第2部 2話 依頼は受けない
突然の郁美の言葉に、洸は驚き目を丸くする。そして、引き攣った笑みを浮かべ、ぎこちなく首を左右に振り、静かに答えた。
「な、何言ってるんだ? 大体、依頼って何だよ?」
明らかに動揺している洸は、声が上擦っていた。洸がこんなにも動揺しているのには、理由があった。洸が事務所をやっている事を、学校で知っている者は涼助ただ一人。それに、事務所の事が学校に知れると、色々と面倒だと分かっていた。だから、この場を何とか打開しようと、洸は必死だ。だが、郁美はそんな洸に止めを刺す様に口を開く。
「あんた、探偵事務所やってるんでしょ?」
その言葉に洸の表情が凍りつく。そして、悲鳴に近い声を上げる。
「ナニィィィィィッ!」
洸の大きな声に、郁美が両手で耳を塞ぐ。困惑する洸は、体育館の壁に両手をつき、俯きながらブツクサと呟く。
「な、何でーッ! 何で知ってんだよ!」
混乱する洸に、郁美が答えた。
「涼助と朝話してたじゃない! 探偵事務所してるって」
「なっ! 聞かれていたのか!」
「あんなに大声で話してて、聞かれてなかったとでも思ってたの?」
郁美のその言葉に、洸はボソリと呟く。
「こうなりゃ、忘で全てを……」
右手を握り締め、氣を集中する。そして、不適な笑い声を吐き出す。
「フフフフフッ……」
そんな不適な笑いを、気味悪そうに見据える郁美は、そろそろ本題に入ろうと口を開く。
「それで、依頼の事だけど……」
洸はこの言葉に、集めていた氣を解き放ち、我に返る。ここは穏便に、ちゃっちゃと依頼を解決し、事務所の事を黙っていてもらおうと、思ったのだ。それなら、無駄に体力を使わずに済むし、今受けている依頼も、断る理由になる。そう考えたのだ。一石二鳥とは、まさにこの事だと、洸は不適な笑みを浮かべ、郁美の方へと振り返った。
「そうだな。そうだよな。うんうん。まずは話を聞こうか。それから、受けるかは決めるから」
「何言ってるの? あんたに選ぶ権利なんて無いわよ」
強気な口調の郁美に「はぁ?」と、軽く首を傾げる洸。そんな洸の顔を右手で指差す郁美は、左手を腰に当て睨みを利かせて言い放つ。
「依頼を受けなきゃ、あんたが探偵事務所してる事を学校にばらすわ。だから、あんたは私の依頼を受けるしかないの」
「うわっ……。脅しだ……。強制だ、最悪だ」
郁美に背を向けブツブツと呟く洸に、「何か言った?」と郁美が声を掛ける。笑顔で振り返った洸は、「いえ。何でも」と言う。その笑顔は明らかに引き攣っていた。多分、事務所の事がばれてなかったら、洸は即座に郁美を殴っているだろう。その証拠に、両手は堅く握られ、拳が震えている。
奥歯を噛み締め、怒りを堪える洸は、歯を食い縛ったまま声を掛ける。
「それで……。どんな依頼なんだ? 浮気調査か? 迷子のペット探しか?」
メモ帳を取り出す洸に、郁美が静かに口を開いた。
「お父さんを探して欲しいの」
意外な言葉に洸の動きが止まる。だが、それに気付かず郁美が言葉を続ける。
「私のお父さん、金白商事に勤めていて、その出張に行くって言ったっきり、帰ってこないの。携帯も繋がらないし、一ヶ月も連絡無いし……」
言葉に詰まる郁美は、悲しそうな瞳を見せる。俯いたままの洸は、静かにメモ帳をしまう。その行動すら目に入らない郁美は、洸の両手を掴み言い放つ。
「だから、お願い。お父さんを探して!」
その瞬間、洸は郁美の手を振り払い、顔を上げる。鋭い眼差しが郁美を睨む。その目に郁美は後退る。今までの洸の目とは違う、威圧感が溢れていた。言葉を失う郁美に、洸は背を向け静かに答える。
「その依頼は受けない」
「なっ!」
洸の言葉で我に返る郁美は、大声で言い放つ。
「あ、あんたに、選ぶ権利は無いって言ったでしょ! それとも、学校にばらしても言いの!」
微かに震える郁美の声。今にも泣き出しそうだ。だが、洸の決意は変らず、背を向けたまま答えた。
