第2部 3話 苦悩
依頼を受けて一週間。結衣が口を利かなくなって五日が経過した。
この所洸は事務所で生活している。家にいると険悪なムードになるからと言うのもあるが、本当の所は徹夜で調べる事があったのだ。その調べ事が難航し、今日に至る。
眠そうに欠伸する洸は、事務所の椅子に座り資料と睨み合っていた。聊か寝不足で頭の中がモヤモヤしている。その為、思うように頭が働かない。こんな時、結衣だったらコーヒーの一つでも持って来るのだが――。
そんな風に思いながら、外撥ねしたボサボサの髪を掻き毟る。ぼんやりと資料を睨んでいると、事務所の戸を叩く音が聞こえた後、戸が軋みながら開かれた。
「洸兄……。コーヒー持ってきた」
事務所に入って来たのは、夏帆だった。右手にコーヒーカップを持ち、左手には辞書を持っている。きっとこの事務所で辞書でも読むつもりだろう。そのついでにコーヒーを運んできてくれたと、言う所だ。
歩みを進める夏帆は、机の前で足を止め、コーヒーカップを差し出す。「悪いな」と、微笑み洸はカップを受け取り、コーヒーを一口飲む。深みがあり眠気が覚める様な苦味に洸はホッと息を吐く。
「夏帆。コーヒー入れれたんだな」
ソファーに座る夏帆に笑顔でそう呟く洸。だが、夏帆はサラッとした口調で言う。
「それ、結衣姉が入れた物だから」
「ブッ!」
口に含んだコーヒーを噴出す。すると、夏帆が変な目で洸を見据える。
「汚いよ。洸兄」
「うるさいな〜。ビックリしたんだよ」
洸はそう言いながら噴出したコーヒーを布巾で拭く。少々資料にもコーヒーが飛び散ったが、それは仕方が無い。しかし、結衣がコーヒーを入れてくれるとは思ってなかった。その為、少々動揺する。
「そ、それより、ゆ、結衣がどうして?」
「私に聞かれても……」
「だよな……」
苦笑する洸は小さく息を吐き、椅子に腰掛けた。そんな洸をチラッと見た夏帆は、心配そうな表情をする。洸の表情から疲れが見えたのだろう。こんな洸を見るのは、結構久し振りだった。昔は良く見ていたが、ここ最近は本当に見かけない。それほどまで苦悩する依頼なのだろうか? と、夏帆は思った。だが、決して口にはしない。そう聞いても、きっと洸は心配掛けまいと嘘をつくだろうからだ。
「明日……」
「ンッ? 何だ?」
資料から目を放す洸は、辞書を開く夏帆の方を見る。いつもと変らない顔つきの夏帆は、静かに洸の目を見つめた。不思議そうな表情を見せる洸は、首を傾げると「どうしたんだ?」と、呟く。何か迷っている様子の夏帆は、意を決し口を開いた。
「明日……依頼主に会うんでしょ?」
「ああ。一応な……」
何だか浮かない表情を見せる。疲れからそう言う風に見えるのかも知れない。それでも、最後には微笑み疲れをひたすら隠そうとしていた。そんな洸に「ふ〜ん」と素っ気無い態度をとる夏帆は、二・三度頷いた後、問いかける。
「それで……、今回は当り?」
「っぽいぞ」
夏帆の言葉に即答する洸は、資料を机に軽く投げ捨てると、頭を右手で押さえ深々とため息を吐く。そして、何だか辛そうな表情を見せる。その理由がイマイチ分からない夏帆は、辞書を閉じると、少し優しい口調で言う。
「私も明日一緒に行こうか?」
その言葉に辛そうな表情をしていた洸が、微かに笑みを零し右手を顔の前で振る。そして、いつもと変らぬ口調で答えた。
「いいって。お前、受験生だろ? 鬼滅屋の仕事は俺に任せておけばいいんだって」
「でも……」
「な〜に。心配要らないさ。俺一人でも何とかなるからさ」
「……」
