第7部 3話 赤鬼・檄
大きくウネリを上げていた結の膜が、動きを止める。
結内で蠢いていた暴風も静まり、砂埃だけが舞っていた。
ゆっくりと静かに舞う砂埃の中、崩れた岩肌を踏みしめる足音が聞こえてくる。
異様な空気に、ドーム状の結が弾ける様な音を鳴り響かせた。
その音が響く度に、一瞬だけ膨張する結の膜に、遂に亀裂が走る。そして、悲鳴の様な甲高い音が、その亀裂の中から聞こえてきた。
「フフフフッ……。さぁ、狩りの時間だ。本当の地獄はこれからさ。フフフフフッ」
不適な笑みを浮かべる遼が、そんな事を口にすると、ドーム状の結が遂に砕けた。結内に漂っていた砂埃が、破裂すると共に外に散乱する。
結が崩壊すると共に、夏帆の動きが止まった。
殺気、憎悪、怒り。その全てが混ざり合ったオーラが、一瞬にしてこの廃ビル全体を包んだのだ。
まんじゅうを手にしていた夏帆は、すぐにそれを空間の裂け目へと戻し、弓と矢を取り出した。その行動に楓も何かを悟り、銃に弾丸を補充する。傷の痛みは大分引いたが、まだ戦える状態ではない。その事は本人が一番分かっていた。
それでも、表情を変える事なく、楓は平然を装っていた。
「結が、破られた様ね」
「そう……ですね」
歯切れの悪い夏帆の声に、楓は何か疑問を抱く。だが、それを言うよりも先に、破裂音と共に二人の間を割る様に、背後の壁が砕け散る。そして、赤く細い腕が破片の中に見えた。
「なっ!」
咄嗟に身を翻す楓。一方、夏帆は瞬時に弓を構え、矢を引く。
「射ぬ――ッ!」
一瞬の事だった。
突然、視界が暗くなり、頭部に激痛を伴う。何が起こったのか、理解するよりも先に、意識が遠退いた。
「夏帆ちゃん!」
楓が叫んだと同時に、夏帆の頭から赤い鬼の手が離れる。崩れ落ちる瓦礫と共に、夏帆の体が床に倒れる。意識は無い様だ。当然と言えば当然だ。頭部を激しく壁に打ち付けられれば、誰だって意識を失う。下手をすれば、命だって危ない。
床に倒れた夏帆を、見下す赤い鬼。これが、先程の檄なのか、と思う程姿が変っていた。背丈は楓や夏帆と同じ位で、腕も脚も細く引き締まっている。そして、顔などは殆ど人間に近く、二本の角が額から突き出ているだけだ。
静寂が辺りを包む。
銃口を檄の方に向ける楓は、引き金に指を掛けた。だが、それを引くよりも先に、檄の姿が視界から消える。
「消え――!」
それを口にしようとした直後、傷口に激痛が走った。
「うぐっ……」
口から血が吐き出された。音を立て弾ける血痕。そして、左脇腹の傷口に、檄の人差し指が突き刺さっていた。深々と傷口を抉る様に。
「アアアアッ!」
激痛に悲鳴を上げる楓に、不適に笑みを浮かべる檄は、指を抜くと腹に前蹴りを入れる。
「グフッ」
血を吐くと同時に、楓の体は後方に吹き飛び、壁を突き破る。乾いた音が響き、壁が瓦礫と化す。壁を貫いた楓の体は、廃ビルの外まで吹き飛ばされていた。仰向けに倒れたまま動けない楓の意識は朦朧としていた。
(つ……強過ぎる……)
朦朧とする頭で、そう考える楓は、右手に握ったグリップを力強く握り締めた。殆ど無意識で、引き金に指をかけた楓は、静かに呼吸を繰り返しながら、薄らとする視野で空を見据える。
既に闇へと化した空に、星がチラホラ見えた。その星の輝きに、楓は思う。このまま、自分は死んでしまうのだろうかと。そう思うと、自然と涙が流れた。
(何で……泣いてるんだろう?)
