第1部 3話 矢吹の涙
「待ってください!」
依頼主矢吹の突然の声に、洸は突き出した右拳を止める。拳はピタリと化物の体に触れる直前で寸止めされていた。拳の中に圧縮された氣は、膨張し光を強める。それを解き放つ様に、右拳を広げた。すると、圧縮された氣が開放され、眩い光の粉が辺りに飛び散る。
粉雪の様に散ってゆく眩い光を背に、洸はゆっくりと矢吹の方に体を向ける。それは即ち、化物に背を向けた形になる。化物に背を向けたのには理由があった。既に、化物には戦う力が無い。そして、放っていてもこの化物は消滅する。
矢吹の方を見据える洸は、静かに前進し矢吹の前で足を止めた。矢吹の目を見据える洸は、ゆっくりと口を開く。
「どうして止めるんですか? こいつは、矢吹さんの周りで悪さをしていた化物ですよ?」
強気な目付きに息を呑む矢吹は、首を横に振り駆け足で化物の足元に落ちている虹色の鈴を手に取る。この鈴は、化物の首から先程落ちた物だ。それを右手に握った矢吹は、そのまま胸元まで持って行き、瞼を閉じ静かに語る。
「これは、私の飼っていた猫の太郎の物です。この化物は、きっと太郎なんです。それで、私の事を守ってくれていたんです!」
瞼を開き、瞳を潤ませる矢吹。だが、洸は表情を変えずに返答する。
「……それで? だから何だと言うんですか? 今のこいつは、ただの化物。確かに、矢吹さんを守っているかも知れません」
守がそう言い一度顔を伏せる。そして、静かにゆっくりと眼を見開くと、鋭い眼光で矢吹を睨み言い放つ。
「しかしこいつは、人を襲っているんです。関係の無い人が傷付き、命を落としかけているんです。それでも、あなたはそいつを助けたいと言うのですか?」
力強い言葉に圧倒される矢吹は、俯き瞼を閉じる。少し矢吹の事を可哀想に思う洸。
確かに、矢吹の言う様に、この化物は矢吹の飼っていた猫の魂が鬼と化した存在。可愛がってもらった矢吹に危害を加えるわけでなく、矢吹の事を守ろうとしているのも事実だ。だが、それは鬼になってしまった時点で、叶うはずの無い願いだ。
鬼と化した時点で、目的を忘れ問答無用で近付く者を襲う様になる。分かるのは、傷つけてはいけないのが、矢吹だと言うだけ。だが、それも時によって変る事もある。
そして、今がその時だった。弱りかけの鬼は、静かに右拳を振り上げ、こちらに背を向ける矢吹に向って右拳を振り下ろす。それに気付いていた洸は、矢吹を抱えその場を去る。大きな拳が地面を砕き、大地が激しく揺れた。破片が飛び散り、宙を舞う。
鬼の背後へと回りこんでいる洸は、矢吹を下ろし怒声を響かせる。
「こう言う事になるんです!」
その言葉に、矢吹が今にも泣き出しそうな表情で洸の方を見る。洸は矢吹に背を向けたまま、少々厳しい口調で言う。
「分かったでしょ。あれは鬼です。確かにあなたの飼っていた猫だったかも知れません。さぁ、決断してください! このまま多くの人を傷付けさせるか、今すぐ成仏させるか!」
脇腹の横に両拳を構えたままの洸。氣を両拳に集め、矢吹の決断を待つ。しかし、既に洸の心は決まっていた。矢吹がどんな決断を下そうとも、その瞬間に鬼を攻撃する事を。それが、鬼滅屋の仕事であり、滅破の使命なのだ。
氣が両拳に集まり、洸の足元に風塵が舞う。鬼の動きは遅く、洸と矢吹を探す様に辺りを見回している。既に、体は限界なのだろう。その様子に洸は大声で矢吹に決断を迫る。
「さぁ! 早く決断してください! 矢吹さん!」
両目から涙を流す矢吹。鬼になってしまったと言え、元は自分の大切にしていた猫なのだ。それほどまで、矢吹は猫を大切にしていたのだと、洸にもヒシヒシと伝わっていた。だから、心が痛むし、洸としてもこう言う鬼が一番苦手だった。
両手で顔を覆う矢吹は、遂に決断を下す。流れる涙は止まらず、震える矢吹の声が洸の耳に微かに届いた。