無言になる夏帆。無理に笑っている洸を見ているのが、辛かった。だが、洸はその事に気付いていない。その為、今回も無理に笑ってみせ、明るく振舞っていた。だから、夏帆は無言になっていたのだ。そんな事とは知らず、洸は問う。
「どうした?」
もちろん、夏帆の返答は「何でもない」だった。そして、ソファーから立ち上がり出入口の方へと足を進める。聊か不思議そうな表情を見せる洸は、夏帆の背中を見ながら口を開く。
「今日はもういいのか? いつもなら、一・二時間位ここにいるのに……」
「今日は……いい。洸兄の邪魔しちゃ悪いから……」
「そう……か?」
怪訝そうな表情を見せながら、洸は出て行く夏帆を見送った。いつもは、邪魔だと言っても出て行こうとしないのに、どうしてだろうと、不思議に思う洸だった。
そして、翌日――。
洸は一人、金成の会社・金白商事に来ていた。もちろん、制服のままで。この後に学校に行くつもりなのだ。眠そうに欠伸をする洸は、とりあえず受付へと行く。会社の社員は皆不思議そうな表情で洸を見ていた。普通一般に考えると、こんな時間にこんな所に高校生がいる事は不自然で可笑しな事なのだ。
「すいません。社長の金成さんは?」
複雑な心境で受付にそう言う。受付の女性は分かりやすい作り笑いをする。
「あの〜社長にどの様な御用ですか?」
「取り敢えず、社長さんに会いたいんですけど?」
「すいません。社長は多忙な方です。約束を取り付けていないのなら……」
受付のその言葉に静かに息を吐く洸は、右手で頭を掻きながらめんどくさそうに、財布から名刺を取り出す。
「こう言う者です。俺はここの社長に依頼を受けてきました」
「ハァ……」
聊か信じていない様子の受付。これでは、らちが明かないと思った洸は、取り敢えず社長の秘書を呼んでもらう事にした。この依頼を持ってきたのは、社長の秘書だった為、面識があったのだ。
半ば疑い気味の受付は、首を傾げながら内線で連絡を取る。それから暫く、受付が疑いの眼差しを受けたまま話を進めていた。その間、洸は眠そうに欠伸をして呆れた様に目を細める。右目に涙を浮かべる洸は、会社内を見回しつまらなそうな表情をしていた。そんな時、受付が受話器を置き、対応する。
「失礼いたしました。すぐに案内いたします」
「いや。社長室を教えてもらえれば、自分でいけますから」
「それでは……」
メモ帳にペンを走らせる。そして、その一枚を千切り洸に手渡す。その紙切れには社長室までの道筋がキッチリと書かれていた。洸はそれを受け取ると、軽く会釈し静かに受付を後にした。
のんびりと非常階段を上る洸は、最上階に辿り着くと地図に目をやり社長室へと向う。結構静かな廊下を進む。その間、誰ともすれ違う事は無かった。きっと最上階に来れるのは極僅かな人材だけなのだろう。そう思いつつ足を進める洸に、一人の女性が声を掛ける。
「お久し振りです」
穏やかな口調のこの女性は金成の秘書の雨森 霞。オレンジブラウンのロングヘアーに、眼鏡を掛けている。その左目の下にある小さなホクロが印象的で、洸もこの人の事を良く覚えていた。
「お久し振りです。それで、金成さんは?」
軽く会釈した洸がそう尋ねると、雨森は軽く笑みを浮かべて優しく答える。
「こちらです。どうぞ」
雨森が戸を開け、洸を中へと案内する。洸は言われるがままにその部屋と入った。広々とした部屋には大きなデスクとガラス張りの窓。後は本棚かチョクチョクと見える。鬼滅屋の事務所とは桁違いの豪華さだった。その豪華さに少々圧倒されていた洸だが、すぐに依頼の事を思い出し真剣な表情をした。