そんな疑問が生まれる。だが、その答えを考えている余裕など無く、その耳に檄の足音が聞こえてきた。重々しい不穏な空気を漂わせる足音。それに、体が自然と硬直し、手が震える。
「アッサリトシタモノダナ」
不気味な檄の声に、耳を傾けながらも、瞼を閉じ意識を失っているフリをしていた。今の楓に出来る事は、檄の隙を突く事だけだ。その為、今はただ何もせず動かなかった。
「コレガ、本当ニ数百年ニ一人ノ奇才ナノカ?」
不思議そうにぼやく檄は、ゆっくりと右足を楓の腹部に乗せる。激痛が楓を襲う。だが、楓は奥歯を噛み締めそれを堪える。ここで、動くわけには行かない。この先、どんなチャンスが訪れるか分からないから。
血だけが溢れる。止め処なく傷口から。楓の周りに広がる赤い血の池。それが、異様な空気を漂わせる。
既に楓に興味の無い檄は、ゆっくりと空を見上げる。ゆったりと冷たい風が吹き、まるで血で染まったかの様な真っ赤な髪を揺らす。体に刻まれた銃創は、楓がつけたモノで、それ以外の傷はもう残っていない。再生したのだろう。
「ツマラン。モット強イ――」
檄がそこまで言った時、何処からか風を裂く様な音が聞こえてきた。音に耳をすませる檄の背中に、鈍い音と共に数本の矢が突き刺さる。しかし、顔色一つ変えない檄は、矢を抜くと、ゆっくりと振り返る。
「マダ、動ケタノカ」
「……丈夫だから」
楓の体が貫いた壁の向こうから、静かに夏帆の声が響いた。
楓の腹の上に乗せられた右足が、ゆっくりとどかされる。そして、鋭い眼差しを夏帆の方に向けた。
穴の開いた壁の向こうに立つ夏帆は、矢を構えたまま檄を睨み付ける。一瞬の静寂と共に、檄が地を蹴った。それから遅れて、夏帆が矢を放つ。目で矢を追う檄は、それを右にかわし、夏帆へと迫った。だが、次の瞬間、ブスッと言う鈍い音と共に、檄の体が崩れ落ちる。
「ウグッ……何故ダ!」
驚きの表情を見せる檄の右膝には、先程夏帆が放った矢が、裏側から突き抜けていた。何が起こったのか分からず、怒りを滲ませる檄は、立ち上がると膝に刺さった矢を抜く。膝に開いた穴から粒子状の粉が静かに毀れる。
怖い表情をする檄は、鏃を向ける夏帆を鋭く睨み、鼻筋にシワを寄せる。滲み出る檄の怒りが、大気を震わし、振動で瓦礫が粉々に散った。
夏帆の足元に転がる瓦礫が、全て粉と化し、風に舞う。全く表情を変えない夏帆は、視線をずらす事なく檄を睨んでいた。その目には殺気が宿っている様に見える。
「次も、外さない」
「フザケルナ!」
濁った声を響かせる檄が、勢い良く夏帆に向っていく。無表情で矢を射る。弦音が澄み、矢風が吹き、鋭い音が耳に届いた。飛んできた矢の軌道を、目で追う檄は、今度は左にそれをかわす。だが、次の瞬間左肩に背後から矢が突き刺さった。
「フグッ!」
痛みに動きを止める檄は、それをゆっくりと抜き、奥歯を噛み締め言う。
「ドウ言ウ事ダ! 何故!」
「私の矢は……あなたを射抜く」
「黙レ……黙レ!」
雄叫びを上げる檄の姿が消える。消えたのではなく、一瞬にして夏帆の目の前に移動したのだ。だが、夏帆はそれを予期していた。その為、夏帆は事前に用意していた策の一つを実行する。
「第一陣」
夏帆がボソッと呟くと、空間の裂け目が檄の頭上に現れる。その事に気付く様子の無い檄は、矢を構えたままの夏帆に向って右手を伸ばした――直後、頭上に出来た空間の裂け目から、勢い良く無数の矢が雨の様に降り注いだ。




