上村蒼 9
「何があったんだ!?」
川のそばで小さくなっていた二人に、牧が叫びながら近づいた。
「分からない…急に何もしゃべらなくなって、そのあと泣き出しちゃって…何を言っても応えてくれないし…」
真柴さんは泣きそうな声だった。一之瀬は、鉢を抱えてしゃがみこんだまま泣いていた。
「一之瀬!大丈夫か?」
呼びかけてみても、泣いてばかりいる。声が届いてないみたいだ。
「あたしの、せいかな…」
真柴さんは、震えた声で呟いた。牧が大丈夫だからと励ます。いつかの俺みたいだ。
「上村君が、行かないって言ってたって、あたし、言っちゃったんだ。そしたら、優佳ちゃんは何も言わなくなって…」
また、俺のせい、だ。
「俺ならここにいるから、安心しろって」
ひたすら呼びかけ続けた。しばらくして、一之瀬は泣きやんで、呼吸も落ち着いてきた。
「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい、ごめんなさい…」
真柴さんは、その間中ずっと謝っていて、俺の、もういいから、という言葉も聞こえていないみたいだった。
「僕達は一之瀬さんを病院に連れて帰るから、もう大丈夫だよ」
牧の連絡によって駆けつけた長谷川さんは、そう言って牧と真柴さんを宥めた。
「あの、優佳ちゃんは…」
真柴さんは不安そうな声で言った。一之瀬のあの様子を見たのだから、心配になるのは仕方がない。
「大丈夫。僕が直してみせるから。今日見たことは、学校のみんなには黙っておいてね。一之瀬さんが学校に戻りやすいようにしなきゃいけないから」
長谷川さんは、手際良く二人を納得させて帰らせた。俺は、長谷川さんの言い方が気に食わなかった。
「僕が直してみせる、ですか」
「君は、一之瀬さんとの関係を人に言いたくなさそうだから、気を遣ったつもりなんだけどね」
悪びれた様子は全く無い。この人は、いつも自分の行動に自信を持っている。そこが、好きになれない。
「そのせいで、一之瀬の親に、会うなって言われました。今日、一之瀬がこんなことになったのも、俺が会わないって言ったせいで…」
言っているうちに、怒りがこみ上げて来て、たまらなくやるせなくなった。
「なんでも自分のせいにするのはよくないよ。君はよくがんばってくれてる」
「いつも、上から物を言いますよね…」
「…僕の方が大人だから、そんな考えがあるのかもしれない。年下を目上に見るってのは、すごく抵抗があることなんだよ。年上を見下すのは、すごく簡単なんだけどね」
長谷川さんはそう言って笑っていた。自分にとって不利益になるものは、自然に流していく、その都合の良さが、嫌いだ。
「今回の件は君のせいじゃないと、一之瀬さんのお母さんに言っておくから、会うなって言われることは無いと思うよ」
長谷川さんは、こういう自分の行動ばかり評価して、自分の親切心を誇っているように、俺には思えた。
「…ありがとうございます」
でも、その親切を棚に上げて、屁理屈をこねたら、俺も長谷川さんみたいな人になってしまう。そんな葛藤もあって、とりあえずお礼だけは言っておいた。
「落ち着いた?」
病室に戻るころには、一之瀬の呼吸は落ち着いていたけど、表情はうつろなままだった。
「うん…大丈夫」
声はほとんど出てなくて、表情も全く変わらない。でも、会話ができるから、たぶんほんとに大丈夫なんだと思う。
「俺はちゃんと来るからさ、心配しなくていいよ」
「うん…ありがと」
一之瀬は少し笑ってくれた。これから先、何があっても、こうやって俺がそばにいれば、ずっと大丈夫だ、そう思えた。
「俺、そろそろ帰らなくちゃ。また、今度ね、絶対来るから」
俺は笑顔で手を振ったが、一之瀬は不安そうな顔をするだけで、手を振り返してはくれなかった。
「いつも、すまないね」
病室を出ると、長谷川さんが待っていた。
「別に長谷川さんのためにやってるわけじゃないですよ」
「それもそうだね。一之瀬さんは、落ち着いてきたかい?」
「少し、です。話は通じますけど、体がついてきてないみたいでした」
俺がそう言うと、長谷川さんはしばらく黙って何かを考えている風だった。
「できればでいいんだが、ここに来る回数か時間を、もう少し増やしてほしいんだ」
「いいですけど、どうしてですか?」
「あの川の近くを歩いてて、気付かなかったかな?あの花、そろそろ枯れるんだよ」
頭の中が真っ白になる、なんてことほんとにあるんだ、なんて、数秒後に冷静に思っていた。どうして気付かなかったんだろう。一之瀬が大切にしているのは短い寿命しか持たない花なんだ。いつか枯れるのは、あたりまえじゃないか。それで、枯れたら、どうなるんだ…?
