上村蒼 4
反射的にブレーキを握っていた。振り返ると、本当に一之瀬がいた。
「心配して来てくれたの?」
一之瀬の様子が、いつもと違う。いつもより無理しているように感じる。
「うん、まぁ、そんなとこだけど」
さっきまでの安堵や恥ずかしさと、一之瀬を見て沸いてきた不安が混ざり合って、言葉がうまく出てこない。
「はっきり言えばいいのに。ごまかす必要なんて無いじゃん」
一之瀬はそう言って少し笑ったが、その顔はぎこちなくて、無理して笑っているのが伝わってくる。
「だって、あんなメール見たら焦るよ。どうしたの?」
「はは…まぁ、そのままの意味なんだけどね」
まだ少し肌寒い風が吹いて、一之瀬は少しよろめいた。
「そのままの意味だったら、もっとやばいじゃん」
「うん…どこか、座れるとこ、探そう」
一之瀬はそう言ってふらふらと歩いて行く。その姿はとても痛々しくて、でも、どうすることもできなかった。
「今日ね、病院に連れていかれたんだ。あはは、精神科だよ、精神科」
一之瀬の乾いた笑い声が哀しく耳に響く。
「あたしがあの花を見たままボーっとしちゃっててね、お母さんが夕飯できたって呼びに来たのにも気付かなくて。それで、どうしたの?って聞かれたんだけど、なんでもないって答えた。でも、お母さんはあの花がおかしいって思ったのかな。捨てようとしたんだ。あたしはそれを止めようとしたんだけどね、どうしてか分かんないけど涙まで出てきてさ、お母さんがそれ見てすっごい心配して、今日はそれで病院」
一之瀬は淡々と語っていた。俺は、話の内容を的確にとらえるほど落ち着いては無くて、漠然としか理解できなかった。一之瀬の母親は、一般的な行動をとったんだ、と。
「病院では、なんて言われたの?」
「悩んでることとか、不安に思ってることは無いかってさ。若い男の先生だったんだけど、いい人ぶってて嫌だったから、無いですって答えちゃったけどね」
そう言ってまた乾いた笑いを浮かべる。
「それじゃ、何も解決しないよ?」
俺は呆れてため息をついた。
「あはは、その先生にも同じこと言われたよ。何かあると思う、思い出してみて、ってさ」
「そのあとは?」
「その先生には特に何にも言ってないよ。今はまだ言えないかもしれないから、時間をかけて言ってくれればいいよ、だって」
「それって、通わなきゃいけないってことじゃん」
一之瀬が何度もそんな所に行かなきゃいけないと思うと、嫌な気分がする。
「じゃあ、上村君にはあたしが悩んでること言ってあげるよ。上村君がいっつも冷たい」
今までのかわいた笑いとは全く違ういつもの得意気な笑顔で言った。
「え、俺のせいってこと?」
不意にいつもの笑顔を見て、気持ちがふっと緩んだ。
「そうそう、だからちゃんと優しくしてよ?でも、今日こうやって心配して来てくれたのは嬉しかったけどね」
冗談を言う余裕はあるのか、と少しホッとした。
「明日も行かなきゃいけないんだよね、病院。うちのお母さんが最初に何があったか説明したんだけど、ひどい症状だと思われちゃったのかな?」
一之瀬はそう言ってため息を吐いた。俺も昨日あったことを聞いていた時に、放っておいて大丈夫だとは思えなかった。
「たぶん、そういうの甘く見ちゃいけないんだよ。だからまじめに質問に答えないと」
自分じゃ無理なことだから他人に押し付けた、そういうわけじゃない。そうやって何か分かるなら、その方がいいに決まってる。無力な自分がでしゃばっても仕方ないんだ。そうやって自分に言い聞かせた。
「上村君がそう言うなら、ちゃんとするよ。今日はありがとね。少し元気でた」
「うん」
「じゃ、あたし帰るね、ばいばい」
一之瀬はそう言って手を振った。その姿が、どこか遠くの存在なように思えた。
「一之瀬さん、今日も休みだな」
敦は一之瀬の席をぼんやりと眺めた。
「風邪なんじゃない?」
俺は適当に答えた。一之瀬の母親の言い訳と一緒だ。
「そっか、一日で治るもんでもないか」
敦のいいところは深く詮索しないところだとよく思う。単純な好奇心で動いてる分、たまにデリカシーの無い行動もしてしまうんだけど。
「お前はいつも通り笹原さんでも見とけってことだな」
牧がそう言って敦の机に座った。
「そういうお前は真柴さんと話さなくていいんですかー?」
敦が白々しく言った。完全に浮いている。
「いいよいいよ、帰りに話すし」
「うっわー!こいつむかつく!前々から真柴さんと仲良かったからむかついてたけど、今はさらにむかつく!」
敦は牧を自分の机の上から押しのけた。いつもと同じような光景だ。一之瀬がいなくても、いつもと同じような光景だ。
その日の帰り、行くあても無いのにあの川の近くを歩いていた。まぁ、本当は、一之瀬の家に行こうか迷ってるうちに、ここに着いてしまったんだけど。
橋の上に一之瀬と三十くらいの男が一緒に立っていた。知らない人だった。ふと、一之瀬と目が合った。それに隣の男が気付いて一之瀬に何か話しかけていた。
「どうしたの?」
一之瀬が駆け寄ってきた。表情は昨日よりも柔らかい。
「いや、暇だったから散歩に。一之瀬は?」
「治療の一環だってさ。あの人が昨日言った先生。いい経験になるからって押し付けられちゃったんだと思う。大学で心理学研究してるんだって」
まだ橋の上にいたその先生を見ていると、向こうはこっちに気付いて笑って会釈した。
「いい人ぶってて嫌な先生?感じよさそうだけど」
その先生に会釈を返してから言った。
「感じ良さそうだから嫌なの。やる気満々って感じなんだもん。あたしが初めての患者らしいから仕方ないけど」
一之瀬は、そう言ってため息をついた。一之瀬の話を聞きながらその先生を見ていたら、その先生がこっちに歩いてきた。
「一之瀬さんの友達?はじめまして、長谷川です」
長谷川さんは、笑顔を絶やさないことがモットーです、と言わんばかりの笑顔だった。確かにいい人ぶってるかもしれない。
「はじめまして、上村です」
俺が答えると、長谷川さんは俺を上から下まで一通り見て記憶しているようだった。
「上村君ね、よろしく」
満面の笑みだった。苦手だ、と素直に思った。
「じゃあ、僕はこの辺でおいとまさせてもらうよ、またね」
長谷川さんはそう言って手を振った。俺達は仕方なく手を振り返した。
「どう?なんか嫌じゃない?」
「確かにいい人ぶってるかもね」
そう言って、二人で笑った。
「あたし、しばらく学校行けないかもしれないなぁ」
一之瀬は不意につぶやいた。
「え、どうして?」
「だって、学校で泣き出しちゃったら、あたし、やばい人だって思われちゃうじゃん」
そう言って苦笑いして、ため息を吐いた。
「そっか、一之瀬が学校来れるようになるの、待ってるから」
俺がそう言うと、一之瀬は突然笑い出した。
「え、どうしたの?」
何がどうなったか分かんなくて思わず聞いてしまった。
「だって、待ってるから。ってまじめな顔して言うんだもん」
一之瀬はそう言って思いっきり笑った。急に恥ずかしくなった。ただ、一之瀬は昨日に比べて、明るくなっていた。元に戻っていってるんだ、そう思った。