第10部 2話 懐かしい男
轟音が轟き、土煙が周囲を包む。
黒い影が二つ土煙から飛び出し、もう一度対峙する。不気味に輝く右腕の封鬼符。その指先に僅かに粉が付着していた。粉はサラサラで、一息の風で簡単に吹き飛んだ。
拳を握り息を吐く。僅かに粉が付着する黒髪を揺らし、鋭い眼差しが真っ直ぐに前を見据える。その先に聳える漆黒の肉体。足元に大量の粉が散ばり、右足が半分消えかかっていた。
『――貴様ッ』
「わりぃな。俺はまだ眠るわけにはいかねぇんだ。こっからはマジで行かせて貰うぜ」
『人間如きが――ッ!』
走り出そうとした幻轟の体が膝から崩れる。消えかけの右足では踏み込む事が出来なかったのだろう。右手を地に着き鼻筋にシワを寄せる幻轟は、怒りの篭った瞳で洸を睨み付ける。
両者の視線が完全にぶつかり合う。洸は薄ら笑みを浮かべ、ゆっくりと右腕を振り上げる。指先からは血が滴れ、右腕に巻きつけられた封鬼符は完全に赤く変色していた。
呼吸が苦しい。体が重い。目が霞む。すでに限界を超えている洸の身に様々な現象が起きていた。強気な発言、気持ちと裏腹に体はついて来ない。右腕の感覚も薄れ、指先が冷たい。しまいには視覚がおかしい。もう形を捉えると言うよりも、色で相手を判断していると言っても可笑しくない状況だった。
それでも弱みを見せず、ただ強気に不適な笑みだけを見せつける。それが、洸が幻轟よりも優位に立つ為の策だった。
「そろそろ終わりにしようぜ。長かった因縁も全て」
『ふざけるな……。我にはなすべき事がある。貴様如きに!』
幻轟の体がその場から消える。消滅した訳じゃない。この空間から離脱したのだ。霞んだ目でもそれを確認する事の出来た洸は、ある事に気付き結衣の方へと目を向けた。だが、ぼやけた視界では結衣の姿を探す事が出来ず、何度も頭を左右に振り目を凝らす。
ボンヤリと浮かぶ人影。それが、誰かハッキリとは分からない。
俊也か?
夏帆か?
それとも、結衣か?
朦朧とする意識で考える洸の耳に、幼い頃に聞き慣れた懐かしい声が聞こえた。
『悪いな。苦労掛けて』
その声は穏やかで優しく、洸を包み込んでくれる様な声だった。その声が優作の姿と被り、
「先生……」
思わずそう呟くと、頭を乱暴に撫でられた。それは、間違い無く優作の撫で方で、朦朧としていた意識がハッキリと戻る。
「先生!」
『よぅ』
「よぅ、じゃない! な、なんで」
驚く洸に、相変わらずの笑みを見せる。額の無数の傷痕、目を覆う長さの前髪、穏やかな優しい眼、全てが優作だと言う事を物語っていた。やはり信じられないと、首を振り目を擦る洸に対し、慣れた様に左手で髪を掻き揚げ楽しげに笑う。
『くくくくっ……。戸惑ってるな』
「そ、そりゃ、戸惑うだろ! あんた死んだんだろ?」
『ああ。死んだ。いやぁ。すまんな』
軽い口調の優作は、もう一度洸の頭を乱暴に撫でた。
「やめろよ! どういう事か説明しろ!」
『まぁ、説明は後だ。今はゆっくり休め。今の俺じゃあ、アイツは倒せない。だが、お前等なら倒せる。だから、氣を回復しろ。それまで、俺が何とかしてやる』
「けど、あんた――」
洸が言葉を続けようとすると、優作がゆっくりと右腕を見せた。それは、既に人の腕ではなく、ゴツゴツとした赤褐色の腕。鋭い爪が指先から伸びていた。まるで鬼の様なその腕に驚きを隠せない洸に、優作がぎこちなく笑みを見せる。
『悪いな。どうしても結衣の事が心配でな』
「心配って……。だからって、鬼になる事ないだろ!」
『まだ鬼にはなっていない。なりかけているんだ』
「同じだろ! 何で、そんな……」
悲しげな顔をすると、優作の左手が洸の頭に乗っかった。しかし、乱暴に撫でる訳でも無く、ただ洸の頭に乗せられた手が静かに離れ、屈んだ優作の顔が洸の前に現れる。
『心配するな。俺は不死身だ』
「不死身じゃねぇよ。もう死んでんだから」
『お前、少し見ない間に、厳しくなったな』
笑う優作に、不満そうな目を向ける洸。額には僅かに青筋が見え、怒っているのは見て分かった。だが、優作が真剣な表情を見せると、洸の表情も自然と強張る。沈黙が続き、優作が静かに息を吐く。
『取り敢えず、今は休め。奴は俺が何とかする。俺の事は後で考えろ』
「……分かった。でも、俺にアイツは――」
『お前だけじゃないさ。俊也も夏帆も居る。それに、結衣だってついてる。現・鬼滅屋は皆ここに居る。一人でダメな時は、皆を頼れ』
優作はそれだけ言い、消えた。直後、火花が散ると同時に、幻轟の肢体が吹き飛ぶ。洸には何が起こったのか分からなかったが、それは幻轟も同じ様で、怒りの滲んだ瞳で睨み付ける。だが、その怒りの矛先を向けるべき相手は、その背後に立っていた。
オレンジブラウンの美しい髪を靡かせ、赤縁の眼鏡の向こうから覗く眼差しが力強く幻轟の背中を見据える。彼女の前には一本の封鬼符が突き刺してあり、それが一定の距離をおいて幾つも地面に刺さっていた。
「封鬼結界。何とか、間に合ったわ……」
『流石、手馴れているな』
「フフフッ……。まさか、死んだはずのあなたが、鬼になりかけて私の目の前に現れるとは、思っても見なかったけど……」
『ハハハハ……。まぁ、何だ。俺もお前がウチの連中と一緒に居るとは思ってなかったけどな』
「相変わらずね」
馬鹿にした様に雨森がそう言うと、鬼になりかけた右手で頭を軽く掻く。雨森とは同じ師の下で修行を積んだ仲で、どんな術を得意とするのかをよく知っていた。その為、この封鬼結界が、どれだけ大変な術なのかと言う事も理解していた。
『しかし、封鬼結界とは……。よくまぁ……』
「あなたじゃ、無理でしょうね」
『いやいや。滅破に今居る連中じゃ、こんな完璧な封鬼結界は作りだせんだろ。流石は雨森さんと、言った所でしょ』
「褒めても何もでないわよ。それに、これじゃあ、あなたも――」
言葉を濁し、優作の顔を見つめる。すると、優作は照れ臭そうに笑みを浮かべ、
『んな、心配そうな目で俺を見るな。まさか、惚れたのか?』
「殺されたいかしら?」
『残念ながら、既に死人だ』
殺気の篭った笑みを向ける雨森に、軽く微笑む優作は少しだけ寂しそうな表情を見せ、
『あいつ等の事を頼む』
「えぇ。分かってるわ」
『まぁ、それより先に良い男を見つけろよ。女は幸せになる義務があるんだからな』
「そんな義務ありません。大体、あなたが死んでしまうから……」
後半はよく聞き取れなかったが、優作は笑顔を雨森に向けてから、一瞬で真剣な表情へと戻ると、小声でボソッと呟く。それは、雨森にしか聞こえない程の小さな声で、その言葉に対し「さよなら」と、雨森は返事を返した。