第6部 3話 肉体と精神
「洸兄。シュン、大丈夫かな?」
心配そうな表情で結衣が問う。
だが、走り続ける洸は振り向かずに答える。
「心配するな。あれでも、先生に術を教わってるんだ」
「けど、シュンは洸兄や夏帆と違って、絶しか使えないんだよ?」
走るのを止め立ち止まる結衣。それに釣られ洸も足を止め振り返る。
結衣の目には涙が溜まり、今にも毀れだしそうだった。俊也の事が心配で――自分が何も出来なくて――悔しくて――涙が止め処なく流れてくる。殆ど無意識の事だった。
頬から流れ落ちる涙に、小さく息を吐く洸は、右手を結衣の頭へ乗せると、あの頃の優作の様に乱暴に頭をなでた。結衣の髪は洸と違いサラサラで、指の合間に絡まる事無く抜ける。少しだけ残念そうな洸は、渋い表情で言う。
「泣くな」
「でも……」
「信じるんだ。俊也の事を――」
「信じてるけど……。怖いよ」
肩を抱き震える結衣。洸は何が怖いのかはあえて聞かず、静かにもう一度頭を撫でた。今度は優しくゆっくりと。そして、落ち着いた声で言う。
「行こう。俺達は夏帆を助け出さなきゃいけないんだ。ここで立ち止まってる場合じゃない」
「分かってるけど……」
「全てが終わってから、ゆっくり皆で話そう」
「うん……分かった……けど……」
鼻を啜り結衣が、語尾を濁す。その目は少しだけ不服そうな目をしており、大分冷やかな視線が洸の胸を突き刺す。うろたえる洸は、上半身を少しだけ後ろに引き、苦笑いを浮かべる。
「な、何だよ。その目は……」
「だって……。洸兄、絶対寝るでしょ?」
「うっ……。そ、そんな事は……」
ハッキリと否定する事の出来ない洸。正直、鬼と戦った後に眠くならない自信は無かった。いや、絶対に眠ってしまうだろう。それでも、ここはハッキリと否定しようと、洸は胸を張り言い切る。
「大丈夫だ。絶対寝ない!」
「本当に?」
「ああ。本当だ」
「約束だからね」
「男に二言は無い!」
と、言いつつ洸は不安だった。それでも、表情には出さずに堂々としていた。これが、洸に出来る最善の方法だったからだ。
その言葉に安心したのか、少しだけ笑顔が戻った結衣は、すぐに真剣な表情をして、「急ごっ」と、軽い口調で言って走り出した。色々と不服な部分もあったが、洸は小さくため息を漏らし静かに結衣に続くのだった。
対峙し合う俊也と青い鬼。
砕かれた地面は鋭い岩肌を露出し、その先端の所々には血が付着していた。
噛み殺した様な呼吸を繰り返す俊也に対し、まるで息をしていない様に静かな呼吸をする青い鬼。互いに一歩も譲らず、殺意と闘志を剥き出しにしている。
これでもかといわんばかりに開かれた瞳孔。血走る眼球。口角からは血が涎と混ざり合い毀れる。粘り気のある赤い液体が、糸を引きながらゆっくりと地に落ち、べチャと小さな音を起てた。
「フーッ……フーッ……」
右手に持つ封鬼符が更に光を帯び、少しずつ周りが欠け始める。その先が地に触れ、地面を砕く。地面の砕ける音が響くと、青い鬼の方が一直線に俊也に向う。一方、低く構えた封鬼符を振り上げ様ともせず、俊也はただジッと青い鬼を睨みつけていた。
青い鬼の足が地を蹴る度に、地面の砕け散る音が響き、周りには振動が広がる。それに共鳴する様に、周囲に張られた結の膜だけが揺れ動く。
吹き荒れる風により、揺れる俊也の前髪。荒々しかった呼吸は、いつしか落ち着き、開ききっていた瞳孔がゆっくりとだが元に戻りつつあった。ぶっ飛んでいた意識も薄らと戻り、俊也の朦朧とする視界の中に、迫る青い鬼の姿だけがハッキリと見えた。
