上村蒼 12
俺は、あれからずっと、花想病にもなれずに、ずっとこの橋にいる。
いつからか、ここに来る違う目的も見出した。花想病の人を、救いたくなってしまった。あれから一年、何人かがこの場所で花想病にかかった。その人を、そしてその人に関わる人を見るたびに、一之瀬の姿や、あの頃の自分の姿が浮かんできて、たまらなくつらくなった。
いっそ、この人達を救えたら、そうすれば、少しは報われる気がした。一之瀬の不安に気付いてやれなかったのは、俺だから。誰かが感じる不安に気付かせてやれれば、俺は、一之瀬は、報われる、そんな気がした。
でも、あの女の人は、死んでしまった。あの男の人は、復讐をした。
『君は、俺と同じ境遇なんだね。だとしたら、君は、強いね』
そんなこと、あるはずない。俺は、逃げてるだけだ。一之瀬の不安に気付いてやれなかった罪悪感を、どこかで拭えるんじゃないかって、そんな期待をしながら、生きてるんだ。
「俺は、希望なんかじゃないですよ。一之瀬の気持ちにも気付けなかったんですから」
「僕が無駄な事をしなければ、治っていたんじゃないか、最近、そうやって後悔するんだ」
長谷川さんは、拳を握りしめた。
「長谷川さんのせいじゃないって、何度も言ってるじゃないですか」
「僕は、いっそのこと、お前のせいだって罵られた方が、ずっと気が楽になると思っているのかもしれない。情けないよ」
「楽になりたいって気持ちと、楽になっちゃだめだって罪悪感で板挟みになるだけですよ」
今の、俺の状態だ。
「本当に、残酷なことを言うんだね」
「一人でも犠牲者を増やさないように、一人でも多く救えるようにがんばってください。長谷川さんには、それができるはずですから」
「…ありがとう。そうやって言ってもらえると、僕は生きていることを認められる気がするよ。君も、がんばってね」
愛想笑いしか、返せなかった。
「本当にこんなところに来てるんだな」
振り返ると、牧がいた。
「久しぶり。クラスが変わってから、あんまり話さないよな」
「俺はまじめに勉強しなきゃいけないからな」
「真柴さんと同じ大学目指すんだっけ?遠距離恋愛は大変だもんな」
「この町にいるのも心配なんだから、引っ越してくれてちょっと安心してるくらいだけどな」
牧はそう言って、寂しさを隠すように笑った。
「離れてる方が危ないんだから、心配させないようにしろよ」
「忠告ありがとな。俺はもう口うるさく言いたくないけど、いつまでもそんな不器用な生き方続けるなよ」
「十分口うるさく言ってるじゃんか。できてりゃ誰だって苦労なんてしないって」
「それもそうだな。じゃあ、元気でな。たまにはまじめに勉強しろって敦にも伝えといてくれ」
「本当に口うるさく言いたくないって思ってるのかよ。まぁ、伝えとくけどさ。じゃあな」
俺達は手を振ってそのまま別れた。牧と真柴さんなら、たぶん大丈夫だろうなんて、漠然と感じる。二人は本心を伝えあえる関係だから、少し、うらやましい。
俺の現在を形容すると、不器用な生き方になるのか、不器用な死に方になるのか、よく分からないけど、どちらにしても中途半端で、一之瀬に笑われてしまいそうだ。
それでも、それでも俺は相変わらず川に向かって、何もなさずに過ごすだけだ。何も変わらない日々が続いて、一年前から、時が止まってしまったみたいに何も変わらない俺がいる。
何のために、ここにいるのかさえ、もはや曖昧なんだ。一之瀬に近づきたくて、花想病にかかるためなのか、敦に言った冗談みたいに、花想病にかかる人をただ眺めているためなのか、人を救おうなんて大それたことをなそうとするためなのか。
『もう少し待ってみる価値があるかもしれないから』
花想病を治してやるから、なんて言って、敦に言い始めたここに来る口実も、何の意味を持つのか分からないんだ。俺が待っているのは何かを、俺が分からないんだ。
「久しぶり、また会ったね」
何度か話したことがある女の人が立っていた。その横には小学生くらいの男の子が立っている。