「成仏……させてください」
矢吹の悲しさがその言葉で分かった。この決断を下す辛さも分かった。だから、最後に矢吹に“さよなら”と、言ってもらおうと、洸は両拳を広げ鬼の背中に触れる。そして、暖かく優しい氣を鬼の体へと流し込んだ。
「浄」
小さく洸が呟くと、鬼の体が光の粉となり、消滅して行く。大きな体が上の方から徐々に消えて行き、矢吹はそれを見ながら号泣していた。突き出した両腕を下ろし、洸は静かにその場を退く。すると、何処からか猫の鳴き声が聞こえてきた。
「ミャー……ミャー……」
「……太郎?」
泣き崩れる矢吹が、顔を上げる。すると、一匹の茶色の猫が、矢吹の方へとゆっくりと近付いてくる。体が薄らとしており、いつ消えても可笑しくない。そんな猫を見据える矢吹は、立ち上がり駆け寄り、猫を抱きかかえる。
「太郎……。ごめんね……」
「ミャー……」
静かに鳴く太郎(猫)を抱き締める矢吹に、洸は今までと違う優しい口調で言う。
「もうすぐ、その姿も消えてしまう。最後はあなたの気持ちを伝えてあげてください。そうすれば、その猫だって安心してこの世を旅立てます」
洸のこの言葉に、僅かに首が縦に動いた。
「今まで……ありがとう……太郎。もう……私は平気だから……太郎も……安心して……」
そこまで言った矢吹だったが、涙が止まらず声が詰まる。泣き崩れ、喋る事が出来ない矢吹の頬を、太郎が優しく舐める。「ミャー、ミャー」と、小さな鳴声が聞こえた。だが、その声も徐々に掠れて行き、太郎の姿が光の粉となり天へと昇り始める。
腕時計を見据える洸は、静かに「時間か」と呟き、ゆっくりと矢吹の方へと歩み寄る。完全に太郎の姿が無くなった頃、洸が矢吹の背後で足を止めた。そして、右手を矢吹の頭の上に翳す。眩い光が右手の平に集まり、洸が静かに口を開く。
「俺の依頼は終わりました。報酬を頂きたい所ですが……。まぁ、今日の所はいいでしょう。それでは、俺はこれで」
そう洸が言うと、矢吹が洸の方を振り返る。その瞬間、洸が小さな声で呟く。「忘」と。手の平に集まった眩い光が、矢吹の視界を一瞬真っ白にする。光はすぐに止み、矢吹が地面に横たわっていた。ただ単に、意識を失っているだけだ。そんな矢吹を抱えた洸は、周りに張った結を解き、近くのベンチの上に寝かせた。
「記憶の一部を消しておきました。目を覚ました時には、鬼の事は忘れています。覚えているのは、太郎の事だけです。悲しいかも知れませんが、きっと新たな出逢いもあります。それでは、またの依頼をお待ちしています」
寝ている矢吹にそう告げ、洸はその場を去った。きっと、もう矢吹が依頼をする事は無い。そう洸は思った。
その日の夕暮れ――。
「洸兄!」
結衣の声が事務所内に響き渡った。事務所のソファーで寝ていた洸は、その声に飛び起きる。眠そうに頭を掻く洸は、のん気に欠伸をし、虚ろな眼で出入口にいる結衣を見た。
「ン〜ッ……。何だよ……」
「何だよ……じゃない! 依頼はどうしたのよ!」
「依頼? ああ……。ちゃんと行ったぞ。それがどうした?」
ウトウトとしながらそう答える洸に、結衣が微かに額に青筋を立て引き攣った笑みを浮かべる。
「それじゃあ、どうして依頼料はないのかな? まさかと思うけど……、また貰ってないって事はないよね?」
「おおっ、そのまさかだ。良く分かったな。流石、結衣! 勘が鋭いぞ!」
笑う洸に対し、拳を震わせる結衣は、俯き一度深呼吸する。そして、すぐに顔を上げ声を張り上げる。
「洸兄のバカ!」
「ば、バカって、お前兄貴に対してバカは無いだろ?」
「もう! 何考えてるのよ! これじゃあ、また赤字じゃない! いつもいつも……」
「まぁまぁ、大丈夫だよ。この次は――」
そこまで言った時、洸の額に太い本の角が直撃した。ソファーへと倒れる洸に、結衣はもう一度「洸兄のバカ!」と、叫んで事務所を後にした。