(やべぇ……。暴走してた……)
朦朧とする意識の中でそんな事を考えていた俊也は、体中の痛みに僅かに表情を歪めた。
(――ッ! イテェ……。大分、無理したみてぇだ……)
迫り来る青い鬼を見据えながらも、落ち着いた様子で色々な事を考える。現在の状況。自分の体へのダメージ。残りの氣の量。鬼の弱点。次の攻撃を凌ぐ方法。様々な考えを一瞬の内にする。だが、朦朧とする意識の中では、何の答えも出せぬまま、俊也の体は勝手に封鬼符を振り上げた。
振り上げた封鬼符が、いつの間にか振り下ろされていた青い鬼の右拳と衝突する。肩を突き抜ける様な激痛に、表情を微かに歪ませた。一方、青い鬼の右拳は、綺麗に真っ二つに裂け、微量の粉が舞う。
(グッ……イテェ。何で、体が勝手に……)
朦朧とする意識に激痛だけが伴い、体が勝手に動き出す。その度に節々が軋み、激痛が全身を駆け巡る。
(クッ……。痛みだけが――)
「ウガアアアッ!」
もう一度青い鬼が拳を振り下ろす。その拳の軌道に逆らわず、俊也は体を左に回転させ拳をかわし、右手に持った封鬼符を青い鬼の腕に突き刺す。低音で痛々しい短音が微かに聞こえ、同時に青い鬼の呻き声が轟く。
「ガアアアアッ!」
(ううっ……。俺の体も限界……か……っても、完全に暴走したままなんだがな……)
荒々しい呼吸を繰り返す俊也。暴走とは言え、体の方も限界を感じているらしく、両膝が震え始めていた。それに、上半身の方が前屈みになり、両肩とも激しく上下している。
「ハァ……アウッ……」
苦しそうな呼吸を繰り返し、口角から赤い涎を滴らせる俊也は、前屈みになる上半身を起すと、青い鬼の腕に刺さった封鬼符を抜く。砂の様な粒がその傷口から溢れる。流石に青い鬼の傷はもう再生しない様だ。その証拠に、先程裂いた右拳の半分か消滅していた。
痛みに悶える青い鬼は、悲鳴の様な声を轟かせ、傷付いた拳で地面を何度も殴り続けている。気でも狂ったとしか言い様の無い行動に、俊也も少なからず驚きを隠せないでいた。
だが、暴走中の俊也の体は、自分の体に容赦無く激痛を走らせながら宙に飛ぶと、何の躊躇も無く青い鬼へと刃と化した封鬼符を振り下ろした。輝く封鬼符が先の方から砕けながら、青い鬼の額へと直撃した。刃は砕けながらも、青い鬼の額を切り裂きそのまま真っ直ぐ地面まで落ちる。
「グオオオオオッ!」
不気味な青い鬼の声。それは、悲鳴にも似た苦しそうな声だった。だが、その声も長くは続かず、青い鬼の体は粒子となり消滅する。完全に青い鬼の体が消滅したが、俊也の体の暴走は止まらなかった。拳で地面を殴ったり、封鬼符で結を攻撃したりと、暴走は更に悪化していく。これでは、俊也の体の方が崩壊してしまいそうだった。
(ぐぅ……なっ、何とかしねぇと……)
暴走する体を制御しようと、頭を働かせる。だが、頭で考えた所で制御する事は出来ず、拳が地面を打ち付ける度に血の雫が舞う。道路に飛び散る血痕。拳の皮が剥け、破片が食い込んでいる。
痛みだけが俊也に伝わり、激痛に意識が遠退きそうになる。このまま暴走を続ければ、俊也の精神も完全に崩れ去る事になるだろう。
「全く……。暴走するなんて……まだまだですわ」
「うぐぅ……ガハッ……」
吐血する俊也は、声のする方へと体を向ける。そこにはワンピースのスカートの裾が削ぎ切れ、ボロボロの雨森の姿があった。フレームの歪んだメガネを外し、小さく息を吐き、ゆっくりと俊也の事を見据える。