第50話 明星の雨
夜と朝の境目、暁七つ、または明星の刻。
森はまだ眠っているのに、空だけがひっそりと目を覚まし始めていた。
僕は焚き火に薪をくべながら、冷えた空気を胸いっぱいに吸い込む。
薪が燃える匂いと、朝の澄んだ空気が混ざり合うこの瞬間の匂いは、なんだか懐かしくて心安らぐ。
森の空気は、夜半に急速に冷え込み、淀んだ空気を塗り替えていく。
夜明け前に新しい空気が森に満ちていき、一番澄んだ空気を楽しむことができる。
音がないわけじゃない。
鳥の羽ばたき、遠くの枝が揺れる音。
小さな生き物が動くことで揺れる茂みの葉摺り。
それら全部が、静寂の一部として溶け込んでいる。
僕にとっては、とても理想的な朝だ。
サリティさんと交代してから、少し経った。
彼女は「任せた」と言って、あっという間に眠りに落ちた。
彼女らしいね。
焚き火の熱に手をかざせば、夜の鋭い冷気で冷えた手に温もりを与える。
この温もりもまた、冷え込む森の朝にはちょうどいい。
さて、昨日ユディが言っていた明け方の5分だけ降るという『雨』。
時間的には、もうすぐ始まるはずだよね。
森の空気は、先ほどから少し湿度が増しているようで、森の奥が霞を帯びている。
風があるのに、葉のざわめきが消える。
まるで森全体が、何かを準備しているような錯覚を覚える。
森の天蓋をぼーっと眺めていると、二つのテントの布が、内側からもぞりと動く。
あら、お早いお目覚めですこと。
昨夜のテントの明かりがしばらく続いていたことを考えると、あまり寝られていないんじゃないのかな。
先に顔を出したのはアイゼンくんだった。
髪が寝癖で跳ねていて、目元は案の定、まだ眠たげに半分閉じている。
それでも、彼らしい律儀さで僕に軽く会釈する。
「……おはようございます、アルトゥス様……。雨はまだ降っておりませんか?」
「うん。まだ降ってないよ。」
続いて、ミランゼさんがふらりとテントから出てきた。
髪は少しだけ跳ねてはいるものの、身だしなみは整っている。
外見の雰囲気通りのどことない優雅さを感じる。
やっぱり、この人育ちがいいんだろうね。
ただ、その育ちの良さもスライム入りの瓶を抱えたままなことで、台無しになってはいるけど。
まあ、そういう高貴な生まれっぽくない行動というのが、彼女の魅力なのかな。
「ん〜……。おはようございます、アルトゥス様……。
雨……雨のデータを集めないとですわー。」
声は眠そうなのに、好奇心で無理矢理身体を動かしているみたい。
研究者って、ある意味欲望に忠実だよね。
自分の見たい、知りたいのために身体が頭に引っ張られて行動を始めるというか。
まあ、僕も割と人のことはいえない質ではあるけどさ。
「せっかくだし、みんなで見ようか。」
僕がそう言って、女性陣のテントの入り口を少しだけめくる。
すると、その影からひょこっとユディが顔を出した。
こっそり早起きしてて、僕のことを眺めてたみたいだね。
「ピャッ!?あ、アルトゥス様!?き、気づいてらっしゃいましたか……?」
「ふふ、ミランゼさんがテントから出てきたときに、頭が見えてたからね。
ほら、ユディもおいで。こっちで雨を待とうじゃないか。」
本当はずーっと視線を感じてたからなんだけど。
というか、寝息と起きた後の呼吸の違いや、『温度変化』を視ることでどういう状態なのかは筒抜けなんだけど。
でもこれを言っちゃうと、ユディに今までずっと見られていたことを知っていたってバレちゃうからね。
気づかないフリをしてあげないと。
あわあわしながらも、ユディもテントから出てきた。
その姿に、ミランゼさんがくすりと笑う。
「ユディスさんも素直じゃありませんのね。
アルトゥス様ならコソコソしなくても、いろいろ話してくださいますわよ。」
それは本当にそうなんだよな。
まあ、ユディはこっそり見守りたいみたいだしね。
本人の意思を尊重してあげてください。
もちろん、これは口には出さない。
当のユディは照れたように頬を赤くしながら、僕に視線を向けた。
「サリティさんは、起こさなくていいんですか?」
「うん。僕を信じて休んでくれてるからね。そのまま寝かせてあげよう」
ユディは、少し驚いたように目を丸くした。
「サリティさんのこと、とても信頼しているんですね。」
「僕がそうやって信頼されているとしたら、同じくらいは返したいよね。」
そういうと、ユディはそうですかと小さく呟いた。
その顔には、ほんの少しの羨望が浮かんでいる。
なので、僕はそっとユディの頭を軽くなでた。
ピャッという小さな声こそ漏れるが、なんとなく僕がそうする意図を汲んでくれたのだろう。
逃げずに成すがままになる。
本当は信頼できるとかできないとか、そんな大げさなものじゃない。
僕たちはなんとなくお互いの距離感の心地よい所を探りあって今の関係に落ち着いている。
サリティさんは直感で。
僕は理性で。
それぞれがこのくらいがいいんじゃないかという距離感に収まる。
お互いの認識として、ちょうどよいところに立っているんだ。
だから、ユディにもそうあってほしいと願いを込めた。
でも、撫でる手はすぐに離した。
彼女も大人だからね。
こういう扱いはそんなに良くないだろう。
「……。」
ユディは黙って受け入れる。
離れる手には、少しだけ満足げに、でもどこか物足りなそうにしながら。
