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河井恭介 4



 夏が来た。忌々しい夏が来た。花が、日に日に萎れていくのが分かる。俺にも、アユにも、それを止める術なんて無い。アユはまた、何も喋らなくなってしまった。恐怖に怯えたような顔で、花を見つめているだけだ。ただ、枯れていく花を見つめているだけだった。


「俺、自分のことこんなに無力に思ったの、初めてです」

「みんなそうさ。あの病気の前では、誰も助けることなんてできない」

 教授は眩しそうに太陽を見つめた。

「まだ、好きですか?その女の人」

 俺は教授の左手を見た。指輪がまだ、そこにはあった。

「そうだね。でも、僕はひどいことをしてしまった。その償いは、もうできない」

 教授はそう言って視界を地面に落とした。

「生き残ったら、何をすべきなんですかね…」

 俺は呟いた。何をするかなんて、もう決まっていた。



 家に帰ると、電気を点けたままの部屋には誰もいなかった。鉢植えも、無かった。

「アユ…?」

 誰もいない。あの時と一緒だ。俺は、急いで外に出てバイクに跨って、あの花屋へ走らせた。


 花屋は、空っぽだった。前より、ずっと。人の気配さえ感じられない。あのやつれた女の人ももういないのだろうか。そうだ、あの男の子なら何か知ってるかもしれない。俺はすぐに、バイクを、あの川へ走らせた。


 橋が見えてきたとき、人影が見えた。あの男の子だ。俺はバイクの速度を上げた。

「鉢植え持った女の人、見なかった?どこ行ったか知らない?」

 俺は話しかけた。全ての望みを託したみたいに。

「記憶が混濁して、思い出にすがりたがるんだ。死ぬ前に、行きたい場所に行きなよ」

 男の子は答えてくれた。思い出にすがる。死ぬ前に、行きたい場所…

 俺とアユが知り合った、あの喫茶店だ。

「ありがとう」

 俺はそう言って急いでバイクに跨った。



 喫茶店の近くにバイクを乱暴に止めて走り回った。ここにアユがいるという確信はない。ここがアユの一番の思い出であってほしい。そんな、エゴだ。喫茶店の中に入ると、数人の客が居た。アユの姿は、ない。俺は店を出て、辺りを見回した。買い物袋を持った人、学校帰りの学生。

 そして、重い足取りで歩くアユの姿を見つけた。

「アユ!」

 俺がアユの近くに駆け寄ると、アユは、枯れた花の入った鉢を持っていた。

「ごめん、ごめん、ごめん。ごめん、ごめん…」

 アユは聞こえないくらい小さな声でずっと呟いていた。

「アユ…」

 俺は小さく呟いた。アユは、同じ言葉をずっと繰り返していた。

「アユ、うちに、帰ろう。夕方から、雨が降るらしいし、さ」

 こんな状態のアユを、この先どうやって…でも、それでもどうにかしないといけない。アユを、助けなくちゃ、いけない。

「…つらいよ、怖いよ、苦しいよ、哀しいよ、痛いよ、嫌だよ……」

 アユに小さな声が、鮮明に聞こえてきた。

「恭介…殺してよ……」

 振り絞ったような声が、こびりつくくらいはっきり聞こえた。その言葉が体中を支配して、俺は、何も出来ずに立ち尽くした。アユは涙をこぼしながら、再び歩き出した。俺の横を通り過ぎて、重い足取りで、歩いていった。


 クラクションとブレーキの音。

 誰かの悲鳴と、植木鉢の割れる音。





 俺は、あの川の橋の上に持っていた荷物を置いた。

「危ないから、早く帰りな」

 俺は男の子に向かっていった。男の子は表情ひとつ変えない。

「雨が、もうすぐ降るよ」

 男の子は空を見上げた。灰空がいっそう暗くなっている。

「いいんだ、それでも」

 俺は穏やかに笑った。

「ありがとう。君には、本当に助けられたよ」

 俺は男の子に向かって言った。男の子は空から視線を俺に向けてくれた。

「もっとよく知ってあげてねって言ってくれたのに、俺は何も聞いてやれなかった。わざわざ忠告してくれたのに、ごめんね」

「そのことは、いいよ。俺にも、できなかったから」

 男の子は呟いた。そうか、この子も…

「君は、俺と同じ境遇なんだね。だとしたら、君は、強いね」

 俺は、もう、ここまでだ。

「巻き込みたくないから、離れててくれないか」

「大丈夫だよ。ちゃんと、見届ける」

「…優しいね。君に会えてよかったよ」

 俺は再び荷物を持って、枯れつつある白い花の中へと歩き出した。

 荷物の中の液体をあたりにばら撒いて、そのあと、自分にもかけた。独特のにおいが辺りに広がった。俺はポケットからライターを取り出して、火を灯した。

 アユを殺した花に、復讐を。アユのいないこの世界に、さよならを。

 俺はライターを地面に投げた。炎が地面を伝わって、俺の体へと燃え移った。仰向けに倒れて、体を全部、炎の中へとうずめた。薄れていく意識の中で、俺は体に当たる雨の雫を感じていた。



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