上村蒼 7
「そのうち、ここから出れるかな」
一之瀬は、窓の外を見ながら呟いた。一之瀬の体調はすっかり良くなって、言葉につまることもなくなっていた。
「もう出ても大丈夫なくらい良くなってるよ」
俺は、ここ数日の一之瀬の様子をずっと見てきている。日に日に良くなっていって、もう普段と変わらないくらいまで戻っている。
「だよね。今度、先生に相談してみようかな」
それは希望に満ちた顔で、また元通りに戻っていけるような、そんな未来を描いているように見えた。
「うん、じゃあ、俺はそろそろ帰るね」
「うん、またね」
またね。そうやって、ずっと言っていられる気がした。明日も明後日も、この先もずっと、またね、って言って、つながっていくと、本気で思った。
「一之瀬さんの体調、だいぶん良くなってるね」
病室を出て、少し歩くと、待合室に長谷川さんが立っていた。
「はい。あの、もう退院してもいいんじゃないですか?」
俺がそう言うと、長谷川さんの顔は少し曇った。
「それは…できない。また、いつあんな状態になるか分からないし、それに、退院したって、その、学校に行けるようになるわけじゃないし」
長谷川さんの言葉は、ところどころ詰まっていて、何か他の理由があるように思えた。
「そうですか。そういえば、俺、まだ、一之瀬がどうしてあんな状態になったのか、聞いてませんでしたね」
俺の言葉に長谷川さんは明らかに動揺した。やっぱり、このことが関係しているんだ。
「…君は、一之瀬さんを良くすることに、集中してくれないかな。僕達が、他のことはしっかりやるから」
長谷川さんは、逸れそうになる目線をなんとか合わせている。隠している、俺にでも分かる。
「俺はちゃんと知っておきたいんです。一之瀬のためにも」
俺は、目を逸らさない。一之瀬のために、できることをするために。
「…一之瀬さんの症状は、なかなか珍しくてね、大学の教授達も興味を示して、一之瀬さんに面会したんだ。症状を分かりやすく示すために、僕は、一之瀬さんが席を外している隙に花を隠した」
…何を…言ってるんだ…こいつは…?
「一之瀬さんはパニック状態に陥ってね…麻薬並みの依存性だったよ。すぐに鉢を返して、一之瀬さんは落ち着いたけど、それからずっと、あんな状態でね…」
できる限りのことをした、って…そういう意味だったのか…?
「でも、その依存性の強さが証明されたんだ!花想病と言われる病気も、そのうち現代病として世の中にはびこり始めるかもしれない。でも、僕が食い止めるよ!第一人者として、僕が花想病を治療するんだ」
長谷川さんは、嬉々として語る。ゆがんだ笑顔を浮かべている。てめぇのせいだって、ことじゃねぇか。
「っざっけんなよ!てめぇのせいで、一之瀬が傷ついたんじゃねぇか!できる限りのことをしただぁ!?てめぇがくだらねぇ欲のために一之瀬をわざわざ傷つけたんじゃねぇか!」
長谷川さんの胸倉をつかんで、言葉の出てくるままに怒鳴った。
ここにいちゃだめだ。どこかへ、逃げるんだ。こんなやつのところに、一之瀬がいたらだめだ。俺は、急いで一之瀬の病室に戻って、一之瀬を連れだした。
「逃げよう!ここにいたら、また、あいつのせいで一之瀬が傷つくから!」
俺はそう言って、病院の服のままの一之瀬に鉢をしっかりと抱えさせて、思いっきり走った。
「ど、どこに行くの?」
どこに、そんなの、分からない。ここじゃない、どこかに。
病院を抜け出して、街中を走って逃げて、周りから変な目で見られても、それでもまだ、走って、走って、川に着いた。
「この川沿いに歩けば、家まで帰れるね」
一之瀬は、家のある方向を眺めながら言った。
「帰ったら、また病院に連れて行かれるかも」
一之瀬の母親なら、いや、普通の親ならそうする。
「あたし、大丈夫だよ。鉢隠されても、今度は前みたいにならない」
一之瀬の声は落ち着いていた。俺にも、自分にも言い聞かせるように。
「でも…」
また傷つけられるのを覚悟して、おめおめと戻らせていいのか?