「言いたきゃ言えよ。その時は、学校辞めれば済む」
「な、何でよ! 何で、受けてくれないのよ……」
泣き崩れる郁美は、両手で顔を覆う。奥歯を噛み締める洸は、振り返り郁美に強い口調で言い放つ。
「うるせぇ! 大体、依頼する前に、金はあんのか! 普通の高校生が、数百万とか持ってんのか? 言っておくが、俺はボランティアで事務所を開いてるわけじゃない! 金を払えない奴の依頼は受けないんだよ!」
「うっ……ウウッ……。もう…いい……あんたに…頼んだ……私が……バカだった……」
嗚咽を漏らしながら、郁美はそう言う。その言葉を聞くなり、足を進める洸は、そのまま体育館裏を後にした。
静かに靴音を鳴らす洸が、校門を出ようとしたその刹那、背後から硬い物で頭を叩かれた。
「はうっ!」
鈍い音と共に発せられる洸の声。その場に蹲る洸は、後頭部に伴う痛みに、涙を浮かべながら顔を上げた。すると、目の前に黒い髪を靡かせ仁王立ちする結衣の姿があった。手には鞄と買って来た卵が無残な姿でビニール袋に収められている。きっと、その卵は洸の頭を叩いた時に割れたモノだ。
後頭部を押さえ立ち上がる洸は、微かに声を震わせながら問いかけた。
「一体……何のマネだ……」
「それは、こっちの台詞よ」
静かにそう答える結衣は、微かに目尻を吊り上げ怒りを滲ませていた。その表情に怯む洸は、咄嗟に身構え今日の今朝からの行動を思い出す。結衣を怒らせる様な行動をとった覚えは無い。その為、洸は恐る恐る問いかける。
「な、何怒ってるんだ?」
その洸の問い掛けに、結衣はビニール袋の卵を見て静かに口を開く。
「あ〜ぁ。卵がこんなに……。洸兄、今すぐ新しいの買ってきて」
「はいっ? お前が割ったんだろ! 何で俺が!」
呆れてそんな事を口走る洸に、結衣が鋭い眼差しを向け、微かに微笑む。その瞬間、洸の背筋は凍り付き、引き攣った笑みが自然と毀れた。いつもは優しい結衣だが、怒るととても怖く、洸も逆らう事が出来ず、結局卵を買いに行く事になった。
卵を買った帰り道。洸は必死に考えた。自分が結衣に何をしたのかを。だが、幾ら考えても、結衣を怒らせる様な事をした覚えは無く、答えが出る前に家に辿り着いていた。
家に帰っても結衣の機嫌は悪く、洸と一切口を聞くことは無かった。そして、その空気が他の皆にも伝わったのか、食事中も誰一人口を開く事は無かった。
「はう〜っ……。俺が、何をしたって言うんだ……」
湯船に浸かる洸は、濡れた髪を掻き毟り湯船の中に頭まで浸かる。ブクブクと湯船の中で泡を吹かせる洸は、呼吸が苦しくなると、勢い良く湯船から顔を出した。髪の毛の先から雫が勢い良く滴れ、湯船に波紋が広がる。両手で顔を拭く洸は、軽く頭を振り髪が吸った水を振り払う。
それから暫く、洸は腕組みをしたままボケーッとしていた。その時、脱衣所から俊也が洸に話しかける。
「なぁ、結衣姉に何かしたのか?」
俊也の声に洸は脱衣場の方に顔を向け、渋い表情をしたまま答える。
「それがさ、分からないんだよ」
「分からないって、どう言う事だよ。自分の事だろ?」
「そう言われてもな……。実際、結衣が怒る様な事はして無いと思うけど……」
腕を組んだまま首を傾げる洸に、今度は夏帆の声がする。
「学校でも、怒ってた?」
落ち着いた様子の夏帆の質問に、洸は学校での事を思い出しながら答えた。
「確か……授業中は変った様子は無かったけど……。帰りだな。変だったのは、いきなり買って来たばかりの卵で殴られたからな……。しかも、何故か俺が買いに行かされたよ。割ったのは結衣なのにさ」
「……もしかして、放課後何かあった?」
夏帆が洸の話を聞いて、静かにそう呟いた。洸は「放課後?」と不思議そうに聞き返し、ふと放課後起きた事を思い出す。そして、洸は右手で額を押さえ、「あれか〜」と呆れた笑いを浮かべたまま呟いた。もちろん、俊也と夏帆には何の事か分からず、脱衣所で二人は首を傾げていた。