「どう、すれば…」
「少し隠しただけで、口もきけなくなるほどのショック状態に陥ったのに、枯れたら……最悪の事態に備えておいた方がいいとは、思うよ」
長谷川さんの言う、最悪の事態が分からない。どうなるんだ。どうなるんだよ、なぁ。
「でも、俺が、いれば…」
そうだ。俺が、いれば、なんとかなるかもしれない、じゃないか。
「そうだね、僕も、それを信じてるよ」
長谷川さんの表情は、形容するのも嫌になるような絶望の色をしていた。
「ねぇ、優佳ちゃん、大丈夫だった…?」
翌日、真柴さんが恐る恐る聞いてきた。
「あぁ、大丈夫。すぐに良くなるから」
自分の気持ちすらまともに整理できてないのに、笑顔くらいなら作れるんだな。冷静に思ったあと、その切なさが顔に出そうで少し目を逸らした。
「みんなには、言わない方がいいんだよね…上村君は、ずっと前から知ってたの?」
「…いや、俺は偶然見かけたから知ってただけだよ」
無意識に嘘をついてしまう。もう、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「おい、蒼、もうそういうごまかしとかいらないから」
一緒にいた牧が刺すように言った。ごまかしとかじゃなくて、もう、余裕が無いんだ。
「…ごめん、疲れてるから、今日はほっといてくれ」
自分にできることの限界が見えそうで怖いんだ。
病院に向かう足は、今までで一番重かった。口をきけなくなった時よりも、会うなと言われた時よりも、ずっと重かった。今までは、自分が何とかしてやるという気持ちが心のどこかにあって、その気持ちが他のどんな不安にも勝った。なのに、今は、花が枯れないように祈るだけの心しか持っていない。
「一之瀬…」
いつものような明るい声が出なくて、口から落ちるように言葉が出た。
「上村君、今日も来てくれたんだ」
一之瀬はそれでも気付いてくれて、にっこりと笑ってくれた。昨日よりもずっと回復しているように見えた。
「ちゃんと来るって言ったからさ」
一之瀬の様子を見て、少し不安が和らいだ。
「でも、入ってくるとき、元気なかったよ?大丈夫?」
俺が心配されるようじゃダメだな。立場が逆転してしまってる。
「大丈夫だよ。何かあるかと言えば、昨日ここから川までチャリ全力でこいだから筋肉痛だってことくらい」
「あー…昨日は心配かけました…」
一之瀬は申し訳なさそうにうなだれた。でも、ちゃんと冗談を冗談と理解しているようだから、すっかり回復している。
「ともちゃん、心配してたよね。牧君にも見られちゃったし」
「真柴さんには大丈夫だって言っておいたよ。牧は、まぁ、こういうことには気がきくから心配ないかな」
「そっか。ありがとね」
「お礼言うほどのことじゃないよ」
「…じゃあ、ごめん」
「謝ることでもない」
俺がそう言うと、一之瀬は俯いて、首を強く横に振った。
「ううん…あたし、上村君に、ずっと謝らなきゃって、思ってた…言っとかなきゃいけないことが、いっぱいあるんだ…」
一之瀬の目は、急に焦りの色を示した。和らいでいた不安が、ざわざわと胸の中で揺れた。