「だからさ、そんな心配そうな顔しないでよ。あたしって、そんなに頼りないかな?」
一之瀬は困ったように笑った。頼りないとか、そういう問題じゃないんだよ。
「違う、んだよ…」
そうだ。一之瀬が頼りないわけじゃない、信じられないわけじゃない。
「俺は、一之瀬の、そばにいたいんだ。なんとか、するから」
俺の、ために、したんだ。
一之瀬の驚いた顔、しばらくの沈黙。俺は、その間に少しずつ自分の言ったことのとんでもなさを自覚していた。
「いや、あの、ごめん。つい、えっと…俺、何言って」
「嬉しいよ」
一之瀬は、俺の言葉を遮って、にっこりと笑った。
「…ふふ、上村君はいつの間にそんな恥ずかしいこと言えるようになったの?」
今度は、からかうような笑顔に変わって、道にしゃがんで大声で笑い出した。
「ちょっ、そこまで笑うこと無いだろっ」
恥ずかしさがどんどんこみ上げてきて、顔が熱くなっていく。
「あははははっ、顔、真っ赤だよ」
それを見て、一之瀬がさらに笑う。このまま二人でこうしていられたら…
「…はぁー、こんなに笑ったの久しぶりだよ。上村君、おもしろくなったね」
一之瀬は、立ちあがってまだゆるんだ口元で言った。
「おもしろくなったつもりは無いんだけど…」
まじめに話していた分、余計に恥ずかしい。
「自覚無しでその面白さはすごいなぁ。感心するよ!さて、あたしはそろそろ病院に帰ろうかな…」
「…え?」
病院に、帰る…?
「…ほら、お母さんとかが心配するもん。大丈夫だから、心配しなくても平気だよ」
一之瀬はそう言って、病院の方へ歩いていく。
「ほんとに、帰るの?」
呼びかけると、一之瀬は立ち止った。
「大丈夫。だって、あたしがどうにかなっちゃっても、上村君がなんとかしてくれるんでしょ?」
一之瀬は振り返らないまま言った。
「…確かに、そう言ったけど…」
「だから、大丈夫。でも、今までみたいに、来てね」
一之瀬は振り返って、そう言って笑った。
「…うん。その笑顔は、まだ俺が面白い?」
「あはは、自覚持ちだした?でも、面白いからって笑ってるわけじゃないよ。あたしは」
「優佳!」
遮るように、一之瀬の名前が聞こえた。振り返ると、一之瀬の母親が立っていた。
「病院を抜け出したって、電話あったから、探しまわったのよ。なんでそんなことしたの!」
一之瀬の母親は一之瀬に駆け寄って、問いただすように迫った。
「いや、気分転換に、ちょっと、散歩に」
一之瀬はごまかすように笑った。
「どれだけ心配したと思ってるの!自分が、今、どういう状況か分かってるの?早く、病院に帰ろう?」
「今から帰るところだったんだよ。あたし、大丈夫だよ。ほら、なんともない」
一之瀬はそう言って、体をひねって見せた。
「今、看護師さん呼ぶから一緒に帰りなさい」
一之瀬の母親は全く聞く耳を持たず、病院に連絡を取っていた。
数分後、迎えに来た車に乗って、一之瀬は病院へ帰って行った。その場には、俺と、一之瀬の母親が残った。
「あなたが、優佳を連れ出したの?」
一之瀬の母親は、俺をにらみつけながら言った。敵視するような視線だった。
「あのままずっと病院にいるのは、一之瀬さんによくないと思って…」
なるべく言葉を濁して、そこまで一之瀬と親しくないようにもした。
「よくないわけないでしょ!先生がせっかく治療して良くなってきてたのに、また悪化したらどうするの!?」
…先生が、治療?
「勝手なことしないで!優佳は良くなろうと闘ってるの!気遣ってくれるのはありがたいけど、余計なことはしないで」
一之瀬の親と、病院で会ったことは無い。だから、俺がここ数日、一之瀬のために通っていたことを、この人は知らない。先生が、治療したと、思ってるんだ。
「でも、あの先生は…」
「こういうことは、ちゃんとした人に任せた方がいいの!あなたはまだ子どもなんだから、なんでもできると思わないで」
また、そういう扱いを…
「優佳には、しばらく会わないでね」
「…でも、俺、約束を…」
「来ないで!今日みたいな思いをするのは、もうたくさん」
一之瀬の母親は、家から飛び出してきたようなかっこうだった。心配で心配で、走って探し回ったんだ。
「前にうちに来た子よね。上村君…だっけ?お父さんとお母さんには私から連絡するから」
子どもを想って、必死になって、その気持ちは俺と同じでも、互いに、うまく伝わらない。俺は、引き下がるしかなかった。