「この前は、偉そうに言ってごめんね」
「ううん、あたしは、あの言葉のおかげで変われたよ。大切なものも、見つけたんだ」
女の人はそう言って隣の男の子を見た。男の子は虚ろな顔をしていて、まるで、花想病の症状みたいだったけど、鉢も何も持っていなかった。
「その子は…?」
「…うん、でも、きっと大丈夫。花は枯れたら終わりじゃないんだ。命をつないで、来年もその次もその次の次も、ずっと花を咲かせてくれる」
そんな、考え方があったんだ…
「大切な人への不安とか、世の中への不満とか、そういうものを無くさないと、花想病は治らないと思ってた…」
「それも、あるかもしれない。でも、あたしは、誰が悪いとか、自分のせいだとか、そういう考え方じゃなくて、未来につながる何かを見出すことが大切なんだって思うんだ」
ああ、やっと、分かった。
「君が言った通り、答えなんて無いと思う。でも、だったら、もっと未来に目を向けて、自分にできることをしようって思ったんだ」
俺が、待ってたものは、こんな考え方だったんだ。
「…すごいね。俺は、そんなこと考えもしなかった。自分が悪いってずっと考えて、自分の未来なんて、見ようとしなかった」
「君のおかげだよ。あたしは、やっぱり、花が好きだ。それに、しあわせになってほしい大切な人もいる。ちゃんと、向き合えるようになったのは、君に言われた言葉のおかげだよ。だから、君もしあわせになってほしいな」
ありがとう、は声に出なかった。声を出そうとしたら泣いてしまいそうで、何も言わないでうなずいた。ずっと心にまとわりついていた重い自己嫌悪が、晴れていった。
花想病は、人の不安や不満、疑心を受け止めてくれる花に依存してしまう病気だ。心が、耐えきれないほどの負荷を感じると、花にそれを転嫁するようになってしまう。そして、発病する。花は、心の負荷を全部吸い取って、心は負荷への耐性が無くなる。だから、花が無くなった時、心は負荷に耐えられなくて、生きていけなくなる。
一年の間に、なんとなく積み上げた俺の考えが正しいのか間違っているのか、それはまだ分からない。俺は、花想病にかかったら不安や不満を取り除かないと、だめだって思っていた。でも、違う考え方もできるんだ。負荷よりも大きな希望があれば、きっと乗り越えられる。ゆっくりでも、少しずつでも、絶対に、乗り越えられる。
答えなんて、無いかもしれない。でも、この世界に、希望はある。俺がまさにその希望だって言われたことさえもあったのに、俺はこのことに気付けなかった。でも、今はもう気付いたんだ。それが希望になって、未来に向かう力が生まれる。
一之瀬、一年も立ち止まっててごめん、でも、やっと見つけたんだ。
「急に補習出るなんて、どうしたんだよ。しかも、俺まで付き合わせるのかよ」
敦は目に見えて嫌そうだったけど、そんなの無視した。
「少しは牧を見習おうぜ。この時期から勉強すれば、俺らでもまともなところ行けるって」
「えー、いきなり真面目君かよー。そういうキャラじゃなかったじゃん。俺の知ってる蒼は、勉強なんて意味無いねってクールに言ってのける子だったのに」
敦は子どもみたいに手をバタバタさせながら大声で叫んだ。
「そんなイメージ押しつけるなって。俺はもう放課後暇で暇で勉強でもしちゃいたい気分なんだよ」
「あれ、もうあの川には行かなくてもいいのか?ずっと行ってたじゃん」
一之瀬、俺、前に進んでもいいよな…?
「いいのいいの。なんか、俺がいなくてもこの世界は知らない間に良くなっていってくれてたんだよ」
「なんか悲観的だけどポジティブでいい感じだぞ!俺は、お前が一之瀬みたいになるんじゃないかってちょっと心配だったんだから」
一之瀬、もう、大丈夫だよ。
「…あんまり、一之瀬のこと、悪く言わないでくれよ。あいつ、必死で生きてたんだから」
この町の重苦しい空気は、きっと良くなっていく。みんな、変わっていけるんだ。
だから、俺、笑ってもいいよな?
だって、しあわせな時は、笑いたいから。