第6部 2話 暴走
崩れかけのビルの屋上。
乾いた風が吹き抜け、微量の埃が宙を舞う。
既に陽が落ち様としており、オレンジの空が闇へと変ろうとしていた。
その空の彼方を見つめる少年は、遠くに見える鳥の影を目で追う。
乾いた風がもう一度吹き、彼の跳ね上がった茶色の髪を優しく撫でた。
「フッ……」
瞼を閉じ、静かに息を吐く。一つの気配が弱まったのを、風の流れで悟った。
落ち着いた面持ちの少年は、もう一度ゆっくりと息を吐くと、振り返り赤い鬼の方に目を向ける。赤い鬼の右手には、グッタリとした少女が握られ、全く動かない。微かに息はある様だが、弱々しく今にも途切れてしまいそうだ。
そんな事を気にしていない様子の赤い鬼は、右手の力を緩める事無く、少年の目を真っ直ぐに見据え口を開く。
「死ンダ……ノカ?」
ぎこちない言葉遣いの赤い鬼に対し、不適な笑みを見せる少年は、右手で髪を掻き揚げ静かに答える。
「フフフフッ……。大丈夫だよ。アレはそう簡単には死なないよ」
「ソウカ……」
残念そうな表情を見せる赤い鬼に、優しい笑みを見せる少年は「戦う相手なら、もうじき来るよ」と、告げ不適に笑った。
横たわる青い鬼を背に、苦しそうに呼吸をする雨森。
彼女は既に氣を使い切っていた。全力を出したのだ。当然と言えば当然の結果だ。
息の荒い雨森に手を貸そうと、歩み寄る俊也は、ふと違和感を感じる。それがなんなのかは、ハッキリとしないが、何処か納得できないでいた。
頭の中がモヤモヤとする為、足取りも重くその場で立ち止まる。そして、その違和感の原因を俊也は目撃した。
「危ない!」
叫び声とほぼ同時だった。倒れていたはずの青い鬼の右拳が、雨森へと振り下ろされた。
「なっ!」
完全に油断していた雨森に、それをかわす術は無い。その為、俊也は右手を翳し叫ぶ。
「結!」
右手から薄い膜が張られ、そのまま雨森を覆う。だが、結が完成するより先に、青い鬼の拳が、結の膜に衝突した。衝撃波が広がり、不安定な結の膜に波紋が広がる。今にも砕け散りそうな程、不安定な結を構成しようと試みる俊也だが、その波紋は結に触れている俊也の右手を弾き飛ばした。
「グッ!」
弾かれ体勢の崩れた俊也だが、青い鬼の一撃は完全に阻止した。これは、この状況において、最も有効的なモノとなる。
結によって受け止められた青い鬼の拳。そして、それによって救われた雨森が、右手に封鬼符を握り立ち上がる。穏やかな目の奥に静かなる闘志を燃やす雨森は、俊也の方に顔を向け言う。
「助けられてしまいましたね。私とした事が……」
「助けたわけじゃねぇ。借りを返しただけだ」
腰を落としていた俊也が、そう言いながら立ち上がる。不思議そうな顔をする雨森は、首を傾げつつも右腕を振り上げた。
「借りを返される覚えは無いのですが?」
「結衣姉を助けてもらった」
「その事でしたか」
そう言うなり、雨森は振り上げた右腕を勢い良く振り下ろす。と、同時に青い鬼の右拳が引かれ、続け様に左拳が振り抜かれた。雨森の振り下ろした封鬼符の先が、左拳の中指の付け根にぶつかり、骨の砕ける不気味な音が轟く。
二つがぶつかり合うと同時に吹き荒れた突風は、一瞬にして砂埃を舞い上げ、雨森の姿を俊也の視界から消し去った。
「クッ! 何も……見えねぇ」
両腕で顔を庇う俊也は、前屈みになり風に耐える。乾燥された風で、俊也のヘアーワックスで固めた髪も、大きく揺れ乱れ始めていた。
