松山志穂 2
数日経って、あたしの部屋はずいぶんと殺風景になってしまった。簡素な机にコンビニで買ってきた弁当を広げた。明日には出発するから、昼からは、いろんなところにあいさつをしに行こう。明日にはさよならするのに、特に感情的にならない自分が、本当にここが好きなのか、冷たくなった弁当を食べながらしばらく考えていた。
最近、晴れが続いている。
あの病気が流行りだして数ヶ月した頃、雨の日の発症率の方が高い、とテレビで言っていた。もっともらしい理屈を並べてはいたけど、ちゃんとしたデータも無くて、うさんくさかったけど。でも、そうやって言われていたせいか、晴れの日は外出する人が結構多い。普通かもしれないけど。雨の日が高いって言っても、そこまでの差はない。雨でも晴れでも発症することはある。街中を歩くなら雨でも晴れでもいい。歩道に植えてある花が全部抜かれてしまったのだから。今は、花が埋まってたところには、ゴミしか埋まってない。ずいぶん汚い街になってしまった。
街中を歩いていて気付いた。あたしには、あいさつしなきゃいけない人がそんなにいない。大学に行くまでもないだろうし、働いてたところもあの花屋だけだし。千佳は多分、まだ仕事中だろう。早く出過ぎたみたいだ。まだ一時。適当に歩こう。
見たこともない道をあてもなく歩いていたら、川が見えてきた。川の両脇には一面に白い花が咲いていて、とてもきれいだった。こんなところが、あったんだ。あたしは、しばらくその景色に見惚れていた。そして、この川が町の人に忌避されている川だと気付いた。発症者が多発する川があるから、近付かない方がいい。あそこでは、何人も発症者が出て、自殺の名所になっている。あそこに行くのは、死にたい人くらい。そんな噂を前に聞いたことがあった。ここが、多分そうなんだ。こんなにきれいなのに。あたしは川に沿って歩きながら、ずっと続く白い景色に複雑な思いを抱いた。ところどころに土が見えているところがある。誰かが荒らしているのかもしれない。花だって生きているのに、そんな考えはこんな世の中じゃあ、もう通用しない。
歩いていると橋が見えてきて、あたしはそこから景色を眺めることにした。白いじゅうたんが遠くまで続いて、間に流れているゆったりとした川が、この町の暗い空気とは相容れない穏やかな雰囲気に包まれている。あの病気が無ければ、ここはきっと人々を癒やす場所になっていたはずだ。こんなきれいな景色が、認められない。
「何してるの?」
後ろから急に声をかけられて、振り返ると、学生服を着た男の子が立っていた。
「ただの散歩だよ。君こそどうしたの?まだ三時だよ」
この辺を歩いている人なんて、ここに来て初めて見た。ふいに噂を思い出した。あそこに行くのは、死にたい人くらい。
「この時間には学校は終わりだよ。それより、散歩でこんなところに来るの、やめた方がいいんじゃない?」
この子はたぶん高校生だろう。この川のことも知っている。じゃあ、もしかしたらこの子は…
「心配してくれるの?ありがとね。でも、君もやめた方がいいんじゃない?」
あの病気にかかったら、この子も死んでしまうんだ。そう思うと、怖くなる。
「俺は、いいよ。かかってもいいし」
男の子の言葉は、冗談には聞こえなかった。
「死にたいの…?親、心配するよ」
「かもね」
「かもねって…なんで、わざわざこんな回りくどいことするの?自殺の道具に花を使わないで!」
みんな、勝手だ。花だって生きてるのに、なんとも思ってない。
「どうせ死ぬなら、何かのために死んでみたいかな、って思って」
「何それ、わけわかんない。好きな人でも作ればいいじゃん!花を掘り起こしたりさ、どうしてみんなそんなひどいことするの!?」
最近の子ってこんなことを考えながら生きてるの?あたしがおかしいの?わけがわからない。
「花想病のこと、あんまり知らないんだね。土が見えてるところは、発症者が花を持ち帰った跡だよ。土が見えてる分だけ、人が死んでる。花は自殺の道具じゃない、俺もそう思うよ。花自体が、人殺しなんだ」
男の子は冷たく言って、どこかへ行ってしまった。あたしは茫然として、しばらく動けないでいた。土が見えてる分だけ、人が死んでいるのだとしたら、あたしが見ている景色は地獄だ。
あたしは、重い足取りのまま、りっくんの家に行った。花屋だった一階は、売り物だった花はきれいに無くなっていて、もの寂しい空間が広がっている。
「すみませーん」
あたしは、呼びかけてみたが、誰も出てこない。もう帰ってきていてもいい時間なのに。あたしは、もう一度呼んでみた。
「あぁ、志穂ちゃん。どうしたの、こんな時間に」
店長は、びっくりするくらいやつれていた。声に元気は無くて、あたしを不安にさせた。まだ、いじめは無くなってないのだろうか。
「明日、実家に帰るのであいさつにうかがいました。りっくん、います?」
あたしがりっくんの名前を出した途端に、店長は泣き崩れてしまった。
「陸なら、二階の自分の部屋にいるから、会ってあげて…」
店長はそう言って声をあげて泣いた。あたしは、胸騒ぎがして、急いで階段をかけあがって、りっくんの部屋に行った。
ドアを開けると、りっくんは窓際で鉢植えを眺めていた。白い花が一本だけの、鉢植えを、ずっと眺めていた。
「りっくん、あたしね、明日引っ越すんだ」
隣に座って優しく語りかけても、りっくんはこっちを見ようともしない。りっくんはクマだらけの目で、ずっと鉢植えを眺めていた。あたしは、発症者を初めて見た。恋をする、そんなきれいな言葉で表せるような状態じゃない。花に取りつかれている、そんな印象だった。あの男の子の言葉、花自体が人殺しなんだ、その言葉が頭の中で噛み砕かれていく。
発症者は、必ず死んでしまう。りっくんも…必ず…
あたしは譬えようもないくらい悲しくて、何を憎んだらいいのか分からなくなってしまった。世の中、花、いじめ、悪いのは、何?
「じゃあね…」
あたしは、最期のお別れを言って部屋を出た。まだ玄関で泣いていた店長に深く頭を下げて、そのまま家に帰った。
今まで、どこか遠い話だった病気の話が、急に身近になって、あたしは怒りも忘れて、ただただ何もできないでいた。外を出歩く気にはなれなくて、千佳にはメールを送っただけになってしまった。千佳からは、いつでも話せるし寂しくないよね。絶対に結婚式に来てね。と返ってきた。
いつでも、話せる。あたしは、その言葉を見て泣いてしまった。いつでも会えるって、いつでも話せるって、なんて幸せなことなんだろう。
翌日、あたしは朝早くから電車に乗った。流れていく景色の中に花を見つけるたびに、目をそらしたくなるようなつらさを感じた。あたしは、もう花を好きでいれそうにはない。花を好きだ、なんて、言えそうにはない。
あたしは何も分かってなかったんだ。りっくんは、花のせいで死ぬんだ。あたしは、そんな花を好きだったんだ。何のために生きてたんだろう。夢だとか、花だって生きてるとか、あたしは、ずっと、そうやって、生きてきたのに。電車に乗っている間、あたしは、ずっと声を殺して泣いていた。
実家に帰って数カ月経った。千佳からは、連絡が来なくなってしまった。結婚式の招待状も、結局届かなかった。