第7部 2話 勝算
静かに時が流れる。
二人が、赤い鬼・檄と睨み合って数分が過ぎようとしていた。
緊迫した空気に、夏帆、楓共に表情を崩さずにいる。汗が頬を伝い毀れ、僅かに喉を鳴らす。檄が何を考えているか分からない為、夏帆と楓の二人も攻撃を仕掛ける事が出来ないのだ。
脇腹の傷が、時間と共に痛みを増し、楓は意識が朦朧とし始めていた。足元には血が僅かに広がっており、膝が微かに震える。だが、檄はまだこの事に気付いていない。その為、楓も何とか気付かれまいと、平然を装っていた。
「ハァ…ハァ……」
「辛いなら、休んでていいです」
「大丈夫……こう見えて、結構頑丈だから」
強がる楓は、無理に笑みを見せ、視線を檄の方に向ける。焦っていると、自分でも分かった。痛みも分からぬ程、体が麻痺しているのも実感していた。だから、楓は仕掛けるなら自分が動かなければならないと、確信していた。
グリップを握る手が震える。その為、左手をそっとグリップの下に添え、ゆっくりと照準を合わせる。
「夏帆ちゃん。あとの事任せるから」
小さな楓の声に、夏帆は僅かに表情を曇らせた。
引き金に人差し指が掛かり、呼吸を整えながらゆっくりと力を込める。その瞬間、隣りで澄んだ弦音が響く。楓は驚き夏帆の方に目を向ける。矢は放たれており、弦が僅かに震えていた。
「何で矢を――」
楓が言い切る前に、夏帆が答える。
「私には私の考えがある。だから、心配しなくていいから」
空間の裂け目から矢を取り出した夏帆は、もう一度矢を引く。
先程放たれた夏帆の矢。それは、檄の左肩に刺さっていた。避ける素振りを見せなかった檄は、ゆっくりと右手で左肩に刺さった矢を抜く。傷口から砂が毀れる。
「ふ〜ん。中々の命中率。まぁ、それもいつまで続くのかな」
ビルの屋上で高見の見物をする遼が、ボソッとそんな事を呟いた。
右手に持った矢を折った檄は、静かに視線を夏帆と楓の方に向ける。そして、ゆっくりと息を吐き出す。腹の底から響く様な低い声が、大気を震わせた。暴風が檄を中心に外へと押し出され、地面には細かい亀裂が走る。亀裂は互いにぶつかり合い、音を立てながら突起していく。
何とか体勢を保つ夏帆は、心配そうに楓を見据える。左脇腹からの出血が酷い事から、すでに楓の限界が近いと悟ってはいた。だが、夏帆一人では到底檄には勝てない事も明白だった。その為、夏帆には二つの選択を強いられる。
一つ目は、この場をやり過ごし、身を隠して洸達の到着を待ち、一緒に戦うと言う事。
そして、もう一つは、二人で協力して鬼を弱らせる、と言う事。
この時点で既に勝機が無いと、夏帆は判断していたのだ。それ故に、この二つの選択肢しか残されていなかった。だが、夏帆の選択肢は既に決まっていた。
「退きます」
「エッ!」
「一時撤退です」
夏帆は真剣な眼差しでそう言うと、弓を下ろし右手を檄の方に向ける。
「結!」
右手を中心に薄い膜がドーム状に広がり檄を包む。波動全てを受け止める結の膜が、激しく波打つ。だが、その強度は柔軟で、波動を受けて大きくしなるだけで、壊れる気配はなかった。
結が壊れそうに無いのを確認した夏帆は、空間の裂け目を作り出し、そこに弓と矢をしまう。それから、楓の方に顔を向け小さく頷くと、ゆっくりとビルの屋上に居る遼の方に目を向けた。
「神城さん……動けますか?」
「え、えぇ。何とか、動ける。でも、撤退って……」
「話は後……。今は……逃げます」
真剣な夏帆の表情に、「わかったわ」と、楓は息を吐きながら答え立ち上がった。傷が疼き、表情が険しくなる。だが、その痛みに耐え、楓は笑みを見せた。
夏帆は楓に肩を貸し、ゆっくりと歩き出す。その間、ビルの屋上に居る遼には細心の注意を払っていた。だが、遼は動く気配もなく、夏帆や楓の事など全く相手にはしていない様だ。しかし、夏帆はそれでいいと思っていた。その方が色々と都合が良いからだ。相手が油断していれば、簡単に足元をすくえる。その為にも、今は楓の傷を癒したいと、夏帆は考えていた。