「どうなってやがる……」
眉間にシワを寄せ、右目を閉じる。風は徐々に弱まり、砂埃が薄れ、雨森と青い鬼の姿が視界に入った。左拳と封鬼符がぶつかり合ったまま動かず、二人も硬直している。その緊迫した空気に息を呑む俊也は、もしもの時に備え右手に握った封鬼符に氣を流し続けた。封鬼符を構え、右足を前へと踏み出す俊也は、いつでも飛び出す準備は出来ており、軽く右目を閉じると、静かに息を吐き出す。
穏やかな風がゆっくりと流れ、ようやく二人の体に変化が起きた。
「うくっ……」
初めに崩れたのは雨森の方だ。右手に持っていた封鬼符は、衝撃に耐え切れなかったのか、砕け散り消滅し、雨森の口角からは真っ赤な血が流れた。やはり、あの衝撃波に小柄の雨森の体が耐えられるはずが無かったのだ。
右膝を地に落とし、左足だけで体を支える雨森は、右手で左脇腹を押さえながら、小さく呼吸を繰り返す。体中に走る激痛は、呼吸をする度に雨森の体力を蝕んでいた。
「ハァ…ハァ……」
口で息をする雨森は、目を細めて目の前の青い鬼の姿を見上げる。まるでダメージの見えない青い鬼に、驚きを通り越し、呆れて苦笑するしかなかった。
「フフ…フフフフッ……」
氣を使い果たした雨森は、狂った様に突如笑い出す。
その光景に戸惑う俊也は、渋い表情を見せる。だが、次の瞬間、表情は一変する。
青い鬼の左拳が開かれ、そのまま雨森を潰そうと振り下ろされたのだ。氣を使い果たした雨森に防ぐ術は無い。一方の俊也は結を構成する余裕は無く、叫んだ。
「危ない!」
しかし、既に手遅れだった。青い鬼の左手が、大きな音を起て地面を震わせる。手の平の下には亀裂が走り、割れた地面は突起物が無数飛び出ていた。
「フガーッ……フガーッ……」
荒々しい呼吸を繰り返す青い鬼は、左手を地面に落としたまま、ゆっくりと体を俊也の方に向ける。
両肩を落とし、俯く俊也。怒り――それが、俊也の奥底に眠っていた記憶を呼び覚ます。幼い時の忘れかけていた記憶。まだ、優作や洸・結衣と会うずっと昔の記憶が、俊也の脳裏へと映像として蘇る。
父に何度も打たれる恐怖。憎しみと殺意。それらが、俊也の理性を奪い、流れる氣を暴走させた。
「ウアアアアアアッ!」
悲鳴にも近い叫び声が響き、俊也が青い鬼へと突っ込む。右手に握られた封鬼符は、これまでに無い以上の光を放ち、今にも封鬼符を消滅させてしまいそうだ。青い鬼は、突っ込んでくる俊也に向かい、右拳を振り抜く。
だが、その拳は空を切り、穏やかな風だけを吹かす。その風に靡く俊也の服の裾。高らかと舞い上がった俊也は、頭上に構えた封鬼符を素早く振り下ろす。しかし、青い鬼もすぐさま左手を振り上げ、俊也の体をなぎ払う。
「ぐうっ!」
吹き飛んだ俊也の体は、結の膜へ衝突し地に落ちる。だが、すぐに体を起した俊也は、もう一度青い鬼へと突っ込む。まるで何かに取り付かれた様に、青い鬼だけに向っていく。しかし、青い鬼も怯む事無く、両拳を交互に振り下ろす。右の拳をかわせば左の拳が襲い掛かり、左の拳をかわせば右の拳が襲い掛かる。
飛び交う石の破片に、衣服を裂かれ血を流しても、青い鬼へと向っていく。体中傷だらけで、痛々しく血が流れる。もう立てるのが不思議な位だ。
「フーッ……フーッ……」
食い縛った歯の間から息を吐く俊也は、腰を低くし封鬼符を下段に構える。地面スレスレに構えられた切っ先は、今にも地面を引き裂いてしまいそうだった。