上村蒼 6
あれからしばらく一之瀬には会っていない。会いに行こうともしていない。長谷川さんに任せた方がいいんだ。そうに決まっている。そう言い聞かせて、惨めさや悔しさを必死にこらえた。
「一之瀬さん、結構長いこと休んでるよな」
敦は空っぽの一之瀬の席の方を見て呟いた。
「さぁ、どうなんだろうな」
俺は、なるべく意識しないように、興味の無いようなことを言っていた。
「もしかして、あれかな。流行のうつ病とかいうのかな…」
敦の言葉に、俺は思わず固まってしまった。
「そういう不謹慎なこと言うなっつーの」
牧が後ろから小さく敦を小突いた。俺は少しホッとした。
「そうだな、こういうこと言うのよくねーな」
敦だからこう言ってくれたが、他の人も恐らく不審に思っているだろう。何か事情がある。このクラスの誰もがそう思っているはずだ。一之瀬が学校を休み始めて二週間が経とうとしていた。
「ねぇ、上村君、優佳ちゃんがどうしてるか知らない?」
その日の帰り、真柴さんが話しかけてきた。一之瀬と仲が良いことが知られたのかと焦って、少し鼓動が早くなった。
「どうして俺に聞くの?」
「牧君とどうしたんだろうって話してたら、上村君に聞けば分かるんじゃないかって牧君が…」
牧、無駄なこと言うなよ…
「へぇ…牧がどう勘違いしたか知らないけど、俺は何も知らないんだ、ごめん」
俺はその場しのぎの言葉を使って、急いで立ち去った。牧は、俺達がよく一緒にいることに、気付いているのかもしれない。このまま黙っていても、いずれは知られるだろう。真柴さんも一之瀬と仲が良いように見える。真柴さんに黙っているのは、一之瀬のためになるのか。一之瀬のために、何ができるんだ。そう考えると、自分のやっている全てのことが、マイナスに作用しているように思えてきた。自分に出来ることは何も無い。長谷川さんの言葉を思い出すたびに苦しくなった。
「ほんとに何も知らんの?」
牧が聞いてきた。昨日、真柴さんが聞いてきたことと同じことだろう。
「知らない、知らない。だから変なこと真柴さんに言うのやめてくれ」
なるべく深刻にならないように、笑って言った。
「…何があったかは詳しくは聞かないけど、あんまり一人で悩むなよ。敦じゃ頼りなくても俺ならまだマシだろ」
牧は冗談交じりに言った。でも、一之瀬の今の状態を聞いたら、きっと偏見を持ってしまう。そう思うと、誰にも言えない。
「大丈夫だって、なんもねーから」
こうやっていつまでごまかすんだろう。ごまかすためにみんなに使った言葉は、一之瀬に励ますために使った言葉に似ていて、胸が苦しくなった。
「上村君、ちょうどよかった。話したいことがあるんだが」
街で長谷川さんに呼び止められた。俺は、一之瀬の様子が知りたくて了承した。
「…花想病」
この前と同じ喫茶店に着くと、長谷川さんは呟いた。それは、前にネットに書き込んだ時の回答の一つに書いてあった言葉だ。
「花に恋をした、なんて表現するのはどうかと思うけど、的を射た名前ではあるよね。この書き込みは、君も見たよね」
長谷川さんはわざとらしく言った。俺は小さくうなずいた。
「僕のことを手伝ってくれてる生徒が偶然見つけて教えてくれたんだ。ネットへの書き込みは控えてね。広まると厄介だから」
「はい…すみません」
自分のやっていることが、すべてマイナスだ。迷惑しか、かけてないじゃないか。
「じゃあ本題に移ろう。一之瀬さんのことなんだが、一週間くらい前に何かあったかな?」
一週間前を思い起こす。ちょうど、一之瀬を呼び出して話した頃だ。
「一之瀬に何かあったんですか?」
そのことを話す前にまず状況を知りたい。そう思った。
「それを聞くには、一之瀬さんについて知っていることを全部僕に話して、この先も協力していってくれるって前提が無いとね」
長谷川さんは、そう言って笑みを浮かべた。この人しか頼れない、その事実が憎く思えてきた。
「…分かりました。話します」
でも、頼らざるを得ないんだ。俺は無力だから。
「…いじめ、ね。君と一之瀬さんは本当にただ仲が良いだけなの?」
知っていることは、ある程度、話した。いくらかごまかしもした。意地の悪い俺の抵抗だった。
「はい、ただの友達です」
少し、胸が痛んだ。
「そうか、うん、わかった。一之瀬さんだけどね、症状が悪化したんだ。ほとんど口を利いてくれない」
長谷川さんがそう言ってため息をついた時、自分の中で何かが弾けた。
「治すんじゃなかったのかよ!偉そうに説教したんだから、ちゃんとやれよ!」
声は店内に響いたが、そんなことは気にならなかった。
「それについては本当に申し訳ない…僕も、できる限りのことはやっているんだが…」
「できる限りのことをやって悪化させてんじゃねーよ!それならやらない方がよかっただろ!」
思っていることが、そのまま口をついて出た。この前言いくるめられた時の仕返しをしていた、そう言われても仕方が無いかもしれない。どうすればいいのか分からない。その不安が八つ当たりさせた。ただ、その時の俺はそんなことを考えている余裕も無かった。
「だから君に協力してほしいんだ。一之瀬さんに会ってくれないか」
俺は戸惑いで怒りを忘れてしまった。自分を卑下して、一之瀬を治すためにできることは何も無いと決め付けていた。どうしてだろう。治るまで会わない気でいたんだ。それが不意に崩された。
「俺が…ですか?」
崩されて、そして、受け入れた。
一之瀬は、病院の個室にいた。窓際に置かれた鉢を、ただ眺めていた。一週間前よりも明らかにやつれていた。
「一之瀬、久しぶり」
見るのもつらく思えたが、一之瀬を救いたい気持ちでなんとか耐えられた。一之瀬は鉢から少し目を離し、俺の方を見つめたが、何も言わなかった。
「俺は、元気だよ。敦とか牧とだらだら話したりさ、一人でのんびり歩いたりしてる。そういえば真柴さんが一之瀬のこと心配してたぞ。早く…良くして、学校に戻ろうな」
なるべく優しく声をかけた。言葉が届くように、そう願った。
「上村君、来てくれたんだ」
一之瀬は、そう言って小さく笑った。
「気分はどう?」
その笑顔を見て落ち着いた。
「来てくれて、嬉しいよ」
一之瀬は声を出しづらそうに、ゆっくり喋っていた。長谷川さんの言った通り、悪化している。
「うん、俺も久しぶりに会えて良かった」
このあとしばらく、病院でのことや最近のことを話して、その間にも一之瀬は少しずつ回復していった。
「やっぱり、上村君は、一之瀬さんにとって特別な存在なんだろうね。僕にはずっと心を開いてくれないんだ。上村君、できる限りここに来てもらえないかな」
外で待っていた長谷川さんは、少しぎこちない笑みを浮かべた。
「なんだか情けないな。偉そうに説教したのに、結局僕の方が力になれていないなんて」
この言葉はきっと本心だったんだろう。長谷川さんは苦笑いをしていた。
「いえ、今日は会わせてくれてありがとうございました。俺も一之瀬のためにできる限りここに来ます」
自分に抱いていた無力感も消えて、心は少し軽くなった。