廃ビルの中へと逃げ込んだ夏帆と楓は、入り口から一番離れた部屋の隅へと身を隠していた。血痕も残さない様に移動した為、そう簡単には見つかりはしないだろう。
「傷、大丈夫……ですか?」
崩れかけた壁に凭れ掛かる楓に、夏帆は小声で尋ねた。肩で息をする楓は、左手で傷口を押さえ、引き攣った笑みを見せ答える。
「大丈夫よ。これ位……ツバ付けてれば治るわ」
「傷が、化膿すると、危険。一応、軽い手当てを……」
途切れ途切れの口調の夏帆が、空間の裂け目からガーゼと包帯と消毒液を取り出す。そして、封鬼符も一ロール取り出した。
制服の上着を捲り、傷口を確認する。傷の大きさは十センチ程。出血の仕方からして、傷は大分深い。その為、夏帆は右手を傷口に翳し氣を練る。
「浄」
ボソッと呟く程度の小さな声でそう言うと、楓の傷口を薄らとした光の膜が包み込んだ。傷口が少しずつ癒されていき、出血が少々治まった。
だが、傷を癒す事が出来るのはここまでだ。夏帆はこの術が苦手で、完全に使いこなす事は出来ていない。元々、『浄』と言うのは、悪いものを浄化すると言う意味だ。治療用の術ではない。それに、夏帆自身、思っていた。『自分は破壊する者だ』と言う事を。
「止血の方は、これで良いと思います」
「ありがとう。これならあれとも戦えそうね」
ニッコリと笑みを浮かべる楓は、包帯を巻かれた傷口に左手を当てる。浄で癒したと言っても、傷口がちゃんと塞がったわけではない。その為、ガーゼ数枚で止血し、こうして包帯を巻いて固定していた。
何重にも重ねて巻いた為、今の所血色は見当たらない。それに、傷の痛みも和らいでいた。
静かに息を吐く楓は、ボロボロの天井を見上げる。不安が脳裏を過り、静かに両膝を抱えた。
そんな楓の不安を他所に、隣りでは夏帆が黙々とまんじゅうを食べていた。
「もぐもぐ……もぐもぐ……」
不安で緊張していた楓も、流石に呆然としていた。そして、ため息と同時に、緊張している自分が少しだけ情けなく思えた。
「ハァ……。あなた、結構図太いのね」
「いえ……。緊張すると……普段通りの動きが、出来なくなる……から。それに……糖分は、頭の働きを、活性化するし、疲れも取れる……」
もっともらしい意見を述べる夏帆に、圧倒される楓は、呆れた笑いを浮かべ、静かにため息を吐いた。何と無く緊張が解れた楓は、まんじゅうを食べる夏帆の横顔を見つめる。そんな楓の視線に、夏帆も気付く。
「食べ……ますか?」
楓に持っていたまんじゅうを一つ差し出すが、楓は「今はいいわ」と、返答した。その答えに「そうですか」と、呟いた夏帆は、またまんじゅうを食べ始める。一体、どれ位のまんじゅうが、空間の裂け目にしまってあるのかは不明だが、すでに十個以上は食べているのは確かだった。
「夏帆ちゃんはまんじゅうが好きなの?」
「別に……好きじゃない。けど、嫌いでもない」
「そ、そうなんだ……。でも、何でそんなにもってるの?」
この質問に、夏帆は少し間を空け答えた。
「洸兄が、よく買って来るから……」
「ふ〜ん。洸がネェ……。でも、洸って、まんじゅう好きだっけ?」
それに対し、激しく首を左右に振る夏帆は、右手に持ったまんじゅうを見据えたまま答える。
「先生が、甘い物好きだったから……」
「そういえば、優作さん相当甘党だったわね」
「うん。特に、このまんじゅうを気に入ってたから」
「ふ〜ん。そうなんだ……。それじゃあ、相当甘いの?」
この問いに対しも、夏帆は首を振る。今度はゆっくりと静かに。
「このまんじゅうは、甘さ控えめ……。洸兄が、先生は糖分を取り過ぎるからって……安くて、美味しくて、甘さ控えめのまんじゅうを、見つけてきたの……」
その話に、楓は少し意外に思った。洸はもっと雑で、健康面なんて全く気にしない様に思えたからだ。人とは見かけによらないな、と思う楓だった。