第4部 1話 雨の降る日
梅雨時――。
ジメジメと陰気臭い雰囲気の中、薄暗い事務所に二つの影があり。
淀んだ雲から降り注ぐ大粒の雨は、窓ガラスを激しく叩く。
デスクの上に散らばった資料の山は、今にも崩れそうになっている。
真新しいソファーはまだ艶が残り、小さなテーブルには値札が貼られたままになっていた。
そんな事務所の出入口に、背の高い男とまだ幼さの残る少年がいる。男の方は三十後半、少年の方はまだ十代になりたてと言った所だろう。
黒のスーツに身を包んだ男は、サラサラの髪を左手で掻き揚げる。額に多少いくつかの傷痕があり、それを隠す様に前髪を目に被る程度まで伸ばしていた。穏やかで優しい目つきのその男は、寂しそうな表情をする少年の頭に、右手を乗せるとクシャクシャと乱暴に髪を掻き毟る。
「う〜っ! な、何すんだよ!」
幼さ残る声で少年が叫び、男の右手から逃れ様とする。だが、男の大きな手は確りと少年の頭を捕まえている為、少年のひ弱な力では逃れる事が出来なかった。
必死になる少年の姿を見据える男は、白い歯を見せ大声で笑うと、更に乱暴に頭を撫でる。
「い、痛いよ! やめろよ!」
必死の抵抗の後、少年はようやく男の手から開放される。不貞腐れる様に頬を膨らす少年は、眉間にシワを寄せたまま男の顔を睨んでいた。
「オイオイ。ガキの頃からそんな顔していると、大人になってもそんな顔になっちまうぞ」
暖かで優しい男の声に対し、少年はムスッとした声で返答する。
「別にいいもん」
「まぁ、俺には関係ないけどな」
「うるせぇ! 早く行けよ。今から仕事だろ?」
「おおっ! そうだ、そうだ。でもな、心配でな〜」
男が腕を組んだまま複雑そうな表情を見せる。少年はそんな男の目を睨み返し、ブスーッとした顔で言う。
「何だよ。どうせ、すぐ帰ってくるんだろ? 心配すんなよ。俺が先生のいない間は皆を守るからさ」
「おおっ。そうか、そうか。お前が……」
そこまで言って男の口が止まった。そして、不安そうな目で少年を見る。男の目に気付いた少年は、仏頂面のまま口を開く。
「な、何だよ! 俺だって少しは術が使えるし、鬼だって何度か倒した事があるんだ! 家族を守る事位簡単だよ!」
その言葉に、男は腰を屈め少年の右肩に左手を乗せると、穏やかな声で言う。
「洸……。戦いに置いて、一番難しいのは、誰かを守ると言う事だ。お前は強いし、家族想いだ。心配は無いと思うが、力の使い方は間違うな。それから、俺がいない間はお前が皆を守るんだ。良いな」
「わ、分かってるよ!」
急に真剣な表情をされた為、洸と呼ばれた少年は緊張で声が裏返った。その瞬間、男が笑いを噴出す。
「ブッ……ハハハハハッ! そんな緊張すんなって。大丈夫だよ。すぐ戻るんだ。その間だけ、この事務所と皆を頼むぞ!」
男はポンと肩を軽く叩くと、悪戯っぽく笑みを浮かべる。そして、「それじゃあ、皆を頼むぞ」と、言い残し事務所を後にした。この時はまだ事務所の扉も軋まず、静かに開いた。
それから数日後――。
雨の降る中、事務所に一本の電話があった。その電話に出たのは洸で、電話の主はあの男だった。受話器越しからでも分かる明るく穏やかな声。だが、何処か不自然な感じだった。
『悪いな。依頼中は電話しない様にしてたんだが』
「いや……。別に良いけど。どうかした?」
依頼中に電話をしてくるなんて、初めての事だった為、洸も少し驚いた。だが、それを声に出さない様に対応する。そんな洸に、受話器越しに微かに笑う男の鼻息が聞こえた。少しだけそれがムカついた。その為、乱暴な口調で言い放つ。
「用が無いなら切るよ。依頼中なんだろ?」
『まぁな。ってか、用があるから電話したんだよ』
「それで? 用って何?」
『実は忘れ物してな。チョット届けてくれないか?』
「届けてくれって……。俺は、結衣や俊也や夏帆を守らなきゃいけないんだぞ?」
呆れた様な声で対応する洸に対し、真剣な男の声が聞こえた。
