松山志穂 4
「すみません。初対面なのに、いきなりこんな話を…」
長谷川さんはハッとして謝った。あたしは、何故かこの人がとても可哀想だと思っていた。
「生きていることは、悪いことじゃないです。でも、その彼がした行動も、間違っていないと思います」
あたしはゆっくりと言った。話に出てきた"彼"の姿が鮮明に浮かんだ。
「松山さんには、本当にご迷惑をおかけしました。本当に、申し訳ありませんでした…」
長谷川さんは深く頭を下げて言った。
「頭を上げてください。誰も悪くないです。悪いのは……」
悪いのは、何?
あたしは、悪いのは花だと言いかけた。花が好きだったあたしが、花に罪をなすりつけていた。
「…やめましょう。もう、終わってしまったんですから」
あたしは、少し残酷に言ったかもしれない。そのあとに見た千佳の遺体の首の痕から、あたしは目を背けてしまった。
あたしは、葬儀が終わった後、りっくんの家に向かった。数ヶ月前と全く変わらない何も無い空間が、そこにはあった。
「ごめんください」
あたしは大きめの声で言った。本当に人が居るのかもわからない空間に、声が染みていった。
「あの…ここの人、何週間も前に出て行ったみたいですけど…」
通りかかった人が、あたしにそう伝えてくれた。
「どこに行ったか、分かりますか?」
「それは……とても話しかけてもいいような状態では無かったですし…」
その人の言葉を聞いて、あたしは鮮明にその時の状況を想像できた。
「そうですか…ありがとうございました」
あたしはそう言って、その人に深くお辞儀した。もう、りっくんたちがどこにいるかも分からないんだ。そう思うと、涙が出そうだった。
あたしは、真っ直ぐ家に帰りたくなくて、喪服のままあの川へ向かった。川に向かう途中、トラック事故があったという交差点も通った。黒いブレーキ跡がまだ鮮明に残っていて、事故の衝撃を思うとあたしはめまいがした。重し代わりの缶ジュースの下に、追悼のものと思われる手紙が何通か置かれていた。でも、花は、無かった。河井さんの笑顔を思い出すと、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
あの川の近くまで来ると、橋の上に白い服が見えた。あの時の男の子だった。
「久しぶり。あ、でも何カ月も前だから覚えてないか」
あたしは、自然に話しかけた。この子はまだ花想病になっていない。少し安心した。
「覚えてるよ」
男の子は、小さく呟いた。川に目をやると、ほとんどの花が萎れていて、白いじゅうたんはすっかり無くなっていた。そして、ひときわ目立つ黒い焦げ跡が代わりにあたしの目を引き付けた。
「あそこって…」
あたしは、その焦げ跡を見ながら呟いた。
「そうだよ」
男の子はあたしの言葉に答えてくれた。あそこで、河井さんが…
「もしかして、その時もここにいた?」
「見てたよ。はっきりと」
あたしは、驚いて男の子を見た。それじゃあ、この子は人が死ぬところを見ていたことになる。
「どうして止めなかったの?」
「止めたよ。もうすぐ雨が降るよって」
そんなのおかしい。理屈になってない。
「なにそれ。雨が降らなかったら、止めなかったってこと?」
この子の考え方はおかしい。人の死をなんとも思ってない。
「あの人は本気だったよ。だから、雨が降るからって止めたんだ」
あたしには理解できない。もう、何も分からない。
「わけ分かんないよ。死ぬのが正しいって言うの?」
あたしは、もう泣きそうだった。あたしの周りで起こったたくさんの死が、軽く思われているようでつらかった。
「…答えがあるなら、誰も後悔なんてしない。哀しみもしない。誰かを愛したりもしない」
男の子は小さく呟いた。その言葉は、あたしの知らない世界のもののように思えた。
「君は、何を知ってるの?」
この子は、あたしなんかよりもきっとたくさんのことを知っている。そう感じた。
「分からない。ただ、見てきただけだよ」
男の子は少し俯いて、目を閉じた。
「見てきたって、何を…?」
男の子は何も答えないまま、自転車を押して去っていく。
「待ってよ!答えてよ!あたしに、教えてよ!」
「本気で何かを好きになればいいよ。そのもののために、何ができるか、考えてみればいい」
男の子はその言葉を残して去って行った。取り残されたあたしは、何も考えられないまま、ずっと黒い焦げ跡を見ていた。
『本気で何かを好きになればいいよ。そのもののために、何ができるか、考えてみればいい』
男の子の言葉を思い出す。そういえば、あたしは本気で何かを好きになったことがあるだろうか。黒い焦げ跡、むき出しの土。本気で何かを愛した跡だ。あたしは急に自分が憎くなった。そうだ、あたしは本気で何かを愛したことが無い。花が好き?バカだ。すぐに、あたしのつらさを花のせいにして楽になろうとしたくせに。
あたしの大切なものって、なんなんだろう。そのために、何ができるんだろう。あたしは、本気で愛さなきゃいけない。後悔しなきゃいけない。哀しまなきゃいけない。この町には、その感情を向けるべき何かがある。あたしは、なんて愚かなんだろう。こんな歳になって、そんなことにも気付いてなかった。
愛し方も、知らないんだ。