第3部 1話 病気?
殺風景な事務所。
デスクの上には大量の資料が散らばり、ソファーには寝癖だらけの洸が眠りに就いていた。昨夜も遅くまで資料に目を通していたのだ。
「ん〜……ムニャムニャ……」
軽く寝返りを打つ洸は、ソファーから落ち床へと転落した。
「うがっ」
鈍い音と洸の妙な声が事務所内に響く。頭部を強打したのだ。痛みに目を覚ました洸は、頭部を両手で押さえ体を起した。
「ううっ……いでぇ〜」
頭を抱える洸は、静かに立ち上がると、携帯を手に取り時間を確認する。午前六時。いつもなら、まだ寝ている時間帯だ。だが、目が覚めた以上もう一度寝る訳にも行かず、洸は欠伸をしながら事務所を後にした。
一階では既に結衣が起きていた。朝食の準備、その他諸々。色々とする事があるのだ。
洸は静かにテーブルの前に座り、大きな欠伸を一つ。それに、結衣が気付いた。
「あっ! 洸兄!」
「おう……。おはよう」
眠そうにそう返事を返す洸に、驚きを隠せない様子の結衣。それもそのはずだ。洸がこの時間に、自分から起きてくる事は、滅多に無いの事なのだ。
「洸兄、どうかしたの? 病気?」
心配そうに駆け寄る結衣に、不貞腐れた表情を見せる洸は、不満そうな声で言う。
「何だ? 俺が自分で起きたら病気なのか?」
「えっ! そ、そうじゃないけど……。何か変なものでも食べた?」
呆れた表情を見せる洸は、寝癖頭を掻き毟る。
「あのな……。昨日は結衣の作った料理しか口にしてないんだぞ。変な物を何処で食べるんだ?」
「う〜ん……。事務所?」
「あのな……」
ため息を吐く洸は、右手で頭を抱える。
「もういいや……。早く朝食の準備をした方がいいぞ」
「うん……分かった。でも、本当に大丈夫?」
「……ああ。大丈夫だ」
「本当に、本当?」
「しつこい」
あまりにしつこい為、洸は少し荒々しい口調でそう言い放った。心配そうな表情を見せる結衣は、渋々と台所へと戻りご飯準備を再開する。欠伸をする洸は、テーブルにうつ伏せになり、静かに息を吐いた。
それから、暫くして夏帆が起きて来て、洸が起きているのに驚き、続いて俊也が驚いた。二人とも最初に洸に言ったのは、結衣と同じ様な言葉だった。その為、洸は少しだけ機嫌が悪く、ムスッとした表情をしている。だが、弘樹と千尋はそれに気付かず、相変わらずのんびりと朝食を食べていた。
「ご馳走様!」
弘樹と千尋が殆ど同時にそう叫び、食器を流し台へと運んで行く。相変わらず、ムスッとした表情の洸は、静かにお椀をテーブルに置き、「ご馳走様」と小さな声で言う。そんな洸の顔をチラチラと見る結衣、夏帆、俊也の三人に、洸は表情を引き攣らせる。正直、気分がいい筈は無い。何度もチラチラと顔を見られるということは。その為、洸は少々声を荒げる。
「さっきから、何だ! チラチラと!」
その言葉に、俊也と夏帆は視線を外す。ジッと洸を見つめる結衣は、心配そうな表情で問う。
「本当に大丈夫?」
「本当にしつこいな……」
呆れた様に目を細める洸は、右手で頭を掻く。心配そうな表情をする結衣は、お椀を置き潤んだ瞳で洸の顔を見つめる。流石にこんな目をされては、洸になす術は無く、ため息を漏らし両肩を落とす。
「あのな……。今日はたまたま、事故で早く起きただけだ。そんな心配する事じゃないんだよ」
「事故って……。ソファーから落ちたとか?」
