上村蒼 5
「あ、上村君、久しぶりだね」
数日経ったある日、帰り道でふいに誰かに呼びかけられた。振り返ると、どこかで見たことあるような男が立っていた。
「覚えてないかな?前に一度会ったんだけど…」
男はそう言って満面の笑みを浮かべた。その笑顔でようやく思い出す。
「あぁ、えっと…長谷川さん?」
「覚えていてくれたんだね、うれしいよ」
長谷川さんはこれ以上無いくらいの笑顔をする。
「すみません、私服だったので気付けませんでした」
前に会った時、長谷川さんは白衣を着ていて、その印象がすごく強かった。
「あぁ、この前は白衣を着ていたからね。気にしなくていいよ。人ってああいう印象の強いものを目印に覚えてしまうものだから」
長谷川さんは笑顔を崩さない。一之瀬から聞いている分、余計にいい人ぶっているように見えてしまう。
「そうだ、時間あるかな?ちょっと聞きたいことがあるんだけどね…」
「…はい、いいですよ」
あまり気は進まなかったけど、笑顔のせいで断りづらかった。
俺と長谷川さんは、近くにあった喫茶店に入った。
「おごりだから好きなもの頼んでいいよ」
長谷川さんは、いつもの満面の笑みで言った。
「…ありがとうございます。で、聞きたいことってなんですか?」
「あはは、話が早いね。君のこともいろいろと知りたかったんだけど」
長谷川さんが聞きたいことは、大体見当がついている。一之瀬のことだ。
「一之瀬さんのことなんだけどね、最近、学校で何か変わったこととか無かったかな?」
案の定、長谷川さんはそのことを聞いてきた。
「さぁ、よく分からないですね」
一之瀬はこの人に何も言っていないみたいだったから、何も言わない方がいいだろう。
「そうかぁ、仲良さそうに見えたんだけどなぁ」
言い方が白々しい。やっぱりこの人は苦手だ。
「普通ですよ」
いつものように笑って流す。
「…君は、あの子のことが心配じゃないのかい?」
長谷川さんの口調が変わった。さっきまでの笑顔も消えた。その変わりように、少し焦ってしまった。
「何がですか?」
「最近、学校休んでるでしょ。そのことについて、だよ」
この人はたぶん、俺が一之瀬からいろいろと話を聞いていることを知らない。
「あぁ、早く、学校に来れるようになると、いいですね」
「…他人事みたいに言うんだね」
長谷川さんが冷たく言ってから、しばらく沈黙が続いた。
「上村君、君は今、一之瀬さんがどういう状況にあるか分かってるよね?」
長谷川さんは静かに言った。もしかしたら、長谷川さんは、最初から分かっていて遠まわしな尋ね方をしていたのかもしれない。
「…どういう意味ですか?」
「何日前だったかな、君に初めて会った時、一之瀬さんが君に話しかけに行っただろう?その時、一之瀬さんが焦ってるように全然見えなくてね」
俺は、長谷川さんの言っていることの意味が分からなかった。
「一之瀬さんは、僕のところに通うことはクラスのみんなには伏せてる、と言っていたんだけどね、それなら僕と一緒に歩いているところを、同じクラスの人に見られたら不味いだろう?でも、彼女は焦りもしないで君と話していた。何も知らない君と?それはおかしいよね」
長谷川さんはそう言って笑った。人の笑顔を見て怖いと思ったのは初めてだ。
「僕は一之瀬さんを助けたいんだよ。でも、なかなか心を開いてくれなくて。知っていることをなんでもいいから教えて欲しいんだ。何か分かるかもしれないから」
長谷川さんが間違っているとは思えない。けど、どこか好きになれない部分があった。
「…何も知りません」
「そんなはずないだろう?どんな小さなことでもいいんだ。それとも、そんなに僕は信用できないかな」
必死に一之瀬の力になろうとしている長谷川さんを見ていると、なぜか少し悔しくなった。
「自分の力で解決する気かい?それはうぬぼれだよ。君はまだ子供なんだから」
そうだ、長谷川さんの言う通りだ。自分の力で解決したいんだ。自分の手で、一之瀬を助けたいんだ。
「あなたのは、うぬぼれではないんですか」
そして、そんなうぬぼれからくだらない対抗をする自分が、たまらなく惨めに思えた。
「僕は、大学で何もせず過ごしてきたわけじゃない。こういうことの原因も対処法も、ちゃんと勉強してきた」
長谷川さんは、正しい。俺は、ただ屁理屈を言っているだけに過ぎない。自分の力ではどうすることもできない。そうやって感じていたはずなのに、今さらになって、誰かの力で一之瀬が助かることが嫌なんだ。
「僕も前はそうだった。子供の頃、自分の力ではどうすることもできないことがたくさんあった。大人になった今でも、そういうことはたくさんある。でも、大人になってできるようになったこともたくさんある。子供の頃、無力な自分が悔しくて勉強してやっとここまできたんだ。君もそうなんだろう?今は無力なんだ。だけど、いつまでも無力じゃない。だから、君も大人になったら思うと思うんだ。今ならあの時どうすることもできなかった人たちを助けられる、助けたい。無力なことは仕方ないよ。誰にだって無力な時はある。だけど、そんな時は大人を頼っていいんだよ。そのために僕達大人がいるんだ。だから、一之瀬さんについて、何か知っていることを教えてほしいんだ」
長谷川さんの言葉は全部正論で、それはすごく不快だった。俺は無力で、長谷川さんには力がある。それは事実で、覆せそうも無い。俺は間違っている。でも、長谷川さんはそれを責めもしないで正しい方向へ導こうとしている。自分が、ただただ子供であることを感じた。愚かだ、惨めだ。たまらなく、悔しかった。
「一之瀬さんのために、どうするのが一番いいのかちゃんと考えて、さ」
長谷川さんはそう言ってまっすぐ俺の目を見つめた。一番、一之瀬のためになること。それはもう自分の中で答えが出てしまっていた。
「…すみません、でも、本当に知らないんです」
そう言って、逃げるようにして、店を出て行った。
「あの先生、俄然やる気出しちゃったみたいなんだけど、やりづらいなぁ」
一之瀬はそう言ってため息を吐いた。こうやって一緒に散歩するのは久しぶりだ。
「まぁまぁ、あの人だってがんばってるんだから」
喫茶店での言い合いがよみがえってくる。俺が一方的に諭されていただけなんだけど。
「まぁね。それより、今日はどうしたの?上村君が誘うのって珍しい、ってか初めて?」
一之瀬は嬉しそうに言った。長谷川さんと言い合った日の夜、一之瀬にメールで一緒に歩きながら話さないかと誘った。
「うん、まぁ、その先生のことなんだけどね、そんな毛嫌いすることないと思うんだ」
「えー、そんなこと言うためにわざわざ誘ったの?もっとなんかすごいこと言われるかと思ったのに」
一之瀬はがっかりした風だった。俺も確かに長谷川さんのことは好きになれない。でも、仕方が無いんだ。
「治したいなら、ああいう人頼らないとだめだと思うよ。だからちゃんとカウンセリング受けて、さ」
「ほんとにそんなこと言うために誘ったの?」
ピリピリした口調だった。本当はこんなこと言いたくない。だけど、仕方が無い、んだ。
「俺なんかじゃ、どうすることもできそうもないから」
悔しくて、ちゃんと言えたか分からない。声が震えていたかもしれない。
「…わかった」
ただ、一之瀬のやけに冷めた声だけが響いて、自分自身の無力さも意気地の無さも、何もかも憎かった。