手が離れると、彼女は僕から離れた。
向かった先は昨日準備したタープの元。
てきぱきと周りの掃除をしてから、火が消えてないことを確認してお湯を準備し始めた。
働き者だねぇ。
空の色が、ほんのりと薄桃色に変わり始める。
夜明けの光は、まだ闇を薄く押し返すだけ。
世界が、静かに夜を手放していく。
そろそろかな。
僕たちは自然と上を見つめる。
この間に喋ることはない。
木々のせせらぎと、ユディがちょこまか働く音だけが静かな森に響く。
そして、待ち望んでいた変化が訪れる。
空の色がゆっくりと薄桃色から金色へと変わり始めたころだった。
ぽつ、ぽつ――。
静かな音が、タープの上に落ちた。
最初は一滴。次に、もう一滴。
やがて、シトシトと細やかな雨音が広がっていく。
「……降ってきましたわね。」
ミランゼさんが、タープの端に手を伸ばし、落ちてくる雫をそっと受け止めた。
ユディは慌ててやかんとコップをもってタープの下へ駈け込んできた。
「……ふむ、大体同じ時間帯ですね。このように、明け方に雨が降ります。」
そう言いながら、アイゼンくんがメモに何やら書きこんでいる。
ちらりと覗くと、時間が書き込まれていた。
定期的な観測として記録に残しているのだろう。
「過去の時間帯も記録に取っている?」
「1か月分くらいは取っております。ご覧になりますか?」
そういって僕にメモ帳を渡してくれた。
パラパラとめくってみると、『森の定期降水について』と簡単なタイトルに、日付と時間だけのシンプルなト書きが並んでいる。
細かい時間の違いはあるけど、確かに同じ時間帯の雨の情報だ。
「この時間に雨を溜め込むことができればと思いまして。」
なるほどね。それはいい考えかもしれない。
ほぼ毎日決まった時間に雨が降るとすれば、水源としてうまく活用できるだろう。
だが――
僕の耳には、別のことが引っかかっていた。
タープに落ちる音が、妙に重い。
うーん、どういえばいいのかな。
普通の雨より、雨粒が大きい。
雨なら、もっと細かくて軽い音になるはずだ。
ぽつん、ぽつん――。
まるで、上から雨粒が一つにまとまってから落ちてきているような、大きな音。
「アルトゥス様……?」
ユディが顔を顰める僕を不思議そうに見上げている。
……悩んでても仕方ないか。
気になったならさ、見に行けばいいよね!
「あ、アルトゥス様、どちらへ!?濡れてしまいます!」
ユディの制止が届くより早く、僕は近くの樹に駆け出した。
幹は少し湿っていたが、足場はしっかりしている。
足に力を込めて跳躍した。
枝を蹴り、幹を掴み、軽やかに駆け上がる。
森の子の面目躍如ってところだね。
懐かしいあの頃の感覚が、自然と蘇ってくる。
最後の枝を踏みしめ、視界が一気に開けた。
――空は、雲ひとつなかった。
明星の刻。
夜と朝の境目の光が、空を淡く染めている。
見渡す限りの緑の絨毯の向こうまで、綺麗な朝焼けの空が続いている。
そのどこにも、雨雲の影はない。
「……なるほど。雨と勘違いするわけだ。」
僕は小さく呟いた。
横の葉っぱを観察する。
それは、朝露に濡れていると表現するには少々物足りないくらいの水が満ちている。
葉っぱの先の枝を見ると、今もシトシトと水が溢れて葉を濡らしていた。
これは知らなかったな。
こういう現象は、地続きであるリヴェリナの森でも見たことはなかった。
同じように見える樹木でも、地域が変わるだけでこうも変わるものなのか。
いや、もともとこういった生態だが、リヴェリナではその必要がなかったとか……。
「アルトゥスさまー!」
思考の海に沈みそうになったのを、小さな呼び声が引っ張り上げた。
下を見下ろしてみると、ユディが不安そうに見上げている。
おっと、いけないな。
ひとりで考え込むよくない癖が出てきてしまったよ。
まずは降りて情報共有しないとね。
僕は枝を蹴って地面へ降り立った。
「思った通りだ。空には雲ひとつなかったよ。」
「えっ……?じゃあ、この雨は……?」
「天候によるものではないんですの?つまり、それって……」
ミランゼさんとアイゼンくんが同時に食いついてくる。
解説を始めようとしたその瞬間、雨がぴたりと止んだ。
まるで、説明の邪魔をしないようなタイミング。
確かに5分くらいの短い時間の雨だ。
ほぼ毎日というのもアレをみたら理由もわかるというものだ。
僕は静かに息を吸い、先ほど登った樹よりも、大きな樹の根元へ歩き出した。
「理由は、わかったよ。こっちにきてくれる?」
根元に触れ、僕はミランゼさんに問いかけた。
「ミランゼさん。
密集した葉を持つこの樹の根元まで、こんな短時間で濡れているのは……どう思う?」
ミランゼさんは一瞬考えるが、即答する。
「ええ。雨ではおかしいですわ。
普通の雨なら、葉が傘になって根元までは濡れないはずですわ。
少なくとも、この短時間でしたら。
ですが、この樹は、幹の根元まで濡れてますわね。」
その回答の速さを見ればわかる。
アイゼンくんは少し困惑を隠せていない。
まあ、そうだよね。
僕だってこんな現象は初めて見るもの。
今までの常識がひっくり返ったような思いだ。
でも、僕はこの目で見届けたんだ。
だから、ちゃんと言うね。
「うん。2人の思っている通りだよ。この雨は――森の樹が降らせていたんだ。」




