドアが静かに開き、隙間から光が顔を覗かせた。どうやら説得に成功したらしい。
いつもより元気が無いように見えるのは、僕の説得の中にあった頼みのせいだろう。
「……下で、残りを食べよっか」
そう言いながら光は僕の手を握った。いつもより小さく見える妹に手を引かれ、僕は歩き始める。
夕食を食べ終えた後、僕は部屋に戻って棚から一冊の本を手に取った。しかし、最初の一ページを開いたところで断念する。
あんな話をした後で、読書する気分になれないのだ。
本を棚に戻し、代わり一番上に置いてある写真立てを手に取った。
そこに写っているのは、小学生の僕と幼稚園児の光、そして、僕たち二人の間に立つ年上の女の子。
「…姉さん、やっと光を連れて行けるよ」
写真の中にいる少女に、僕は話しかけるように呟いた。
僕にとって、この写真がゲームに参加している理由だ。僕の願いは、僕たち三人が揃って、笑っている時間を取り戻すこと。
僕は写真立てを棚に戻し、その隣に右手の中指に着けている指輪を外して置く。