ボソッと夏帆が呟いた。図星を突かれ、洸は「うっ」と、妙な声を吐く。その声を聞いた俊也が、「図星だな」と更に追い討ちをかけた。心配して損したと言わんばかりに、夏帆と俊也がため息を吐き、残りを食べ始める。やっぱりこうなったかと、呆れた表情をする洸は、結衣の方を見て言う。
「まぁ、そう言う事だ。心配すんなって。さぁ、弘樹、千尋。学校行くぞ」
洸の声に、台所から弘樹と千尋が駆け出して来る。
「カバンとってくる〜」
千尋がそう言い弘樹より一足先に部屋へと走っていく。それに遅れて、「待ってよ。千尋」と弘樹が部屋へと走っていく。腕組みをする洸は、カバンを持ち玄関へと向った。
居間に残る結衣、夏帆、俊也の三人は静かに食事をする。漂う沈黙に、堪りかねた俊也が無理に笑いながら口を開く。
「いや〜。ビックリしたよな。兄貴が朝早くから起きてるんだから、雨でも降らなきゃいいけどな」
「もう降ってるけどね」
味噌汁を一口飲み、夏帆がそう言う。表情を引き攣らせたまま硬直する。更に重い空気に包まれるその場に、弘樹と千尋が走って来た。
「行ってきま〜す」
「いってきます」
元気の良い弘樹に続き、大人しめの千尋の声が聞こえた。それに、結衣と夏帆は「行ってらっしゃい」と明るく二人を見送った。
欠伸をする洸は、弘樹と千尋の二人を連れ、小学校へと向っていた。大抵、暇な時は洸が二人を小学校へと送っていくのだ。笑顔を見せる弘樹と千尋は、楽しそうに歩いていた。眠そうに欠伸をする洸は、楽しげな二人の姿に笑みを浮かべる。
「楽しそうだな。二人とも」
「うん。学校楽しいよ」
「楽しい! 楽しい!」
笑顔の弘樹と千尋が、元気良く飛び跳ねる。苦笑する洸は、「そうか」と、小さな声で呟いた。その時、元気良く飛び跳ねていた千尋の動きが止まる。ふとそれに気付いた洸は、屈みこみ小さな声で問う。
「どうかしたのか?」
「何だか……寒気がするの……」
身を震わせる千尋に、洸の表情が変る。
千尋は人よりも鬼の気配を感じやすい。その為、近くに鬼がいると、体が無意識に反応してしまうのだ。もちろん、千尋自身はその事に気付いていないし、鬼の存在すら知らない。千尋と弘樹には、鬼の事を教えないと、洸・結衣・俊也・夏帆の四人で話し合って決めた。それが、二人を危険に巻き込まず、普通に生活できると判断したのだ。
周りを見回す洸は、行き交う人々を目で追う。誰が鬼に狙われているのか、必死に探していた。だが、洸がどれだけ感覚を研ぎ澄ましても、鬼の気配を感じる事は出来ない。
「くそっ……。どいつだ!」
鋭い目付きで人々を見回す洸の方に弘樹が駆け寄る。
「どうかしたの? 洸兄」
「弘樹! 千尋と二人で急いで学校へ行け!」
「え〜っ? 洸兄は一緒じゃないの?」
甘える様な声の弘樹に、洸は優しい声で言う。
「明日一緒に行ってあげるから、今日はごめんな」
「ぶ〜っ。約束だよ。明日は絶対だからね」
「ああ。約束な。さぁ、急がないと遅刻だぞ」
「うん。分かった。いこっ、千尋」
弘樹は笑顔で震える千尋の手を引き駆け出した。二人が遠ざかっていくのを見据える洸は、すぐに感覚を研ぎ澄まし、辺りの気配をもう一度探る。目を閉じ静かに呼吸をしながら。
暗闇の中に響く沢山の足音。ヒソヒソと話す人々の声。揺れる木々の葉音。道路を走り抜ける自動車のエンジン音。色々な音が洸の耳に入るが、それが徐々に薄れていく。そして、洸は完全に闇の中に一人きりになる。
「何処だ……何処にいる……」
ボソッと呟く洸は、闇の中に赤黒い炎を見つけた。それが、鬼の気配だ。
「見つけたぞ……」
静かに目を開いた洸は、静かにそう言うと、右手を握り締め僅かに笑みを浮かべた。