『頼む。俺は手が放せないんだ』
「手が放せないのに電話か?」
『あー言えばこー言うな。とりあえず。持って来いよ。デスクの右の一番上の引き出しに入ってる封筒だから』
「うん。分かったよ」
『それから、この事は結衣や俊也、夏帆には言うなよ。いいな』
「うん……。分かった」
少し疑問に思ったが、洸は受話器を置きデスクの引き出しから封筒を取り事務所を出た。もちろん、結衣や俊也、夏帆には内緒で。土砂降りの中、傘を片手に必死に走った。電話で言われた場所に向って。
男に何かあったのかもしれないと、少しだけ脳裏に過る。駅まで走った後、電車に乗った。何度か乗り継ぎ、ようやく目的の場所へ辿り着いたが、そこに男の姿は無かった。
単なる遅刻だと思った洸は、傘をさしたままその場で少しだけ待つ。
「遅いな……」
何分も待ってはいないが、この時は待っている時間が物凄く長く感じていた。だから、洸は男を探して、その場を離れた。そして、すぐそこの角を曲がった瞬間、洸の視界に見覚えのある男の後ろ姿が映った。だが、それは洸にとって悲惨な現場だった。
男の背中から突き出た赤黒い手。それは、間違いなく鬼の手だ。そして、男越しに僅かに見える白銀の髪が、雨を弾いて美しく輝いているのが分かった。
「せ……先生!」
洸は思わず叫んでしまった。その瞬間、僅かに男の顔が洸の方を見ようとする。だが、それも叶わず、鬼の手が男の体から抜かれ、地面に崩れた。血が貫通した胸から流れ出て、土砂降りの雨に溶け込み、下水へと流れる。
持っていた傘を投げ捨て、洸は男の下に駆け寄った。頬を伝う雫は、降り注ぐ雨の粒と混ざり、静かに地に落ちる。男の体に泣き付く洸は、必死に叫んだ。
「先生! すぐ戻るって言ったじゃないか!」
「……」
その声に返答は無い。微かに息があるが、弱々しい。それに、この傷ではどちらにせよ死んでしまう。それを洸は悟っていた。だから、必死で男の隣りで泣き叫んだ。
「先生! ――先生!」
洸の声が響くが、すぐに激しい雨音にかき消される。ずぶ濡れの洸は俯き嗚咽を吐く。
――ルルルルルルッ。
激しい電話の音で、洸はようやく目を覚ました。資料を纏めている途中で眠ってしまったのだろう。デスクの前で椅子に座ったままの状態だった。デスクの上には山の様に散乱した資料があり、外は昨日から大雨が続いている。
二・三度頭を軽く振る。外撥ねした黒髪が、若干揺れてまた元に戻った。久し振りにあの夢を見た。そのせいか、少しだけ気分が悪い。多分、デスクに向かい合ったまま寝てしまったせいだろう。
――ルルルルルルッ。
電話はしつこく鳴り続ける。まだ頭がボンヤリする洸は、電話に出たくなかった為、そのまま放置していた。
――ルルルルルルッ。
五分が経過した。既に諦めてもいい頃合だが、この電話の主は諦めると言う事を知らないのか、ただしつこいだけなのか、全く途切れる事は無い。
流石の洸もあまりのしつこさに、遂に受話器を手に取る。
「……はい。探偵事務所鬼滅屋」
少々苛立った声に、受話器の向こうから美しい女性の声が聞こえる。
『随分と時間が掛かりましたね。忙しかったんですか?』
その声に、洸は聞き覚えは無かった。その為、少し荒々しい口調で問いただす。
「……誰だ? お前」
『いやですね。滅破の集会のお知らせですよ。神村町の担当は鬼滅屋の責任者神村 優作様でしたので、その跡を継いだ神村 洸様に連絡を差し上げたのですよ』
「おい……。人の話を聞いてんのか? お前は誰だ?」
『それでは、連絡は差し上げましたので、後日集会場に集まってください。一応、ファックスの方で集会場の場所をお送りいたしますので、これで』
「おい! 待て! おま――切りやがった……」
結局、電話の相手は言いたい事だけを告げ、洸の質問には答えずに切れていた。不機嫌そうな顔つきの洸は、受話器を置き、腕を組んだまま椅子に座り窓の外を見据える。そして誓う。今度あいつから電話がきたらすぐに切ってやると。